9.あこうらんの別れ
源一郎が撃った。
銃声であたりが静まり返る。
路地には硝煙がもたれる様に漂っていた。源一郎はその中に強敵を捉える。
爛之一だ。
イチの瞳は、気力に満ちている。
源一郎は自分の右手に目をやった。イチの胴に向けたハズの銃口が、キセルの先端で狙いを逸らされている。弾丸はイチの背後にある壁に命中していた。
(―――そうか)
そこで源一郎の意識は途切れた。
イチが、源一郎の胴に強烈な左ストレートを打ち込んだのだ。路地に地鳴りのような破壊音と粉塵が立ち込める。
「おぉ・・・」
キミエが苦い顔で声を漏らした。
無惨な光景だった。拳の一撃で行われたとは到底思えない。源一郎の体は、背にしていた壁に埋もれ、硝煙弾雨を物ともしないハズの鎧が、追加装甲ごと打ち抜かれていた。
人間業を超えた行いにキミエは唖然としている。
「ハハ。―――危なかった・・・」
と、イチが誰にという訳でもなくつぶやく。
難を凌いでくれたイチに、キミエは「スゲェな、イチ・・・」と言って近寄ってくる。
「まぁな。でも、危なかった」
イチは、キミエにそう返すと、武士を打ちのめしたキセルを軽く眺める。
キミエは、イチに怪我がないかを目で確認した。どうやら、源一郎に打ち込んだ拳も含めて、怪我はしていない様だ。そして、あれだけの事をしておきながら、汗一つかいていない。着替えもせずに向かって来たイチは、未だに半裸である。
イチは、キミエの背後にある『凛』を見た。
「ところでキミエ。そのバイクの事なんだけど―――」
と話をするイチを、キミエが思いだした様に遮った。
「そうだよイチ!脱出用のバイクを探したんだけどよ!コイツしか見当たんねぇんだよ!!コイツじゃオレは大丈夫でも、イチが乗れねぇ。他のバイクはどこにあるんだよ?」
と、焦ったようにイチを問いただす。
しかし、イチは答えなかった。ただキミエを見つめ、黙っている。
キミエにはそれがどういう意味なのかすぐに分かった。
「―――無いのか・・・」
キミエの言葉には力がない。イチは答えない。
「なんで黙ってんだよ!何とか言えよ!!」
怒声を上げるキミエにイチは「すまん」と面目なさそうに答え、話し始めた。
「いろいろ手を尽くしてみたんだが・・・、その一台で精一杯だったよ」
「そんな事はどうでもいいんだよ!なんで今になって言うんだよ!!」
キミエが激しく問い詰める。
「もうここには残れねぇのに!コイツじゃ逃げれねぇ!しかもアイツがぶっ放しちまった!どうするつもりなんだよ!!」
満足行く脱出手段は無く、武士と敵対してしまった今、吉原に留まることはもうできない。先ほどの銃声で、静かだった路地に、周囲の騒がしさが紛れだした。
―――もう時間が無い。
怒りと焦りがキミエの顔に現れる。
そんなキミエにイチが本題を切り出した。
「お前一人で行くんだ」
その一言で、キミエの怒りは爆発した。
「何言ってんだテメェ!一人で行けるかよ!テメェどうすんだよ!ここに残んのか!?残れねぇだろ!バイクから何まで、さっきから全然話が違うじゃねぇか!!」
イチはまた答えない。キミエの顔は怒りで赤くなり、青白くなるほど握りしめていた拳を開くと、イチの羽織に攫みかかった。
「二人で吉原を出るって言ったじゃねぇか!ここを出て!暁の都に向かおうって言っただろうが!そのために準備して来たのに!何で今になって〝一緒に行けねぇ〟なんて言うんだよ!!バイクが駄目だったんなら、計画を中止して、またの機会をうかがう事も出来ただろうが」
必死に訴えかけるキミエに、イチは静かに返す。
「ああ、そうだな。だがな、バイクが又三郎にばれた。そして武士が来た。お前も分かってるだろう?今日を逃せば次は無いんだ」
そんな事は知っている。分かっている。それでも、キミエは認めたくはないのだ。キミエは悔しそうに歯を食いしばる。
「こんな事になって、私も残念だよ。だが、そうなってしまった以上、今は一人で向かってくれ」
