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轍ーわだちー

作者: 聖之丞

 これは、私がブログで書いた、母の看病から今に至るまでをまとめたものです。

 母を亡くし、今なお闇が広がる感覚を持ちながら、それでもより、多くの人に、親という存在や病気と向き合うこと、看病する人間の想い、辛さ、葛藤を伝えていきたいと思い、執筆に至りました。

 ブログの内容をそのままアップしています。

 その時の想いが、そのまま反映されています。



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1:2019年7月18日


今、生きるあなたのために




皆さんこんばんわ、お久し振りです、聖之丞です。


最近ご無沙汰しておりました。


実は、ブログを書くような気分になれず、何をどうしたらいいかもわからず。


自分の気持ちがいっぱいいっぱいになってしまっていました。




冒頭からすごく重たい空気になってしまいましたが、これから綴ることは、今、私が直面している現実です。


苦しく、重くのしかかっている現実に、私は向き合っているようで、実は目をそらしていたんだなって思って、こうして今、ブログという形で、自分の気持ちを吐露することこそが、今向き合うべき問題への、自分なりの気持ちの整理だと思ったので、筆を執りました。




初めに、この先の内容は、重く、決して楽しいものではありませんことを、先に申しあげておきます。


そして、もしこのブログを読んで、同じ状況にある人が、少しでも、気持ちを整理するお手伝いになれましたら、幸いです。








2019年2月20日


この日が私の人生を変える日になることを、当時の私は思いもしませんでした。


昨年7月、私の母が、尿道癌であることがわかり、同年8月に癌と周辺臓器を全摘出する、大きな手術を行いました。


11時間半にも及ぶ、長い時間、母は手術に耐え、頑張ってくれました。


1か月間の入院を経て、9月に退院した母は、まだ本調子ではないものの、よく笑い、この先を楽しむべく、入院、手術の為にできなかったことを、改めて仕切り直し、やりたいことの為に頑張ろうとしてくれました。


