第一話
早苗が目を覚ますと、病院独特の匂いが鼻についた。
家の物とは違う白い天井。
寝心地が今一つのベッドと枕。
何処かの病院の病室だろうか。
ベッドの周りはカーテンが締め切られており、部屋の詳細は分からなかったが、ベッドサイドにあるカード式のテレビや棚、その下にある小さな冷蔵庫などは子供を出産した時に入院した産婦人科とどことなく似ていた。
起き上がろうとすると、頭を始め身体のあちこちがズキズキと痛む。
左腕には点滴が打たれており、動かし辛い。
服は着替えさせられており、病院の物だろうパジャマを着せられていた。
頭にかかった靄が晴れるように意識が覚醒してくると、直前の記憶が脳裏に蘇った。
16時までのパートが終わり、夕飯の買い物を済ませた帰り道、歩道で自転車を押す早苗に突っ込んでくる白い乗用車。
運転席には長い髪を茶色く染めた五十代半ばの、やや派手なメイクをした女性の姿があった気がする。
顔はハッキリ思い出せないのに、何故かケバいオバサンと言うイメージだけが強烈に残っていた。
早苗は咄嗟に避けて車が身体の一部に当たって自転車ごと転倒したが、パッと見大きな怪我は負っていないようだった。
頭を打ったような気もするが、記憶が曖昧でハッキリしない。
あの後気絶でもしたのか、気付くとこの病室に居たのだ。
今は何時だろう?
子供たちは大丈夫だろうか。
連絡さえ取れていれば、夫か近所に住む彼女の叔母、真由子が見てくれていると思うのだが。
早苗には二人の子供が居る。
上は中学一年生の女の子、下は小学五年生の男の子。
どちらも多少は家事の手伝いはしてくれるが、二人でまともに夕飯を作れるとは思えなかったし、叔母とは祖母と孫にも似た関係を持っている。
叔母にも娘と息子がいるのだが、どちらも独身でまだ孫が居ないせいもあるのかもしれない。
勉強も大事だけど、子供達にも少しずつ家事を教えていかないといけないな。
人間いつ何が起こるか分からないのだから。
記憶が曖昧なせいで現実味は無いものの、身体の痛みやこの状況が明らかに事故の後だと教えてくれる。
誰かに名前を呼ばれて、咄嗟に避ける事が出来た気がするが、その声が男性であったのか、それとも女性だったのかも思い出せない。
そもそも人通りの少ない道だった気もするのだが、それもまた曖昧だった。
相当強く頭をぶつけたのかしら?
少し怖くなってきた早苗は、ベッドの上を見回しナースコールのボタンを見つけて押した。
〈はい、今行きます〉
やや冷静そうな女性の声がベッド上のスピーカーから聞こえ、パタパタと早足で歩く音が室内へと向かって来た。
「失礼します」
先ほどと同じ声が聞こえ、シャーッと軽快な音を立ててカーテンが開かれた。
そこに立っていたのは白衣を着たややキツめの印象を受ける看護婦だった。
「倉橋早苗さんですね?
気分はいかがですか?吐き気など何処か体調が悪い所はありますか?」
これは仕事ですから。
言外にそう告げているかのような口調で尋ねられ、「はい、そうです。吐き気はありませんがあちこち痛いです」と素直に答えておいた。
本当は家族の事や何が起きたのかを聞きたかったが、看護婦はそれらを聞きにくい雰囲気を出していた。
多分仕事が出来る人なのだろうと思われる目の前の看護婦は、早苗が苦手なタイプの女性だったというのもあった。
「分かりました。
今先生を呼んできます。
少しだけお待ち下さい。
詳細はその際説明があると思います」
早苗が言葉を飲んだのに気付いたのか、そう言うと看護婦は再びカーテンを締めて病室を出ていった。
ちらりと部屋の一部や隣のベッドが見え、二人部屋なのだろうと予想する。
費用は結構掛かるのだろうか?
何日間の入院だろう?