最後に「頼むよ」と言ったイチの表情にどこかもどかしさを感じる。イチも一緒に旅に出たいのだ。
「お前はどうすんだよ・・・。ここに残っても殺されるだけだぞ」
「大丈夫だ。私もここに留まるつもりは無い。ちゃんと策は考えてある」
だが、別行動になるイチが心配でキミエは納得いかない。
「―――でもよ・・・」
と、言いかけるが。
そこで会話は中断された。
その原因は、イチに敗れた熊木源一郎である。
少し前の事だ。意識を取り戻した源一郎は、攻撃の機会をうかがっていた。
(アレを読まれるとはな・・・。見事にやられたぜ。なんだぁ?壁に埋もれてんのか?全く―――あのヤロウ何しやがった。―――チッ。胸骨が折れてやがる)
と、穏やかでない源一郎は、ゴーグルで隠れている眼だけを動かして周囲の状況をうかがった。
目の前で少女と爛之一が、何やらもめている。幸い、二人は自分が目覚めたことに気付いていない。尚馬と勝正はどうなったのだろうか?今の態勢では確認できない。
(まあ、俺が生きてんだ。大丈夫だろ)
さて。と、源一郎は眼前の二人に集中した。見たところ、吉原を脱出する計画に問題が生じたらしい。
爛之一が一人で脱出しろと、少女に言っている。
二人の目的地は『法無神廷 限境 大暁之都』。
(暁の都か・・・長旅だな。だが、行かせる訳にはいかない)
吉原の女を外へ逃がしてはならない。それは都の守護を請け負っている武士の務めである。
しかし、源一郎の思う所は少し違う。
源一郎は知っていた。
賑わい虚飾で彩る夜の街。古い時代の風景。それを維持するための法と武力。
この吉原の造りが、最早外の世界には存在しない擬い物なのだと、源一郎は知っていた。
葭の原の先に広がるのは荒廃。そこは紛れも無い無法地帯である。
二人が外の世界に何を期待したのか源一郎は知らない。だが、柔な体で生き延びれるほど、外の世界も吉原の脱出も容易ではないことだけはわかる。
(無茶ってもんだ・・・)
むざむざ死に行かせる訳にはいかない。そして、これ以上爛之一に勝手を許す訳にもいかない。
―――ここで阻止しなくては・・・。
負傷した体は思うように動きそうにない。右手に持っていた銃も脱落して使用できない。辛うじて使えそうなのは、左手に残っていた脇差しだけだ。
(今回の足抜けは全て爛之一の独断・・・。そうすれば、お嬢ちゃんを不問にすることぐらいはできるだろう)
源一郎は柄頭まで抜け落ちかかっていた脇差を、人差し指と薬指で挟む様に、静かに握り直した。
そして爛之一の首を目掛け、脇差を一気に繰り出す。
「うおっ!?」
突然の出来事にキミエは声を上げた。
源一郎の動きは重傷を負っているとは思えないほど、速い。
だが、仕掛けた本人からすれば、それは粗末なものだった。下から放り込むような半端な一撃。源一郎が一番よくわかっていたが、そんなモノが通用する相手ではない。源一郎の脇差よりも先に、イチの掌が顔面に打ち込まれた。
再び破壊音と粉塵が立ち込める。今度こそ源一郎は動かなくなった。
「たまげたぜ・・・」
キミエは冷や汗を掻いた。
「タフな爺さんだ・・・。やはり静衛の兵は強いな」
今の不意打ちには、然しもの怪物も驚いた様だ。イチは忌々しそうな顔をする。
そして、二人は武士との決着を付けたからと言って、ここで一息ついている暇はない。
今の音で周りが更に騒がしくなってきた。
いよいよ時間が無い。
「ああ!クッソ!」
「もうモタモタしていられないねぇ・・・」
焦るキミエに、イチは落ち着いた口調で、
「なに、焦ることはないさ。大してやることは変わっちゃいないんだ。ただ見つかるのが少しだけ早まっただけだ」
そう言ってキミエの目を真っ直ぐ見た。
「いいかいキミエ。私はまだやり残した事がある。だから今は一人で行ってくれ」
イチは渋るキミエをバイクへ送った。
「大丈夫だ。お前は目的地も行き方も解かってる。だから凛が運んでくれる」
キミエはただ黙ったまま、その鉄馬を見た。
(イチが言う通りだが・・・こんなショボイので本当に行けるのか・・・?)
