Щелкунчик
ケイト・ウォルドーフは恵まれた子供だ。生まれる前から、地位も名誉も約束され、蝶よ花よと育てられた。美しい調度品に囲まれ、クローゼットには愛らしいワンピースが何百着と並び、一流シェフによる最高級の料理を食し、水のように流れる肌触りの良い寝具に包まれて眠る。それが、彼女の生活だった。
彼女は、賢かった。物心が付く頃には、自分が人より豊かな暮らしをしている事を自覚していた。それは運良く裕福な両親の下に生まれる事ができたからで、その運さえも自身の実力の内であると、強かに開き直ってもいた。
頭の良い彼女は、要領も良く、愛嬌もあった。そんな彼女が、両親にとっては自慢だったようだ。社交場に連れて行っては、あらゆる人物に挨拶をして回った。
大人の中に混じって会話をするうちに、ケイトは徐々に子供らしさを失っていった。同い年の婚約者と遊ぶのが、酷く退屈に思えるのだ。子供の遊びでは、満足できない。正直にそれを告白してしまえば、両親がケイトを連れて回る事はなくなってしまうだろう。彼女はそれを予測して、敢えて子供らしく振舞った。
ある晩、ケイトは屋敷を抜け出した。過保護な両親や使用人達の目を盗み、夜の街へと繰り出す。お気に入りのワンピースに着替え、ブーツの紐を丁寧に結び、彼女は街路を駆け抜けた。
ガラス越しに流れていくだけだった街並み、路を点々と仄かに照らす街灯、景色を四角く覆う家屋、そして、これまで馬車の天井に隠されていた満天の星空。今、それらの全てが自分の物のような気がした。胸が躍るとは、こういうことなのだ。
高揚感の赴くまま街を徘徊し、ケイトは港に辿り着いた。踊るように跳ねていた胸の高鳴りが、あらゆるときめきが、漣に攫われるように彼女の中から引いていく。そこには、彼女の期待した美しい海などない。
停泊する船の隙間から、深淵が覗いている。底知れぬ恐怖を感じて、ケイトは数歩後退りした。目前に広がる闇は深く、目を凝らそうとも先など見えぬ。見よう見ようと意識を集中させればさせる程、それは一層濃く暗く黒を重ねて、ケイトを引きずり込もうとした。
目を逸らし、この場から離れたいと思うのに、足が竦んでしまって一歩たりとも動く事ができない。不安と恐怖が増幅し、得体の知れない何かが、足元から群れを成して這い上がってくる。
それは決して、比喩などではない。小さく、多足で、硬質な生き物が、何十匹と皮膚の上を闊歩しているのだ。ケイトは恐ろしくて確認する事もできず、ただ目を逸らす事にだけ成功した。
常闇の恐怖から逃れるように、光を探す。海へと沈む夕陽の色に似た、温かみのある光が、視界の隅で誘うように揺れた。それは意外にも、そう遠くない場所にあった。それでも、ケイトはその光源の正体を掴めずにいた。涙で視界が歪んでいる。子供らしく泣き叫ばなかったのは、彼女の幼い理性と矜持がそれを許さなかったからだ。
行儀悪く袖口で涙と鼻水を拭い、ケイトは必死になって目を凝らした。光源は港から海に迫り出した桟橋の上にあった。そこには二つの人影があって、その人影の主がカンテラを持っている。それが光の正体だった。
ケイトがそれらを認識した途端、群れは彼女の体から退いていった。それらが丁寧に元来た道を辿っていく、身の毛も弥立つ感覚をやり過ごし、終わると同時に駆け出した。手足は震え、呼吸は浅く、嗚咽して、嘔吐感にも襲われている。しかし、そんなことには構ってなどいられなかった。一刻も早く、あの光の領域へ入らねばならない。
涙を撒き散らし、焦燥感に急き立てられながら、ケイトは小さなコンパスを必死になって回転させた。桟橋の木板が喧しく鳴るのも、気にしていられない。
彼女の接近に気づいた光の主達が、優雅な動作で振り返った。若い男女の二人組で、カンテラを持っているのは男の方だ。穏和そうな顔立ちの青年で、女の手元を照らすようにして、姿勢よく灯りを掲げ持っている。
一方で、オレンジの灯に照らされた女は、非現実的なまでの美しさを宿していた。彼女のしなやかな手は、細やかな彫刻が施された黄金のハープを支えている。女が指先を遊ばせると、それは柔らかく心を包み込むような音色を零した。