しかし、10月に入り、再度入院。


原因は骨髄炎でした。


8月の手術の際、恥骨を削り、骨膜に内臓を留めるため、糸を通したことが原因とみられています。


25日間の入院を経て、退院した母は、元気になってきたのにね、と落胆していましたが、それでも、日々を生きることに、希望を持っていました。


12月の健診でも異常は見られず、回復してきた母と買い物に出かけたり、食事に行ったりと、楽しく、時には喧嘩もしたけれど、過ごしていました。


そして、2月20日。


母の癌が再発したことを知りました。


その日、私は仕事が休みで、視覚障碍者の妹を、通いの施設に送るため、母に一人で健診に行ってもらいました。


しかし、母はそこで一人、がんの再発を申告されました。


昼過ぎに母から電話がかかってきて、いつもの調子で、電話に出ました。


電話越しの母から「再発だって」と、言葉を聞いたとき、母の落胆が感じられました。


電話越しで、弱気になって、泣いている母を叱咤し、帰宅を促しましたが、少し出かけてくるというので、好きなことをしておいでと、送り出しました。


電話を切り、姉に母の癌の再発の連絡を入れたのち、私は祖父の仏壇の前で号泣しました。


なぜ、母なのだ。


漸く気持ちが前を向き始めたばかりだったのに。


苦しい事ばかりが、なぜ、私の家族に降りかかるのだ。


私の家は幼いころに両親が離婚し、母子家庭で育ちました。


視覚・知的障害者である妹は、何をするにも介助が必要で、幼いころは病気がちで、入退院を繰り返し、次に大きな発作が起これば命の保証がないとまで言われていました。


今は誰よりも元気に日々を過ごしています。


姉も、昔から苦労を背負う人でした。


16歳のころ、母が狭心症で入院し、手術の同意書にサインをして、母の命の保証人になったのです。


母もたくさん病気を抱えながらも、大変な思いをして、3人の子供を成人するまでしっかりと育ててくれました。


家族四人で、たくさん苦しいことがあっても乗り越えてきた。


このことが誰にも負けない、家族のきずなとなって、私の誇りです。


喧嘩することもあります。


でも、一緒にいるときは、ほとんどの時間を笑って過ごしている。


笑顔の多い家族です。


その笑顔を、なぜ、奪いに来るのか。


哀しくて、悔しくて、泣いて、泣いて、泣いて、呼吸がうまくできなくなるまで泣いて、でも、まだ、治療することができる。


その希望を持って、私は深く息を吸って、泣くのをやめました。


泣くだけ泣いた。


まずは治療だ。


そして、3月25日。


母は抗がん剤の治療のため、入院しました。


しかし翌日、母から電話が来て、右腎臓に尿がたまり、腎ろう造設の緊急手術を行う必要があると言われ、すぐに病院へ向かいました。


高熱で意識も朦朧な母。


看護師さんから、行う手術の概要を聞き、手術の時間になって、手術室まで母を見送りました。


手術の時間は大体1時間ほどだと伺っていました。


待合室で呼ばれるのを待っていると、看護師さんが神妙な顔で告げた命の危機。


術後、42度の高熱を出した母の血圧が急激に下がり続け、昇圧剤を投与してようやくぎりぎりのラインを保っていると、医師からの説明を受け、今夜が山場ですと宣告された。


最悪の場合を覚悟しなければならない。


心臓がはじけ飛ぶかと思うくらい苦しくなりましたが、それでも今、母は生きている。


頑張って生きようとしてくれているのだと、集中治療室で眠る母を見て、私自身が休まなければと、一時帰宅。


姉や親せきに母のことを連絡し、ベッドへ入りました。


眠ることができませんでした。


いつ、病院から電話がかかってくるかわからない。


寝入ってしまって、電話に気づかなかったらどうしよう。


不安なまま一夜明け、再び病院へ向かい、母の様子を医師に伺いましたが、昨日と変化はないと告げられました。


このまま、目も覚まさないまま、私を置いて行ってしまうんだろうか、そんな不安で夜も眠ることができず、その日も過ぎていきました。


術後三日目、昇圧剤の本数が減り、声をかけると少しだけ目を覚まして、乾いた口でわずかに喋ることができるようになった母を見て、心底安心しました。


まだ予断は許さない状況でしたが、それでも、私は母の意識が少しでも戻ったことが嬉しかったのです。


翌日、昇圧剤が外れ、血圧は安定。


意識はまだ朦朧としていましたが、集中治療室を出て、病棟の観察室へ移動することができました。


それからの回復は思った以上に早く、意識が回復し、安定してきたので、4月頭に腎ろう造設の再手術が行われ、無事に今回は成功しました。


手術が終わり、病室へ戻ってきた母は私の顔を見るなり、ぽろぽろと泣き始めました。


「生きてる実感がわいてきた」


そう言った母が、手術をして、何も残せず死んでしまうのではないかという恐怖と戦っていたことを知りました。


術後二週間。


抗がん剤の治療が再開しましたが、一週間で治療は中止となりました。


白血球が著しく減少し、抗がん剤治療を継続することができなくなってしまったのです。


ここにきて、最後の一手を失ってしまいました。


抗がん剤の治療もしないのに入院を続けていたくない、家に帰って家族との時間を大切にしたいという母の希望で、自宅療養に切り替わりました。


退院前、医師からの説明で余命5か月との宣告を受けました。


もしかしたら、そこまでもたないかもしれない、とも。


ここで私は、母を失うことの覚悟をしました。


辛く苦しい覚悟でした。


そして4月26日に母が退院。


この日から、母と妹の介護生活が始まったのです。


訪問医師と、訪問看護師を入れて、週に2度看護師さんが来てくれるようになりました。


とても話しやすく、いい人たちで、母のストマ交換や腎ろうの消毒、ガーゼ交換もすっかり任せていました。


そして、5月16日、腎ろうのカテーテル交換の日。


交換が終わり、腹痛を訴えていた母ですが、痛み止めを使って、落ち着いたところで病院から帰宅しました。


しかし、帰宅後、痛がり方が尋常ではなく、訪問看護師にいつもと様子が違うことを伝えましたが、痛み止めを使って様子を見ろとの指示。


それでもおかしいと伝えましたが、医師に相談するからと電話を切られてしまい、母の命が危ぶまれたので、私は受診している病院へすぐに連絡し、救急車で受診している病院へ向かうことを決めました。


その旨を訪問看護師に連絡すると


「ちょっと待って、どういうこと?」


と言われ、責められる形になりました。


「この状態はおかしい、母の命の危機だ」と伝え、訪問看護師が自宅に来た頃、救急隊の方たちとともに私は家を出るところでした。


もだえ苦しむ母を目の前に、看護師はなんの言葉も掛けず、医師に「今から救急車で搬送されます」と、苛立った様子で連絡を入れ、私に挨拶もせずに帰っていきました。


その態度に私は激怒しましたが、今はそれどころではないと、母に付き添い病院へ。


交換したカテーテルが腎臓から抜けていたため、排尿ができずに痛みが出たらしく、手術室が空き次第すぐに再手術を行いました。


数日入院ですぐに退院できましたが、同じ訪問看護ステーションを使い続けることは、私はどうしてもできず、病院で相談し、新しい訪問看護ステーションを紹介していただき、現在も利用させていただいています。


退院後一週間して、親戚一同が会し、母が希望していたバーベキューを行いました。


すごく楽しそうで、よく歩いて笑っていました。


しかしその後、食欲が減退し、体調を崩しました。


三週間ほど食事がとれず、嘔吐を繰り返していましたが、点滴治療の甲斐あって、回復。


一緒にカラオケに行ったり、食事をとれるようになりました。


しかし、また体調を崩し、点滴生活。


その繰り返しで、その間、妹の世話は続いていました。


母が入院していた期間が長かったため、不安で情緒不安定になった妹は、不眠で暴れたり、攻撃して来たりしました。


その対応をしつつ、母の容体が悪ければ看護師に連絡を入れて、薬の使用や座薬をつかったり、点滴を取り替えたりと、休む間もなく。


三月終わりから七月の頭まで、ほとんど眠ることもできず、遊びに行くこともできず、うまく働きに出ることもできず、助力もなかなか得られない状態でした。


たった三か月と、思われる方もいらっしゃいますでしょうが、その三か月が、私にとってはひどく辛いものでした。


やりたいことはできないし、息抜きもできない、眠ることもできない。


なのに、周りはみんな好きなことをしている、楽しんでいる。


そのこともまた、ストレスとなってのしかかり、ついには爆発してしまいました。


夜中に妹が暴れたとき、もう限界だと、うずくまってしまった私を見て、母が泣いてしまいました。


「お前にばかり苦労させて、報われなくて、不憫でしょうがない。自分が病気にならなければ、もっと早く治療していれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに」


そんなことを、言わせてしまった自分が情けなくて、申し訳なくて、また、頑張ろう。


そう思い直して、頑張ることを決めました。


けれど、母が夜中に嘔吐、禁食になったことで精神的に落ち込んでしまい、情緒不安定で、苛々して八つ当たりされたり、もう長くない、もたない、無理だという言葉を口にしている姿を目の当たりにし、母の担当の訪問看護師さんに、思いの丈をぶつけてしまいました。


