帰り道
最寄りの駅に降りると、スーツを来たサラリーマンが自分たちの家路に向かって行った。金光清江は、途中でバス停に立ち寄り、まだバスが走っているかと淡い期待を込めて時刻表を見たが最終バスは9時36分だった。大学卒業の祝いで父親に買ってもらった黒の腕時計を見つめて、また前を向いて歩き始めた。
駅から降りてきた人たちは、途中まで一緒の方向に歩いていたが、途中で清江は一人になった。家まで歩いて後20分ぐらいかな、と思いながら、団地がある暗い夜道を歩いていた。団地の辺りには既に人影もなく、寂しい感じがした。最近は、団地にも過疎化が進み、暗い部屋が目立っていた。
そんな団地を横に見ながら、歩いていると後ろから足音がついてくるのがわかった。静かな団地に2つの足音が響いていた。もしかしたら団地の住民なのかもしれない。と思い最初は気にはしていなかった。
しかし団地を通り過ぎ、何度か道を曲がって家路に向かう道を通っても、その足音はついてきた。それもちょうど清江の歩調に合わせるかのように距離を取りながらずっと同じペースで付いてきていた。
清江は突然、以前見たサスペンスドラマを思い出した。主人公の女性が暗い夜道を歩いていると、後ろから足音がする。怖くなって走り出すが、追付かれて、口を塞がれ殺されてしまうシーン。
清江は真っ青になり、後ろを振り返りたくなったが、やはり勇気が出ずにそのまま少しずつ足歩を速めて行った。後ろの足音は、清江の足歩に合わせて、同じ道を進んでいるようだった。
歩きながら清江は、思った。大声を出そうか、そうすれば最悪危害は与えられないかもしれない。でももしかしたら、偶然同じ道を歩いている方で、誤解だったらどうしよう。もしそうだったら、私が恥ずかしい思いをするし、それに、顔見知りだったら明日の話題になるかもしれない。いやいや、そんなことは絶対嫌だ。
そう思うと、やはり更に足歩を速めるしかなかった。気持ちは走り出したい一心だったが、今日はあいにく、取引先との接待で少しオシャレをしようと、ヒールを履いていたので、走るとこけてしまいそうな気がしてできなかった。
なんでこんな日に、いやな目に合わないといけないのよ……っと恨めしさと後悔が胸に広がった。今にも心臓が飛び出てしまいそうな緊迫した状態で耐え切れずに、泣き出してしまいたい衝動を抑えながら歩き続けた。
しばらくすると、遠くの方に小さな公園が見えてきた。その公園に渡る道路前の角を右に曲がって少し行くと清江の家があった。そう思うと気持ちが軽くなったが、後ろの足音が急に接近してきているのがわかった。清江の胸の鼓動が異常に早くなってきた。
やっぱりおかしい。早く逃げなきゃ。と思うと清江はついに、ヒールを履いているのも気にならずに走り始めた。そうすると後ろの足音も走り始めた。
「痛っ。」
公園の角を右に曲がると、清江は何かにぶつかって倒れた。その後ろを、黒いランニングスーツを着用しマスクをした男が慌てて走り去って行った。その後ろ姿を、倒れながら清江が見ていると、背の高い男性が優しい声で手を差し出してくれた。
「いきなり走ってきてどうしたんだい。気を付けないとだめだよ」
清江は突然の事でかなり吃驚していたが、その手を取り立ち上がった。大きな手の暖かさに安心して、平静を取り戻し始めていた。
「すいません。実はさっきの人に追われている感じがして、怖くなってつい走ってしまったんです。」
「そうだったんだ。この辺りは夜になると人気も少なくなるから気を付けないとね」
清江は会話の途中で、その男性の服装を見ながら観察していた。グレーのスーツでネクタイをしている40歳前後のサラリーマンらしい方だったが、この一帯では見かけない顔だった。まあそんなことは、この際どうでもいいか、と思いながらお礼を言った。
「本当にすいません。助けて頂いてありがとうございました。」
そして軽くお辞儀をすると、その男性は、かぶりをふりながら言った。
「いやいや、僕は偶然にここらへんを歩いていただけだし、助けるだなんて、とんでもない」
そして、心配そうな感じで
「大丈夫?家まで送っていこうか?」
と清江に聞いた。
「大丈夫です。家までもう少しなので。気を遣ってもらってありがとうございます」
「それなら良かった。それじゃ気を付けて」
「それでは、失礼します」
清江がまたお辞儀をすると、その男性もお辞儀をした。
清江は少し早歩きで歩きはじめると、その男性も逆の方向に向かって歩いている足音がした。清江は家のドアの前に立つと、ドキドキしている胸を落ち着かせて、家のドアを開けてただいまと言って入っていった。その声に気付いた高校生3年生の妹の和江が出てきた。清江はその姿にほっとしながら、靴をぬいで居間に上がっていった。
「おねえちゃん。遅かったじゃない。もう十一時じゃない。お父さんすごい心配していたよ。携帯も通じなかったし。」
そういわれて携帯を見てみると、電池がなくなっていた。
「あ、ごめん。で、おとうさんは?」
「明日朝早いからもう寝るって。まああいつのことだから、大丈夫だろうって」。
清江は、大丈夫じゃなかったのに、内心腹が立ったが、さっきあったことを話すと心配するし学生時代にあった門限が復活する気がして、本当のことを話すのを止め、笑いながら言った。
「ははは、おとうさんらしいわ。あーそれにしても疲れた。もう寝るね。あんたももう寝なよ」