突然に必死の体で走り寄ってきた見ず知らずの子供に驚く素振りも見せず、二人組はただ微笑んでケイトを待っている。
「大丈夫、お嬢さん?」
青年の口調は外見通りの穏やかさで、ケイトを迎えた。円やかな声音が、ケイトの鼓膜を擽るように震わせる。
ケイトは徐々に走るのをやめ、歩きながら呼吸を整えた。青年がケイトの方へカンテラを差し出して、足元を照らしてくれる。光がつま先に触れた。お気に入りの靴は、これまで勿体ぶって履くのを惜しんでいたため、酷く足を傷つけていた。
「助けて! 何か分からないけれど、たくさんの小さな生き物に襲われかけたの。足に這い上がってきたのよ!」
「それは怖かったね。さあ、こちらへおいで」
青年に促され、ケイトは光の中に身を投じた。白布に染料が染み込むように、安心感が広がっていく。悪寒の残る小さな肺腑から息を吐き出し、更に一歩を踏み出そうとするケイトに、女が優しく微笑んだ。
「お嬢さん、足元に気をつけるのよ」
女の忠告は、少しばかり遅かった。言われた時には、もう足を持ち上げていたし、重心は前方に移動していたのだ。
硬質の塊が割れるような音と、水気を含んだ柔らかい音が混じった。訳の分からぬまま下ろしてしまった足の裏から、嫌な感覚が伝わってくる。何か、硬いものを踏んだ感触がする。
「ああ、遅かったわね。ごめんなさい」
「いいえ、大丈夫よ」
恐る恐る足を退けると、そこには小さな蟹が潰れていた。足の半分程が胴体から離れ、平にひしゃげた甲羅から体液が滲み、木の板に染み込んでいる。
不快な光景に、ケイトは細く息を飲んだ。お気に入りを汚されたような気がして、思わず眉間に皺が寄る。汚れを落としたくて、靴裏を何度も木板に擦りつけた。
「可哀想に」
青年の言葉が、誰に対するものなのか、ケイトには分からなかった。得体の知れないものに襲われ、涙が出るほど恐怖し、必死になって逃げ出して、最後にはお気に入りの靴を汚してしまった自分に対する哀れみだとは思えなかった。
「仕方がないわ、私の助言が遅かったのよ。そうだわ、落ち着くのを一曲やりましょう。さあ、何も心配することはないわ。こちらへ来て。灯りの下の方が、安心するのでしょう?」
女の気遣いすら、どこか他人事のように聞こえた。青年同様、ケイトに対する気遣いではないように聞こえたのだ。
女のハープが、旋律を奏で始めた。それはケイトが今まで耳にしてきた、どんな音楽よりも美しく気品に溢れていた。両親に連れて行かれた晩餐会のバンドも、高価なチケットを購入して煌びやかなホールで聞くオーケストラも、彼女のたった一つのハープが生み出す音色の前では、全て霞んでしまうだろう。流れるような仕草が紡ぎ出すメロディは、女の優美さをそのまま音にしたようだ。観客に媚びるところがなく、自然そのものから零れ落ちる音に似ている。遠く彼方から海の上を走ってくる、小波や風の音に溶けて、独特の調和を果たしてもいた。
曲が終わっても、ケイトはどこか夢見心地のままでいた。意識することなく、自然と拍手をしていた。吐き出す息は、憂苦から悦楽の色に変化している。
「素晴らしい音楽だわ。私、こんな曲を聴くのは初めて」
「お嬢さんはまだ若いもの、これからたくさん聴く事になるかもしれないわ」
「同じ年頃の子たちより、いいえ、大人だって上流階級の人でないと聴かれないような、高級で上品な音楽を聴かされてきているはずなのよ?」
「では、貴女は運が良かったのね」
「貴方たちは、何をしている人なの?」
明らかに、普通ではなかった。女の美しさは非現実的であったし、黄金のハープは見るからに高級そうなのに、着ているのは特にブランド品とも思えないワンピース。青年の方は、一見彼女の召使のようにも見えるが、特別謙った様子もなく、穏やかな中にどこか薄暗い雰囲気を感じさせる。奇妙なのは彼の手で、ケイトの目には黒の手袋をはめた、普通の手に見えるのに、何故か靄がかかったかのように不明なものとして映るのだ。
「サーカス団に所属しているのよ」