そこで言われた言葉が、今こうして、私がブログを書くまでに気持ちが回復するきっかけをくれたのです。


「爆発していいんだよ。病人だけど、母親なんだから、ちゃんと思ったこと言って、泣いていいんだよ。お母さんは、ちゃんと受け止めてくれる。自分の為に頑張ってくれてること、ちゃんとわかってるから」


「力を抜けって言われても、きっと力を抜くなんてできないと思うから、ぶっ倒れるまで頑張っていいよ」


「その分私たちがちゃんと支えるから」


そう言ってもらえて、頑張ってもいいんだ、頑張ってることを、認めてくれてるんだと、気持ちが楽になりました。


そして、介護するうえで必要なことは「自分の気持ちに素直になること」なんだと、気づきました。


辛いときは辛いと言っていい。


苦しいなら苦しいと言っていい。


自分が何とかしなきゃ、って思い詰める必要はない。


無理なものは無理なんだ。


そう思っていいんだと、気づきました。


三か月間、本当に心をすり減らしてきて、ようやく、スタートラインに立った気がしました。




食事がとれる量も徐々に減ってきて、起きていられる時間も少なくなってきている母の、この先は病気が病気なだけに、短いことはひしひしと感じています。


目の前で、命の炎が弱っていく様を見ていくという覚悟。


それを改めてしました。


でも、今、母は生きています。


生きることを諦めそうになっても、それでも、少しでも長く、生きようとしてくれています。


そんな母の為に、私ができることは、きっと素直にちゃんと気持ちを伝えることなんだと思います。


我慢して笑って、大丈夫だよって言うのは簡単ですが、素直に自分の気持ちを伝えることが苦手な私だからこそ、母はきっと、私の本当の心を伝えてほしいのだと思います。


確かに、人ひとりの命が失われていくこと、それが自分の支えになっている人だからこそ、なおのこと、受け入れることが苦しいです。


でも、看護師さんに言われました。


「全力でやるだけのことをやったら、その介護にきっと後悔はしない」


私は、母の為に、後悔したくない。


だから、きっと、これからもいろんなものをすり減らしながら介護を続けていきます。


妹のことも、世話していきます。


それはきっと、私の誇れることになると、今は信じているからです。




長く重苦しい話になってしまいましたが、ここまで読んでくださってありがとうございました。




聖之丞


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2:2019年8月3日



覚悟すること




皆さんこんにちわ、聖之丞です。


前回のブログで、母親の病気についてお話しさせていただきました。


あれから十日後、母親の病状は一気に悪化しました。


現在は医療麻薬を使って痛みや苦しみを取り除く処置をしていただいています。


一日のほとんどを眠っている母。


お医者様より、2、3週間もつかどうか、というお話もありましたが、今は4、5日もつかどうかという危うい状態です。



昨日も痛みと苦しみで呻き、点滴をしてようやく眠りました。


けさ早く目覚めた母は、やはり苦しみながら呻き、泣いていました。



「死にたくない、早く助けて」



母の言葉が耳に残ります。


目が覚めるたびに、もしかしたら苦しむことになるかもしれない。


そう思うと胸が締め付けられる思いです。


お医者様、看護師さんから提案されたのは、意識をとってあげる薬を投与して、痛みや苦しみをとってあげること。


そうすることで、今後、母親と話をすることはできなくなります。


でも、痛みや苦しみを感じて、不安になることもなくなります。


私が今、選択すべきは、きっと、母の痛みや苦しみ、恐怖をとって、少しでも落ち着いて眠れるようにすることだと思っています。


理性では、それを選択すべきだと、おもっているのに、感情はそれに頷けません。


眠らせてしまったら、もう目の前にいる母と話すことも、笑いあうこともできなくなってしまうからです。


まだ話したいことがある。


まだやってあげたいことがある。


まだ見せたいものがある。


やってあげたいことは、たくさんありすぎて、でも、私の気持ちとは裏腹に、病状はどんどん悪化していきます。


眠る母の顔を見るたび、私も失う恐怖を感じています。


でも、覚悟することは、必要なこと。




今まで、こんなに頑張ってきたんだから、ゆっくり休ませてあげよう。


そう思う自分の感情も確かにあるのです。




週明けに、また、母の様子次第で、覚悟を決めて、決断します。





ここまで読んでくださって、ありがとうございました。




聖之丞


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3:2019年8月4日



残りのすべてを





皆さんこんばんわ、聖之丞です。


先日から、母親の病状をお伝えさせていただいておりますゆえ、重い内容になってしまっていること、読んでくださっている皆様には大変申し訳なく思っております。


ですが、こうしてここに書くことによって、私の気持ちの整理をしていることを、どうかお許しください。




8月2日金曜日の夕方より、母の病状が悪化し、土曜の朝も、苦しんでいて、意識をとる薬のお話を、前のブログでさせていただきました。


8月3日土曜日、夕方4時半より、意識をとる薬の点滴を開始いたしました。




起きるたびに、苦しみ、呻き、会話もままならず、従兄姪が来ていても、焦点が合わず、朦朧としていました。


眠り、痛みと苦しみから解放された母の寝顔は、大変安らかで、今にも起きてきて



「あー、寝すぎた、身体いたい」



なんて言い出しそうです。


もう、話をすることはありません。


もう、楽しいことを共有することはありません。


もう、苦しむ必要もありません。


恐怖に怯え、泣くこともありません。


ただあとは眠ったまま、少しずつ、少しずつ、その時を待つだけです。


酸素濃度が上がらず、今日から酸素ボンベを使っています。


血圧も低く、きっと本当に、その時が近づいているのを実感します。




今日、親戚が一堂に会し、私から、母親のことを伝えました。


急変し、痛みと苦しみに侵され、意識も朦朧としていて、会話もままならない。


そんな状態でいるより、今まで苦しんだ分、最期は何の苦しみもなく逝かせてあげたい旨を、伝えました。


親戚が帰る前、従兄弟のおにいちゃんが、私が一人で賄えない部分を、みんなで協力しようと、取り仕切ってくれたことや、もう一人の従兄弟のおにいちゃんだけが、私のつたない説明でも、理解してくれていました。