疑ったところで始まらない。キミエは凜に跨った。すると、
「ん?オォ・・・」
なかなか悪くない。不思議と自信が漲ってくる。ハンドルを握りしめると、異様に手に馴染み、感情が昂ぶった。凜は、日に千里を駆けると言われる騏驎の様であった。
〝何時だろうと・何処だろうと・自心の思うがまま・何物にも阻まれず・止まることは無い・そして、誰にも負ける気がしないのだ〟
そんなキミエを見て「気に入ったか?」と、イチが可笑しそうに問う。
「ああ、コイツはスゲェ。最高だ・・・」
「超スペシャルな一文字カスタムだ」
「なんじゃそりゃ」というような顔をするキミエに、イチは「私からのプレゼントさ」といってクスクス笑うのであった。
兎にも角にも(イチは今日のためにこれだけのモノを用意してくれたのか)と思い、キミエの表情が締まる。そして―――。
「ありがとなイチ。一人で行って待ってるぜ」
キミエの決断にイチは安心した様で、
「ああ、先に行っててくれ、私も必ず向かう」
「約束だ。破んな」
キミエは、額のゴーグルを下ろし、リボンを締め直した。
「動かし方は解るな?」
「ああ、大丈夫だ」
凛のエンジンをかける。鉄馬の心臓が熱を帯び、小さな体に心地好い鼓動が伝わる。ライトが路地を照らし出した。その道を行かんとするキミエの背中を、イチは見つめている。
(こういう事はわかるのに、大事なことは全部忘れちまってんだねぇ)
一時の別れに「じゃあね」と、イチは言う。
キミエは振り返らなかった。そして「死ぬなよ」とだけ言うと、凛と共に路地の先へ。イチの視界から消えて行った。
「さて、と。私もここから離れるか」
と、イチが独り言を言った時だった。突然ゴミ山の一つが、大きな音を立てて崩れた。イチは何事かと身構えたが、崩れたゴミ山の先に現れた者を見ると。
「なんだ。三ちゃんか」
そこに立っていたのは又三郎だった。ゴミ山が崩れたのは、あこうらん開かずの裏口を又三郎が蹴破ったためである。
「イチ・・・」
そう言って又三郎は、周囲を一瞥した。差し向けた四人羽織が行動不能に陥っている。
まさかの事態に又三郎は動揺を隠せない。
「・・・お前がやったのか?」
「ああ、そうさ。この爛之一の仕業さね」
からかう様なイチは、煙管に刻みを詰める。だが又三郎は、それを俄かに信じられないでいる。
「こいつら神狼殺しの四人羽織だぞ・・・。お前、一体何をした。いや、自分が何をしたのか分かっているのか」
〝何をしたかなどどうでもいい〟そんな様子で、イチは一服すると、
「ブチのめしたのさ。コイツでな」
と、自慢の煙管ひらつかせた。
「キミエは、行ったのか?」
「ああ」
「そうか。ならお前もさっさと行け」
「おや?見逃してくれるのかい?」
そう言うイチをよそに、又三郎は倒れている勝正の状態を確認する。勝正はなんとか生きているようだ。
「〝今しがた抜け車を見つけた俺は、見世で怠けていた四人羽織にそれを報告。騒ぎを聞きつけて俺が来た時にはお前はいなかった〟わかったら行け。お前がいると始末の邪魔だ」
と、又三郎はイチに背を向け、今度は重傷の源一郎を確認している。
「本気で私とキミエを止める気だったのかい?」
「当たり前だろう。無駄だったがな」
それを聞いたイチは、含み笑いをして。
「でも、三ちゃんは〝鍵〟を取らなかった」
ハッとして、又三郎は振り返ったが、もうイチはいない。
人間離れした跳躍力で、壁を三度蹴り上がると、又三郎の頭上に姿を消して行った。
「敵わんな・・・」
そう言ってイチが消えた夜空を眺める。
又三郎は、イチとキミエの足抜けを止めようとした。だが、又三郎は凛の鍵を取り上げはしなかったのだ。