「サーカス? 本当に? この辺りに来ているなんて話、聞いていないわ」
「限られた方のみが招待されるサーカスなの」
女の指が、弦の上を滑る。話している間、女は癖のように、そうしてハープを弾いていた。音が指先から零れ落ち、暗い海へと光って沈む。沈殿は心の底とリンクして、彼女の全てが、ケイトの中に深く刻まれるようだった。
「限られた人に?」
「そうよ、本当に一部の人にだけ。さあ、私はそろそろ戻るわ」
女が立ち上がった。ケイトは慌てた。これで終わりにしたくない。そういう気持ちが沸いていたのだ。
「待って! 私、また貴女の演奏を聴きたいの。どうしたらいい?」
言ってから、ケイトは僅かに気恥ずかしくなった。少し必死過ぎただろうか。呼び止めた声が思ったより大きく響いて、はしたないと思われたかもしれない。
「トミーちゃん、この子を送ってあげてちょうだい」
「はい、ウルリーカさん」
女はケイトに微笑んで、一人桟橋から離れていった。それを見送ると、青年がカンテラを掲げ直し、ケイトの隣に立った。
「さて、行こうか、お嬢さん」
青年は、紳士的だった。常にケイトの足元が明るくなるよう、気を配っている。不自然な沈黙はなく、折を見て話を振り、ケイトが疲れると黙る。当然ながら、歩く速度はケイトに合わせているようだ。
「どうしても、あの人の曲をもう一度聴きたい?」
屋敷の形が夜の中で影となって見えてきた頃、青年が呟いた。カンテラの灯火が青年の横顔に影を作り、歩みに合わせて影が揺れる。小悪魔が彼の頬で踊っているかのようだ。
「聴きたいわ、どうしても」
恍惚とした表情で、ケイトは海辺の演奏会を思い返した。心に染み込んだ音色だけで、未だ心地よい浮遊感に浸る事ができた。
青年が、微笑んだ。彼の手には黒色の紙切れが挟まれている。地面に写る手の影が、いやに大きく、紙片の黒を縁った。
「なあに?」
「チケットだよ、僕らのサーカスのね。来たいでしょう?」
「行きたいわ!」
ケイトは殆どひったくるような勢いで、青年からチケットを受け取った。上質な厚紙で設えられたチケットは、余分な装飾がなく、ただ黄金色の文字で「Cirque du abime」と印字されている。
「裏面を見て。そこにあるのが、開演日だよ。この日の夜は、家にいてね。迎えをよこすから」
「分かったわ」
「それから、これはご両親の分。せっかくだから、家族で来るといいよ」
「ありがとう。あの、もう一枚いいかしら? 従兄弟の分なのだけど」
「もちろんだよ。じゃあ、合計四枚だね」
「お代金は、どうしたらいいかしら?」
「これはウルリーカさんと僕からの招待だから、お代はいらない」
「そう、ありがとう。楽しみだわ」
屋敷が近づいていた。朝靄に隠れて見える自身の住処は、不自然な形に歪んで、恐ろしげに見えた。
「じゃあ、またね」
ケイトの背後で、青年が告げる。返事をしようと振り返るが、そこにはもう、誰もいなかった。
迎えの馬車は、漆黒に塗られた豪奢なランドー型で、無口で血色の悪い馭者が操る馬には、首がなかった。隆々とした筋肉に血管が浮き、嘶きは雷のように轟く。その恐ろしい出で立ちに、ケイトの隣で母は気を失っていた。
馭者は構うことなく、親子を乗せて、首なし馬を走らせた。景色の流れ方は目まぐるしく、普通の馬とは比べ物にならない。隆起する馬の筋肉から、汗の他に赤い液体が流れ出で、黒く艶やかな毛並みを汚して固めた。
降ろされたのは、港の外れにある廃倉庫だった。誰も近寄らない、大きな倉庫である。使えば物がなくなるとか、人がなくなるとか、そんな噂が立っていて、それで誰も使わない。今では近寄る者もない。そんな倉庫である。
広い倉庫の中に、荷物の類は一つとしてなく、たった一人、大きな巻き角のある動物の骨を被った男が立っていた。ケイトらを含めた数組の客が、男の前へ通された。男は恭しく一礼すると、順番にチケットの確認を始めた。
すぐにケイトの番が来た。ケイトは男にチケットを渡し、じっくりと観察した。