親戚が帰った後、母のスマホの連絡帳を見ながら、母の友人や知人に、姉と分担して連絡をいれて状況を説明してまわり、近所の方が母の顔を見に来てくれて、母は人に迷惑をかけられて苦しい時間も過ごしてきていたけど、人から愛されているんだなぁと、嬉しい気持ちで、いっぱいになりました。





在宅看護をはじめ、三か月半ほどになりますが、苦しい時間も楽しい時間も、たくさん、共有することができました。


カラオケが好きで、一緒に行ったこと。


やりたいことを話し合ったこと。


旅行について話したこと。


苦しい時間の中にも、笑っていた時間は、確かにありました。


家族として、してあげられることは、限られていたけれど、できるだけやれました。


自己満足かもしれないけれど、後悔はありません。


きっと、後悔するようなやり方は、私自身がしてこなかったと思います。


心残りはありますが、それは後悔とは別のものだと思っています。


あれやりたい、これやりたい、言ってたことすべてを叶えるなんて、普通に生きている中でも、できることではないので。





私は母に、笑顔をたくさん見せてあげられたと思います。


笑っていることで、母は私の心配をしていることもありましたが、ふざけて笑いあうことも多かったのです。


私は、昔から手のかかる子供だったのですが、そんな私が、今、一番母の側で手をかけているねって、姉も笑いました。


母の天然なところが、いろんなところで残っていて、笑って過ごしています。





ここまで読んでくださってありがとうございました。





聖之丞 


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4:2019年8月9日




皆さんこんばんわ、聖之丞です。 


以前より母の病状についてのブログを数件あげさせていただきました。


お読みいただいた方、ありがとうございました。




本日、14時40分、姉妹三人で看取ることができました。



薬で意識のない母でしたが、三人で会話をしていると、安心したのか、呼吸が止まり、呼びかけると一瞬大きく目を見開いて、何か言いたそうに口を開き、そのまま安らかに最期を迎えました。


自宅看護をしていて、こういう瞬間は絶対に来るとわかっていても、やはり、最期の瞬間を見ると、辛いものがあります。




寂しいよ



置いていかないで



一緒にいて



そんな気持ちが、どんどんあふれてきて、涙をとめることはできませんでした。


わーわー泣いて、泣くだけ泣いて、落ち着いてから方々連絡を入れて、手続きなりなんなり。


いまはだいぶ落ち着いています。





なんか、白い布を顔にかぶせられていても、母がもういないなんて実感は、全然わいてこなくて、ひょっこり起きてきそうです。


女手一つで三人娘を育て上げ、病気と闘いながら、頑張って生きてきた母。


最期は会話もできなかったけれど、頑張ってくれて、ありがとう。


生んでくれて、ありがとう。


母の看護をすることで、たくさん自分の時間を奪われたような気がしてた時期もあったけど、今となっては、母がいろんなことを私に教えてくれる、勉強の場だったなって思います。


人の命は、病気や事故で簡単に奪われていきます。


それでも、懸命に生きようとする人の生命力を目の当たりにして、命の尊さを学びました。


母を通して、人の為に頑張ることを覚えました。


辛いときに、辛いと言える素直さも覚えました。


母からもらったものは数えきれないほど多くて、対立することだってあったけど、たくさん学び、愛情も惜しみなくいただきました。




数か月間ではあったけど、母の看護ができてよかったと思います。


本当に、今までありがとう。


大好きだよ、お母さん。


ここまで読んでくださってありがとうございました。



聖之丞


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5:2019年8月12日



またね



皆さんこんばんわ、聖之丞です。



母の葬儀・告別式も終了し、喪主としての仕事は本日をもってひとまず一段落しました。




たくさんの方が、母の通夜に参列してくださり、母が愛されていたことを実感しました。


今回、母の葬儀は音楽葬にしました。


生前、母が好きだった曲を流しながら、しんみりしない葬儀にしたいと思っていたからです。


多少段取りが悪くグダグダになった部分はありますが、大好きな音楽を聴いて、きっと母も喜んでくれたことと思います。




これからまだまだ残された私たちはやることがいっぱいですが、今週はお盆なので、役所もお休みなので、私もお休みしようと思います。


張り詰めてきた心が、少しずつ解かれていくのを感じます。


お骨になって帰ってきた母を前にしても、まだ夢を見ているようです。


何事もなかったかのように、「ただいま~」なんて言って玄関から帰ってくるんじゃないかって感じがしてしまうのは、きっと母がいつも、明るく楽しい人だったからなのかもしれません。