相手がちゃんと保険に入っていると良いのだけれど。
まだまだ手もお金も掛かる子供が二人もいるので、どうしても気になってしまう。
六年前に亡くなった母や近所に住む叔母ならきっと、「こんな時にそんな事を考えてはダメよ。あれこれ考えたら疲れちゃうわ。今はゆっくりと休みなさい」とでも言うだろうと想像し、少しだけ気分が軽くなった気がした。
お母さんとまた話したいな。
ふっとそんな事を思うが、それは叶わない事なのだと思うと今度は寂しくなってきた。
〈大丈夫よ…〉
ふっと母の声が聞こえたような気がしてほっこりしていると、複数の足音が近付いてきて再びカーテンが開かれた。
40代の白衣を着た男性、多分担当医なのだろう、と先程の看護婦、そして開いた病室のドア付近には制服を着た30前後に見える警察官の姿もあった。
「現状を説明させてもらいますね。
ざっとではありますが、診察と検査の結果、打ち身が数か所ありますがそれ以外の異常は見られません。
ただし、頭を強く打ったようですし、その他の精密検査も受けて貰いたいので、2〜3日入院していただく事になります」
医師はそれだけ説明すると、今晩は絶対安静。
明日以降は様子を見てと説明し、看護婦を連れて席を立った。
入れ替わりで警察官が病室へと入ってきて、「私は柏木署の小杉と申します。少し時間を頂いても?」と訪ねてきた。
「えぇ、構いませんが先に詳細を教えてください」と尋ねる事になった。
「ここは柏木記念総合病院です。
ご存知ですか?」
そこは家から自転車で十分ほどの総合病院であり、亡き母を看取った病院でもあった。
「えぇ、わかります」
早苗の返事を聞いて小杉と名乗った警察官は説明を始めた。
「貴女は16時半頃、柏木一丁目付近で事故に合われた。
白い自動車と接触事故に合われたのです。
運転手は意識不明となっています。
人通りは無かったのですが、近所の方が一人目撃者して居まして、その方が通報してくれました」
たまたまベランダで洗濯物を取り込んでいた主婦が事故が起こる直前から全てを目撃しており、警察と救急車を呼んでくれたそうだ。
自転車は大破したものの早苗には大きな外傷はなく、しかし目撃者によれば倒れた際に頭を打っていたようだったと証言もあったと言う。
写真を一枚見せられ、知り合いか尋ねられるも全く知らない、服装も化粧も清楚な、品のあるが大人しい、そんな60歳過ぎの女性が写っていた。
名前は大槻瑞穂と言うらしく、名前にも聞き覚えはなかった。
事故に合った際、目が合ったような気もしたがやはりケバいオバサンのイメージしか残っておらず、参考になるか分からないが早苗は微かな記憶を頼りに説明する。
「なるほど。しかしおかしいですね。光の加減などもあるのかも知れませんが」
写真に写る女性はどう見ても60代、髪も多少白髪が混じった黒髪だった。
警察官の話によれば、搬送時も写真に近い状態の化粧しかしていなかったらしい。
「気を失っている間に夢でも見たのかしら?」
早苗は曖昧な記憶に自信を失い呟くと、「それは良くあることですよ。咄嗟の事ですからね」と小杉は柔らかい笑みを浮かべて励ましてくれた。
必要な内容は曖昧な記憶ながらも答え、小杉は礼を述べて「何か思い出したらお知らせください」と名刺を置いて去っていった。
今何時だろう?
ふっとベッドサイドを見ると小さなデジタル時計が目に入った。
PM8:40
四時間近く寝ていたのか。
そんな事を思いつつ、家に電話出来ないかナースコールしてみようとすると、やや慌ただしい足音が聞こえて来た。
病室のドアから姿を見せたのは夫の健二だった。
「遅くなってすまん!
連絡を貰ってすぐ来ようとしたんだが、どうしても抜け出せない仕事があって」
早苗の姿を見て拝むように手を合わせて謝る夫。
何か言う前に謝る彼に若い頃は素直に謝れる人なのだと好感を持てたが、今となっては彼なりの処世術でしかないのだと理解している。
何でも謝れば済むと思っているのだろうか?