男はチケットに手をかざし、表面を撫でるようにしている。骨の被り物から覗く目玉は、飾り気のないチケットを注視していて、ケイトの視線には気づいていないようだ。
「ほう、ウルリーカさんのご招待で……。なるほど、通りで愛らしいお嬢さんですな」
男の声に合わせて、骨の顎が動く。確かに声はそこから聞こえるのだが、ケイトの位置からでは、骨の奥にあるはずの男の顔を拝む事はできなかった。
「通りでって?」
「なんと、おまけに利発なご様子! ああ、いえ、これは失敬。お気になさらず。さて、お客様のお席はこちらですな」
男が差し出したチケットの半券には、タイトルと同じ書体で、席番が記されていた。ケイトの渡したチケットにはなかった印字である。しかし、それは間違いなく彼女が男に渡したものだった。ケイトは確かに、男の手がチケットから半券を切り離すのを、見ていたのだ。
「一体どうやったの?」
「申し訳ない。企業秘密でして、お話できないのです」
「不思議なものね。貴方の頭といい、迎えの馬車といい、この半券といい、本当によくできているわ。最初は驚いたけれど、つまりそういうコンセプトのショーなのよね?」
「おや、ご存知ないので?」
男は頭蓋を傾け、突き出した口元に手を当てて、暫し考える素振りを見せた。
「ふむ、ならばやはり見てからのお楽しみという事にしておきましょう。その方がエキサイティングでしょう?」
男が、穴から覗く目を細めた。心なしか、被り物であるはずの頭蓋骨が笑っているように見える。
「さて、ご両親を合わせて、計三名様でよろしいですかな?」
「もう一人、従兄弟も来てるはずなのだけど、まだ着いていないのかしら?」
「おや、それは失礼しました。少々お待ちください」
男は懐から帳面を取り出し、長い指で忙しなくページを捲った。
「確かに、お迎えに上がっておりますな。しかし、残念な事にご在宅でなかったようで」
「ちゃんと家にいるようにって、あれ程言っておいたのに。お母様は何かご存知?」
振り返って母に尋ねるも、彼女も首を竦めるだけで、従兄弟の用事については知らないようだった。
「何かどうしても外せないご用事ができてしまったのだとか。迎えに参ったスタッフは、そう伺っているようです」
珍しい事だった。落ち着きがなく、やんちゃで騒がしい。ケイトの従兄弟は、そういう少年だった。叔母はいつも彼の悪戯に手を焼いていて、叔父は彼を連れて歩きたがらなかった。そのため、外出する事も滅多にない。
ケイトは、そんな従兄弟が自分の婚約者であるという事が不満だった。親同士の約束である。必ず言う事を聞こうなどとは、思っていなかった。その点について、ケイトと従兄弟の意見は合致しており、故に良き友人でいられた。何か面白い遊びを見つけては、互いに誘い合う。子供らしく、そして少年らしい従兄弟の見つけてくる物は、ケイトにとって退屈な事も多かったが、一方で彼はケイトの遊びを大袈裟な程に楽しんでくれるのだ。そういう間柄だったので、今回も声をかけた。
「残念だけど、仕方がないわね。どうもありがとう」
「それでは、あちらのスタッフに案内させましょう。決して、彼の後ろから離れてはなりませんぞ。前にも出ない方がいい。お気をつけください」
男が示すと、先程まで誰もいなかった暗がりに、別の男が佇んでいた。
公演終了後も、ケイトは呆としたまま、ステージを眺めていた。瞬きも忘れて、見つめ続けていた。
目の奥が酷く痛む。目玉の裏を、焼き鏝で何度も突っつかれているような痛みがある。目の周りが、やけに熱かった。
もう、涙も枯れてしまった。流し尽くしてしまったのだ。頬を通った涙の痕が、火傷のように熱く痛む。きっと、涙を流しすぎだのだと、ケイトは思った。
五感の全てを、赤黒く染められてしまった気分だった。視界に映る景色は、正しくそんな色をしている。ケイトの見つめるステージ上の、たった一点のみが僅かにマシな色をしていて、とても他の場所など見る気にはなれなかった。
耳も鼻も、塞げない。手が空いていないのだ。阿鼻叫喚がケイトの鼓膜を震わせ、時折混じる狂った笑い声に吐き気がした。鼻を刺激する強烈な鉄臭さが、それを助長する。