暗く沈む私たちをきっと見たくないと、言っている気がします。




生前の母は、鬼のように厳しい反面、情に厚く優しい人でした。


自分が苦しくても、人の為に身を削る人で、ばかだなぁって思いながらも、誇らしい母でした。


私は、そんな母のもとで育てられ、何事にも全力でぶつかる母でしたから、私が引きこもりの時も、一生懸命外へ引っ張り出してくれました。


いじめられた時も、全力で戦ってくれたのは母だけでした。


成人して、自由にやりたいことをやる私を窘め、しっかりと前を向いて、胸を張って歩けるように、道を示してくださいました。


一緒に行ったカラオケでは採点で競い合い、ランチを食べて、母が食べきれない分を私が完食するものですから、私が太ったのは、きっと母のせいでしょう。




まだ、何も実感として、目の前にありませんが、たった一人の愛する母のため、これからも自分に胸を張って歩けるように努めていきたいと思います。






お母さん、お母さんの子供で、本当に幸せだよ、ありがとう。


いつかまた会う日まで、すこしだけ、さみしいけど、またね。





ここまで読んでくださってありがとうございました。





聖之丞


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ここまでが、母が病気と闘って生きてきたことの証明です。

私の気持ちは、今でもまだ、明るく晴れ渡っているわけではありません。

人をなくすということは、こんなにも苦しく、辛いものなんだと、現実を叩きつけられています。



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6:2019年9月7日



悲しみや寂しさの中でも




皆さんこんにちわ、聖之丞です。


母が亡くなってから、もうすぐ一ヶ月が経とうとしています。

早いですね。

まだ八月な気がします。



身体、知的障害をもつ妹に、母の死を伝えるのはとても難しく、簡単な言葉を使って伝えたりしていますが、死を理解するには程遠く、半分寝たような状態のときに、やはり、母のことを呼びます。


「お母さん、何してる?」



その言葉が、深く心に突き刺さります。

目が見えない妹は、母の姿を知りません。

棺に花をいれてるときに、さわった母を、きっと母だとは思えなかったことでしょう。

冷たく、氷のような棺の中の母の姿が見えていないのです。

知的に障害があるので、難しいことはわかりません。

死んじゃったんだよ、と言っても、<死>がどういうことかわかりません。

ずっとバイバイしたんだよ、と言っても、夕方を過ぎると玄関の方へ向かいます。

ただいまと帰ってくると、思っているのでしょう。

その姿を見ていると、押し込めたはずの涙が自然と溢れそうになって、でも、妹と一緒に暮らしていくなかで、これはきっと、最初の試練なんだなとも思いました。



障がい者と二人で暮らしていくこと

これは簡単にできることではないと思っています。

今までは母がいて、母が助言をしてくれていたから、私が代わりに動いていたに過ぎないのです。

今度からは、私が自分で考えて、妹と二人で暮らしていかなければなりません。

はっきりいって不安だらけです。

それでも、不安がっていても前には進めない。

二人で暮らすと決めたから。

母の代わりになれるなんて思わないし、きっと望まれてもいないから、私はお姉ちゃんらしく、妹と向き合っていこうと思います。



ただ、いまはまだ、私自身も母を失ったことへの悲しみや寂しさ、不安の直中にあり、まっすぐに妹と向き合えてはいないんだなと言うことも、わかっています。

時間が流れて、悲しみや寂しさが風化するのはきっと何年もたってからだと思います。

そうしてやっと、妹と真正面から向き合えるんだろうなと。

いまはまだ、お互いに悲しむだけ悲しんで、寂しいと泣いて、お互いの存在を確かめあっていこうと、そう思っています。



人は、悲しみも寂しさも乗り越えていけるようにできていると思っています。

辛いとき、確かに孤独を感じても、落ち着いてみたら、なんと周りには私を支えてくれる人がいます。

忙しく心落ち着かないときは、周りが見えず、悔しい思いや切ない気持ちになりますが、そこを越えたさきに、確かに他人の優しさを感じるのです。



まだまだ始まったばかり。

これからが正念場です。



ここまで読んでくださってありがとうございました。



聖之丞



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7:2019年9月24日


ひとつの区切りとして



皆さんこんばんわ、聖之丞です。

最近は朝晩は少しひんやりしてきて秋を感じますね。



さて、今日は母の誕生日でした。

生きていれば58歳になっています。

亡くなってはじめて迎える誕生日なので、せっかくなので、母の好きだった焼肉を晩御飯にしましたが、作りすぎて食べきれず、明日もまた残った焼肉の消費を頑張らなければならなくなりました。

まぁ、作りすぎはいつものことなのですが、食べきって見せます!



母が亡くなり、その実感もないまま、いきるための目標にしていた誕生日を迎えて、改めて、今、本当に居ないんだなぁと感じております。

夢でも見ているような、まだひょっこりと玄関から帰ってくるような感じが抜けない日々。



先日友人と飲んでいるときに、ボロボロ泣きながらさみしいさみしいと話をしました。

全力で頑張った反動はやはり大きく、体は疲れからか一ヶ月、微熱と倦怠感が抜けない状態が続いていて、それでも、家事を一通りこなして、妹の面倒を見てという生活。

でも、頑張ったことは本当に誇りで、後悔はなく、ただ、全力でやってしまったから、終わってからの脱力は激しく、なかなか気持ちも切り替わらず。



ちゃんと笑ってるのかな



そんなことを考えてしまいます。

私は、楽しいことが好きです。

嫌いな人はほとんどいないと思いますが、私は楽しいことが好きで、笑っていたらなんだか自然と楽しくなっていきますよね。

友達と遊んでいるときに、笑顔でいること。

笑顔でいると、周りもつられて笑顔になります。

私は、友達には笑っていてほしいです。

だから、私は誰よりも笑っていようと思っていますが、今、私はそれがちゃんとできているのかな?