酷い怪我と言う訳でもなく、下手にゴネても子供っぽい部分のある夫の事だ。
下手に機嫌を損ねれば拗ねて面倒な事になるに違いない。
早苗の中では健二に対していつしか恋愛感情が消え去り、子供達の「お父さん」と「お母さん」になっていた。
下手をすれば夫の母親役すらしているのではないかと思える時がある。
早くに母親を亡くした夫はややマザコンの気質がある。
こんな時にまで頼らせてはくれないんだね?そう喉元まで出掛かった言葉を飲み込み、早苗は「大した怪我じゃないから大丈夫よ」と答えた。
「そうか。いつ頃退院出来るんだい?」
良かったの一言もないのか。
そう思いつつ検査のために2〜3日入院が必要な事を話す。
実際問題、仕事内容によっては確かに抜け出せない事もあるだろうし、職場から急いで病院に直行しても1時間半は掛かる。
たまに趣味で出掛ける以外はタバコも吸わず、お酒も付き合いだけで家では殆ど飲まず、大きな無駄遣いする訳でもない。
休みの日には子供達の宿題を見たり、映画や買い物に連れ出してくれる良い父親なのかも知れない人。
夫婦の関係もここ数年はご無沙汰だったが、夫にはすでに男性を感じなくなっていたので逆に有り難い位だ。
何処か冷めた想いを悟らせないよう、静かに笑いつつ、早苗は家の事を訪ねた。
やはり叔母の真由子が家の事はやってくれているらしく、少しホッとするのだった。
明日には来てくれると聞き、2〜3日入院する事も伝えると、「明日は手続きも色々必要みたいだし、また来るよ」と言って夫は帰って行った。
最後まで「大した怪我じゃなくて良かった」とも、「ゆっくり安め」とも言わない夫に少なからず失望しながらも、今はゆっくり眠ろうとそう思う早苗だった。
一体どれほどの間ウトウトとしていたのだろう?
早苗が目を覚ますと消灯時間を過ぎたのか常夜灯以外の証明はほぼ消され、病室は薄闇に包まれていた。
患者は眠っても病院は眠らない。
総合病院なら尚更だろうと早苗は思う。
夜勤の看護婦は交代で休憩を取るだろうが、それでも誰かしらが起きて仕事をしている。
急患だって受け入れている総合病院だ。
町の規模を考えれば尚更だろう。
ぼんやりと母の最後を看取った日を思い出した。
完全看護ではあるが、医師が保ってあと数日と診断を下してからは泊まりでの付添を許可され、叔母と交代で数日間付き添ったのだ。
あれはどの部屋だったろう?
個室だった事は覚えているが、六年の歳月は記憶を段々と薄れさせて行く。
写真はあるので顔は忘れる事がなく、話し方こそ少し違うものの叔母が良く似た声をしているのでそれも忘れる事はないだろう。
それでも子供の成長やパートの事、日々の生活を送るうちに、母を思い出す事は減っている。
もしかしたら自分は冷たい娘だったのかも知れない。
深夜に考え事をすると碌でも無い事を考えてしまうと言うけれど本当かも知れない。
薄暗い病室のベッドの上で横になりながらぼんやりとそんな事を考えていると、ヒソヒソと誰かの話す声が聞こえて来た。
それは男のようでも女のようでもあり、変声期前の子供が内緒話をしている様な、そんな声だった。
娘の美奈子と息子の保が幼い頃、時々丸聞こえの内緒話をしていたな。
早苗は懐かしい気持ちになってベッドから身を起こした。
小児病棟が近いのだろうか?
廊下の方からそれは聞こえてきた。
「ねぇ…聞こえて…だよ」
「ほん…だ!」
パタパタ。
そんな事を話ながら軽い2つの足音が病室から遠ざかって行く。
あんなに大きな画像足音を立てたら看護婦さんにバレて怒られないかしら?
早苗はクスっと笑い、再び訪れた睡魔に身を任せることにした。
沈み込むように薄れ行く意識の中、〈本当にそうね〉と再び母の声が聞こえた気がして、早苗は暖かい気持ちに包まれて眠りにつくのだった。
平成元年前後を舞台としている為、現在では看護師と表するのが基本ですが、あえて看護婦と表記しています。
加害者の氏名を加筆しました。