「ケイト、ケイト、たす、けて……」
手を引かれ、ケイトを呼ぶ声がした。ケイトの手を塞いでいるのは、見知らぬ老婆だった。
干からびた肌は罅割れ、皺が寄り、頭髪は薄く抜け落ち、目玉は溢れそうな程盛り上がっている。この汚らしい老婆は、誰なのだろう。枯れ枝のような老婆の指が、ケイトの腕に絡みついている。この指に嵌められているのは、母の指輪ではないのか。着ているドレスは、母のドレスではないのか。
途端に悪寒が走って、ケイトは漸く呆けるのをやめた。弱々しい力で引っ張る手を振り払い、数歩後退る。
「触らないでちょうだい! この追い剥ぎめ! 私のお母様に何をしたの? お母様はどこ?」
「ケイト……」
絶望の声で呻いて、老婆は縋ろうとした腕を下ろした。
父はどこへ行ったのか。姿が見えなかった。ケイトの左隣に座っていたはずなのに、そこには何者も座っていない。ただ赤黒い液体が、天井から滴り落ちて、座椅子を濡らすだけである。
「可哀想に。僕が助けてあげよう」
後ろから、話しかけられていた。聞き覚えのある声だ。ケイトをここへ導いた、張本人の声だ。
「こんばんは、ケイト」
「お前……! よくも! よくも!」
気付けば、ケイトは金切り声を上げて、青年に飛び掛っていた。憎かった。許せなかった。自分がこの地獄のような場所に来る羽目になったのも、父母が醜く惨たらしく形を変えてしまったのも、全てこの男のせいだと思った。
「ああ、酷いなあ。君も僕の運命の人じゃ、ないんだね……」
胸倉を抑えつけられた青年は、やけに落ち着いた様子でケイトを睥睨した。彼もその手を、彼女の首元に添えていた。
手を放さずには、いられなかった。彼の手を目にした瞬間、ケイトは恐ろしさに負け、息を殺して、静かに彼の首元から手を放した。無言で、命乞いをしていた。
「何よ、その手……。この前は、こんな手じゃなかったじゃない」
震える声を抑えて、やっと出た抗議はそれだけだった。青年の笑い声が、彼の手を伝って、首元に響いてくる。彼が笑う度に、その手が首に擦れて、硬くざらついた感触に悪寒が走った。
「そうだったかな? そうか、この前は、そうだったかも。ウルリーカさんがいたからかな」
青年はケイトの首から手を放して、自身の顎を支えるようにした。蟹の鋏のような、甲羅に覆われた、褐色の恐ろしい手だ。
「貴方、さっきから何を言っているのよ? どういう事なのか、さっぱり分からない」
「どうでもいいじゃないか、僕の手の事なんて。それより、ウルリーカさんが呼んでいるよ。会いたいでしょう?」
聞かれて、否定する事ができなかった。会いたかった。公演中、バックミュージックとして流れていたのは、彼女の音楽だった。間違えようもない。妖しく響く彼女の音色が、この耳に届いている間は、恐怖と無縁でいられたのだ。
「会いたいわ」
気付いた時には、そう応えていた。
トミーはウルリーカと並んで、ケイトが他の子供たちの輪の中に入っていくのを見つめていた。
「良かったの? 彼女をここに招待したのは、私でも、トミーちゃんでもないのに」
「もう、いいんだ、どうでも。せっかく僕が助けに行ったのに、運命の人なら、あんな目で僕を見たりしないよ。一体いつになったら、僕の運命の人は迎えに来てくれるんだろう?」
小さな女の子の頭が、他の小さな頭に紛れていく。
「運命の人が現れるまでは、ここで私たちのお手伝いをしてちょうだいね」
「うん、いいよ。ねえ、ウルリーカさん、あの子に飽きたら、僕にくれないかな?」
特別な意味はなかった。ただ、少女の頭が胡桃のように転がっていくのが、面白くて、僅かに興味が湧いただけのことだ。
ウルリーカは、大げさに目を見開いて、驚いていた。そして、美しい顔を美しいまま歪めて、微笑んだ。
「嫌よ。だって、貴方にあげたら、せっかく可愛いお顔をしているのに、潰されてしまうじゃない。それならKillersの首切りに任せた方がマシね」
「それは、残念」
異形の鋏が、開いて閉じて、二回程大きな音を鳴らした。
いもさん(@imonovel)の企画参加キャラ・トミーくんをお借りしました