義務ではないし、笑ってなくてはいけないこともないのですが、今まで笑っていたのに、笑わなくなったら、心配かけてしまう。

それは、とっても私にとってはよろしくない状況。

私は楽しんでるよ!と言葉にしなくてもちゃんと伝えられるひとつの手段だから、手放せないのです。



でも、私は大きなものを失ってしまって、寝るのもいまいちうまく眠れず、体は常に怠くて、家に一人でいると、やっぱり色々思い出して悲しくなるし。

疲れてイライラして、妹が言うことをきかないとすぐ怒ってしまう。

怒りでは、人は言うことをきかないのは、わかっていても。イライラをぶつけてしまう始末。

後悔ばかりです。

妹だって、一生懸命、母がいない現実と戦っているのに、私だけ辛いなんてことはないのに。


ごめんね


言葉にしても、妹は怒られたことを忘れる訳じゃないし、許してくれても、言った言葉は消えないし。

二人で暮らすようになってから、本当に大変だなぁと感じるのは、怒ったあとにフォローしてくれる人がいないところですね。

今までは、母が怒ったら、そのあと私がフォローして、私が怒ったら、母がフォローして、そうして築き上げてきたものですから、自分で怒って自分でフォローするのは、なかなかどうして、心がかなり疲弊します。



それでも、そうなることがわかっていた部分があるので、私はこれを乗り越えなければなりません。

一人で背負い込む必要はありませんし、助けを求めても良いんだと、わかっています。

けれど、私は元々がどう人に頼って良いかわからない性質的に、お願いをうまく使えません。

なので、ショートステイに妹が行っている間に、休養をしようと思うのですが、家に一人でいるのは落ち着かなくて、つい出掛けていってしまい、また疲れてしまう。

なんだかこの繰り返しで。



反省しています。

そして、今日は母の誕生日なので、これをきっかけに、少しちゃんとした休養をとること、ちゃんと前を向くことをしていこう。

そうして、長い時間を使って、寂しさや悲しさをいつの日か、あのときはこうだったね、と、笑って話せるように、今までだって、頑張ってこれたのだから、きっと出来る。

自分を信じてあげようとおもいます。

疲れてるなら休ませて、苦しくなったら叫ばせてあげよう。

もう少し、自分を甘やかしてあげよう。

そんなことも考えています。


長々と懺悔のようなブログになってしまいましたが、ひとつの区切りとして、ようやく私の人生のスタートラインに向かって一歩を踏み出せる、そんな気がしています。




ここまで読んでくださってありがとうございました。



聖之丞


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8:2019年9月26日



一歩前へ




皆さんこんばんわ、聖之丞です。

今日、母の四十九日でした。

特になにかをしたわけではありませんが、もうそんなに時間は流れていってるんだなぁ、そう感じました。



四十九日ということで、朝から姉の旦那さんが妹の大好きなミスタードーナツのポン・デ・リングを片手に、母にお線香をあげに来てくれました。

夕方にはいとこのお兄ちゃんが来てくれて、本当に母が愛されていたんだなぁと感じました。

また、私たち遺された家族のことも気遣ってもらって、本当に感謝しかありません。



今朝早く、ほんの数分寝入ってしまった時に、夢を見ました。

夢の内容は覚えていないのですが、確かに母が夢に出てきてくれました。

目覚めてから、またすぐに布団に潜り、夢の続きをみたい気持ちで一杯でしたが、眠ること叶わず。

夢でもいいから、会いたいとずっとずっと思っていて、なのになかなか夢にも出てきてくれない母でしたが、夢の中の母は、相変わらずだったように感じています。

懐かしい空気が漂う夢の中、これは夢だとわかって、ドラマでも見ているかのような感覚でまどろみの中にいました。



過去を振り替えれば、悔やまれることは数知れず、でも、そんな中でも必死になって今までやって来たこと。

今、私がうつむき、前を向けずにいることを、母に叱咤された気がします。

なくしたものの影を追いかけていても、前に進むことはできない。

現実は厳しくて、立ち上がれない時もあります。

落ち込んで、泣いて、うずくまって、それでも、生きている以上、苦しくても立ち上がらなければならないときが来る。

母がそうして生きてきたように。



一歩前に進むということが、なんだか母を置いていくような気持ちになって、つい、振り返りたくなります。

今まで前を歩いていたはずの母が、私が歩めば歩むほど、近づいてきて、今なんだかとなりに並んだ気がして。

この一歩を踏み出すことで、もう先へは進まない母を置いていくような、そんな、寂しさと、悲しみが、私の体をがんじがらめにして、動けなくしていました。



でも、このままじゃいけない。

私は、走らなくてもいいけど、歩まなければ。

生きるために。



置いていくのではなく、見送られているんだと、ふと、そう感じたのです。

振り替えれば、変わらぬ笑顔で、私のことを見てくれている母に、私がこれから歩む道を、人生を、見守られているんだな、と。

何だか急に、そう感じたのです。

きっと、私は一人じゃないんだと、伝えたかったのかもしれません。



悩んだときに、相談できる友達がいて

一緒に泣いてくれる友達がいて

ふとした瞬間に連絡してきてくれるいとこがいて

困ったときは連絡をくれる姉がいて



まだ、家の中に母を感じると、涙は流れてくるけれど、それでも。

私はようやく、一歩を踏み出す勇気をギュッと心につかんだ気がします。



家に帰って、ただいまって言っても、お帰りなさいって言葉は返ってこないけれど、今度は私が、お帰りなさいって、言ってあげられるようになろう。

いつまでも、泣いてる姿を見せていたら、不安がってしまうから。



私は泣き虫だけど、強い子だと思ってるので!

泣いたら泣いただけ、強さも手に入れてきたと、思っています。

なので!

弱さも強さに変えて、これからまた、一歩を!



ここまで読んでくださってありがとうございました。



聖之丞



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9:2019年10月8日



2ヶ月




皆さんこんばんわ、聖之丞です。



明日で、母が亡くなって2ヶ月となります。

まだ、2ヶ月なんですね。

この2ヶ月はものすごく長く感じていて、一日一日が過ぎていくのはすごい早く感じるのに、2ヶ月っていう時間はものすごく長く感じ、矛盾した心が、物凄く疲れてしまいます。



それでも、この先、一生懸命生きていかなければなりませんから、辛いことが多くても、悲しくても、頑張らなければなりません。



多くの人に、障がい者の妹を抱えながら、頑張っているね、こんなに頑張ってる人見たことない、そう言っていただいています。

ありがとうございます。



でも、私はその頑張ってるねを、うまく受け入れることができません。

自分が頑張っていると思うラインと、周りが評価する頑張ってるのラインが違うからなのかな?