清江は背伸びをしながら、自分の部屋に向かって行った。部屋に入るとベッドに横になった。さっきの出来事を思い出し少し恐怖を感じたがそれ以上に、あの男性の暖かい手の温もりが残っている右手を感じて、安心して目をつぶり始めた。うつらうつらする意識の中で、パトカーの音がするのが聞こえたが、極度の緊張からの疲れで気にすることなく、眠りの世界に落ちて行った。
次の日。清江は仕事でまた遅くなりバスに乗れずに、徒歩で帰宅することになった。昨日の事があったので、会社のお昼休みに買った保身用防犯ブザーを鞄に忍ばしておいた。それがあることで気持ちは軽くなったが、一抹の不安もあった。しばらくすると、後ろから足音が聞こえてきた。
清江は気味が悪くなり、歩く速度を意識的に上げて、鞄をファスナーを開けた。後ろの足音も早くなってくるのを感じた。防犯ブザーを手に取り、覚悟して立ち止まり、後ろを振り返ってみた。
そうすると、昨日の男性が歩いていることがわかった。男性は、清江が振り返ったのを見ると、手を振って挨拶をした。清江は安心した面持ちで、防犯ブザーを鞄の中に慌てて直した。そして、頭を下げると、また家に向かって歩き出した。
家に帰ると、和江がリビングで勉強をしていた。
「ただいま」と清江が言うと、和江は立ち上がった。
「おかえり、今日も遅かったね。仕事大変なんだ」
「まあね。今日も色々あって」
「ふーん。まあ無理しないようにね」
「ありがとう。和江」
「ところで、お姉ちゃん。最近ここの界隈で不審者が出るって噂なんだって。今日なんて、塾の先生がわざわざ、危ないから『家まで送ろうか』っていうんだよ…」
清江は、どきっとしたが、冷静を装い言った。
「それで、送ってもらったの?」
「そんなわけないよ。もしかしたら、その塾の先生が怪しいかも知れないし…」
和江は、冗談ぽく話した。
「う、うん。そうだよね。気を付けないとだめよ。それじゃ、私は明日も早いからもう寝るね」
清江は、リビングのドアを閉めると、ふとあの男性の事を思い出して、自分の手が冷たくなっていくのを感じた。
また次の日も仕事が遅くなり、同じような状況になった。振り返ると、またあの男性だった。少し安心はしたが、昨日の和江の話を思い出し、軽く頭を下げると、早歩きで急いで家に向かって行った。
次の日、取引先に上司の桝谷英輔と営業に行くことになっていたので、緊張して車で外出した。入社2年目の清江の設計した玩具が社内稟議を通り、取引先に新商品として提案することになっていた。
「あ、もしかして緊張してる?大丈夫だよ。僕も初めは緊張したし、あそこの担当者は気さくな人だから」
桝谷は運転をしながら、助手席で深呼吸している清江に話しかけた。清江は、「はい」と答えた。
「まあ、何事も経験だから。商品開発者はどんなお客さんなのか知っておくと、開発しやすくなるしね」
「はい。わかりました」清江は元気よく答えた。
「よし、その意気だ。頑張っていこうな」
そんなやり取りをしていると、取引先近くの駐車場に到着した。桝谷は駐車場に車を止めると、二人は取引先に徒歩で向かった。何点か開発商品を持っているのでかなり重かったが必死に取引先の前まで、運んできた。
桝谷は、受付の女性に、10時半から誰々さんと商談することになっていると伝えると、その女性は内線でその人に電話をしているようだった。しばらくすると、担当者らしき男性がこちらに向かってきた。
「桝谷さん。本日は御足労頂きありがとうございます。それでは、榎本が会議に入っているので少し会議室で。」
「こちらこそ、時間を割いてくれてありがとうございます」
担当者は、清江たちが持ってきた重い箱を持ちながら「今日も一杯商品持ってきてくれたんですね」と言いながら二人を連れて、2階にある商談室に案内した。途中、何人かすれ違ったが、どこかで見たような方がいて、清江は首をかしげた。向こうも清江の方を見ているような気がしたが、気のせいだろうと思い、目をそらした。
商談室に入ると担当者は、
「それでは榎本を呼んできますので、しばらく座ってお待ちください」
と言って、礼をして商談室のドアを閉めた。
清江は、ほっとして、小さな声で桝谷に話しかけた。
「受付に女性がいるってすごいですね」
「まあな、そりゃ日本でも有名なD会社だからな」
桝谷はそれに小さな声で答えた。二人は立ちながら、待っているとドアが開いた。
清江は、あっと声をあげそうになったが、口を押えた。ドアを開けた方も、清江を見て驚いたような顔をしていたが、すぐにもとの顔に戻った。
「榎本部長。今日は、勉強のつもりでこの商品の開発者の金光を連れてきました」
桝谷は、その男性に向かって、清江を紹介して続いて、榎本のことを紹介した。
「こちらは、商品開発部の榎本部長で、うちの会社のことを贔屓にしてくれている方だから、よろしく頼むね」
そういうと、少し間が開いた。榎本は名刺を取り出して、その後清江も慌てて名刺を取り出した。初めての訪問で、すっかり名刺交換を忘れていたのか、となりで桝谷が苦笑いをしていた。
清江は、緊張した声で
「商品企画担当者の金光清江と申します。どうぞよろしくお願いします」
と言いながら、榎本の前で頭を軽く下げて、名刺を手渡すと、榎本も清江に名刺を手渡した。
「こちらこそ、榎本と申します」
清江は、名刺を見ながら、名刺に書いている「榎本雄哉」という名前を確認して、頭をあげて改めて挨拶をした。
商談が始まると、桝谷と榎本が商品のコストや納期等々を話し始めた。清江は分らないなりに、二人の会話に必死に入ろうと思い首を縦に振ったり真剣に聞き時折ノートに書き記していった。