そう思った時もあります。

けど、素直に頑張ってることを認められないこと、それは、頑張ってる自分を認めてしまったら、もう、頑張れない気がするからなのかもしれません。

私は、こんなに頑張ってる。

そう心のどこかで思っていても、そんな自分を肯定することができない。

もっと、気楽にいられたら、心も疲弊することなく、余裕が生まれるとわかっていても、気負ってしまっている、この心ばかりは、自分でもうまくコントロールすることができません。



姉も妹も、きっと同じような状況にあるのだろうな、そう思います。

母という、大きな心の支えを失い、今まで、辛いことも、苦しいことも、なんでも話せて、アドバイスをくれて、前を向くための指針を示してくれていたから、それがなくなって、私たちの気持ちは、休むことができなくなっているのだと思います。


人には簡単にアドバイスをすることができます。

けれど、わかっていても、できないことがあります。

きっと、病院へ行けば、うつ病などの病名がついて、薬が処方されて、カウンセリングを受けて、心を楽にしていきましょう。

そう、なるのかもしれません。

けれど、私はそれもできません。

時間がない訳ではありません。

予約がとれないなら、他を当たればいいし、一日も空いてないなんてことも実はありません。

それでも、病院へ行って、カウンセリングを受けて、なんていうことを自分自身が望めないのです。



頑張ってる自分に酔っているわけではありません。



ただ、病名をつけられても、それを受け入れることができないのです。



頑張ってきたことを、自分自身が認めてあげられるようになるまでには、きっと、ずっと先のことなのだと思います。

結果が出て、報われた瞬間が、頑張ってよかったと思えるときだから。

自分で自分を苦しめていることをわかっていても、頑張ってるとは、認められないのです。




暗いことばかり言っていても、明るい未来など、見えるわけもなく。

できないことは仕方ないじゃん、そう思えるようにならなければ、適度に力を抜くことも、きっとできないのだと思います。



2ヶ月。



悩んで、泣いて、苦しんできました。

悲しくて、辛くて、悔しくて仕方ありませんでした。

今だって、それらすべてがなくなったわけではありません。

はじめの一ヶ月は、やらなければならないことで、忙しく、休む間もないほどでした。

その後の一ヶ月は、休む時間もあったし、やることは終わっていて、自分のために時間を使うことも出来ていたし、妹も笑ってくれることが多くあって、一緒に出掛けたりして楽しみました。

でも後半はほとんどお互いに笑うこともなく、妹の口から出てくる


「お母さん、何してる?」

「電話して」

「病院いく?」



そんな言葉に、なにも答えてあげることができず、苛立ち、声を荒げ、悲しみを上塗りしてしまいました。

自分の不甲斐なさに、自分自身を許すことができません。

妹が悪いわけではないのです。

それでも、気持ちが優しくなれない。

まだまだ戦いのなかにいます。

気持ちの戦いです。



うまく眠ることもできず、疲れが溜まり、何もかもがイヤになり、笑うこともできない。



そんなこと、母が望んでいたでしょうか?

そんなこと、望んでいないのです。

笑ってなかよくしてほしい。

それを望んでいたのです。



笑って、姉妹仲良く過ごす。

喧嘩してもいいんです。

うまくいかないことなんてのがほとんどで、うまくいったときに、多いに喜べばいい。



まだ、たった、2ヶ月。

割りきることなんて出来るわけがないのです。

でも、それでいいんだ、これから長い時間をかけて、気持ちが落ち着いて、優しく笑えるようになったとき、母の思い出話しをすれば。



わかってるんですけどね。



夜にブログを書くと、なんだかちょっと、暗くなってしまいますね。

明日からまた、笑って一日を過ごすために、まずは何をすべきなのか、もう一度、自分の気持ちと向き合う努力を、していこうと思います。



ここまで読んでくださってありがとうございました。



聖之丞



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10:2019年10月20日



改めて、ここがスタートライン



皆さんこんにちは、聖之丞です。

週末の雨予報がとても心配でしたが、今日は暑いくらいの日差しで、よい納骨日和でした。



母の納骨は、あっという間に終わったのですが、お骨を最後に見た時と、納骨の瞬間は、本当にお別れがきたんだと、寂しさで涙が溢れそうになりましたが、涙はグッとこらえて、最後の瞬間まで、母を見送ることができました。



本当に、この日が来るまでは、もう何ヵ月も時間が経ってしまったような、もうすごい早くこの日が来てしまったような、なんとも言えない気持ちです。



母が亡くなった日の事を、今も鮮明に思い出します。



あともう少ししか持たないと言われて、葬儀屋をネットで検索した。



もうあと数時間持つかと言われたとき、妹を姉が迎えにいってくれた。



笑ってしゃべっていたら、母は息を止めていた。



大声で、叫ぶように「お母さん」と繰り返し呼んだ。



一瞬だけ目を開けて、なにかを言おうとして、そのまま眠るように逝ってしまった。



なにも考えられずに、大声をあげて泣いた。



ひとしきり泣いたあと、訪問の看護師さんを呼んだ。



死亡確認をしてもらい、その後、訪問医により、再度、死亡確認をしてもらい、死亡診断書を書いてもらった。



検索しておいた葬儀屋に連絡をいれた。



そのあとはとんとん拍子で葬儀、告別式が終わり、母が火葬され、お骨になって帰ってきた。



そのお骨も、二ヶ月と九日が経った今日、私たちのもとを離れた。



寂しさを抱えながら、お骨のなくなった祭壇を片付けて、広くなった部屋を見て、違和感を覚えた。



写真を祖父の仏壇に。

親子で並べた。



違和感しかなかった。



いないことに、違和感しかなかった。



確かにそこにいままでいたのに、その存在がどんどん家の中から薄れていくのがわかる。



少しずつ、遺品整理も始めている。



家の中から母の存在がどんどん薄れていくなか、心のなかにはその存在の大きさを表すような、大きな穴が空いている。



その穴から、思い出が吹き溢れ、より、寂しさを強く感じた。



気持ちの整理はつけられそうにはなく、ただひたすらに、目を背けることしか、今はできないけれど、今日で母に関するすべてが終わり、残された私たちは、いよいよもって、自分達の人生のスタートラインに立っている。



まだ、前は向けないかもしれない、けれど、示されてきた、大きな一本道を失っても、私たちの前に広がる道は、様々なものがある。

それを自分て考えて、選んで、進んでいかなければならない。

前を向くしかない。



これからが、本当の自分の戦いだ。





ここまで読んでくださってありがとうございました。



聖之丞


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11:2019年11月9日


3ヶ月



皆さんこんにちは、聖之丞です。

最近の朝晩の冷え込みは、本当に寒くて、布団から出るのが、少しずつ辛くなってきました。

先日、立冬を迎え、暦の上では冬となりましたね。

けれど、日中はまだまだ上着要らずで過ごせるほど暖かい日が続いていて、一日の寒暖差に体がついていかないのは、本当に困りますね。

インフルエンザも、流行っているということで、手洗い、うがい、規則正しい生活を、できるだけ心がけていきたいですね。



さて、今日は母の月命日。

もう3ヶ月が、経過してしまいました。

先月は妹と一緒に来たのですが、今回は、ショートステイに行っているので、私一人で、母のところへ。

母は本当に晴れ女ですね。

月命日が毎回、暑いくらいの晴天で、車を走らせながら、11月に、まさかの冷房を入れました。



失ってから気づくことは、本当にたくさんあって、でも、もう取り戻せないと言う現実が、今なお、心に重くのし掛かります。

不思議と、普段の生活は、慣れてきて、母はもういないと言うことも、考えすぎなくなってきました。

時間がゆっくりと、心のなかにぽっかり空いた穴を違うもので補ってきているのかな?なんて、思っていますが。

まだまだ寂しさに泣くことは多々あります。



友達関係が上手くいかないとき、母に相談していたな。

でも、もう相談できないないな。

誰に相談すればいいのかな?

そんなとき、話を聞いてくれて、アドバイスをくれる友達かいました。

私の考えを受け入れた上で、しっかりと違う考え方を示してくれる、とてもありがたいことです。

弱っているときに、話を聞いてもらうと、大体励ましてくれます。

励ましてくれるのは、とてもありがたいことだし、その場では笑ってなんとかやり過ごせても、解決にはならず、もやもやと、いつまでも悩みが、心のなかに残ってしまいます。

けれど、ちゃんと話を聞いて、私の考えを肯定してくれた上で、違う考え方もあるのだと、受け止め方もあるのだと、話をしてくれる人がいると、それだけで、気づかされます。

一点しか見えていなかった自分の視野が広がるのです。

そうすると、今まで見落としてきたことを、自分が見つけることができます。

そして、悩みの解決に向けて、新たな考えが及ぶのです。

そんな導きの手を、差しのべてくれる友達に、本当に感謝しています。




自分が一人ではないんだ、そう思えるだけで、なんと心の軽いことでしょう。

大切な人を失い、未来への光が闇に閉ざされて、うつむき、泣くことしかできなかったけれど、それでも、妹がいたから、気丈に振る舞い、私はここまでこれました。

話を聞いてくれる友達がいたから、落ち込んで、塞ぎ混んでも、立ち上がり前を向くことができました。

もう、私の話を聞いて、怒ってくれる母は居ないけれど、それでも、私はちゃんと自分の周りの人に支えられて、今という時間をいきることができます。

不安がないなんてことはありませんが、それでも、その不安さえ抱えて、前を向いて歩けるような、今はそんな気がします。




時間の流れは早く、もう、3ヶ月が過ぎてしまいましたが、それでも、まだ、昨日の事のように、母との別れの瞬間を思い出します。

妹との生活に疲れても、寂しさに泣いても、体調不良で苦しんでも、生きているからこそ、味わえることなのだと、その時はさすがに思えませんが、落ち着いてみると、そう思えたりします。




今日は本当に、いい天気でした。



長文になってしまいましたが、ここまで読んでくださり、ありがとうございました。




聖之丞



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 ここまでが、今の私のブログです。

 母を失い3ヶ月、亡くしたものが大きすぎて、前を向こうとしても、なかなか後ろばかりを振り返り、思い出しては涙して、きっかけがあれば涙して。

 泣かない日はいまだにありません。

 一人でカラオケに行っても、母が歌っていた歌を思い出し、フードコートへ行っても、母と食べたラーメンの記憶がよみがえり、最期まで一緒にいた時間が長かったからこそ、いろんなところにきっかけがあって、思い出しては悲しい気持ちが胸を締め付けてくるのです。

 いまだに、病院へ行けば、母が入院しているような錯覚すらあります。

 それでも、障害者と一緒に暮らすという、私には課題があります。

 今までとは違う生活環境に、自分がおかれて、初めて私は自分の身体を大切にしようと、感じています。

 妹を世話するために、私自身がちゃんと元気でいなければ、笑っていることもできないのです。

 これから介護、看病をされる方が、このブログに出会い、辛い中でも、一人ではないことを感じていただけたら幸いです。


ここまで読んでくださいましてありがとうございました。

このブログをもとに、いつか小説を執筆したいと思っています。

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