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河岸の月  作者: 朝陽 遥
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後編


 足音を立てず物置のかげにひそみ、コダは息を殺して、不毛な会話に倦んだ両親の気配が遠ざかるのを待った。それから静まり返った居間に滑り込むと、戸棚の奥を、慎重に探った。

 目当ての銅貨はすぐに指先に触れた。これほど蒸し暑い夜だというのに、貨幣の表面は驚くほどひんやりと冷たく、コダはとっさに指を引っ込めそうになった。音を立てないよう、銅貨を一枚ずつそっと握りこむと、汗ばんだ指の間で冷たい感触が滑った。

 手探りであるだけをかき集めても、たいした金額にはならなかった。ウートラは自分の財産のほとんどを家の外に隠しており、場所を家族にさえ教えようとはしない。家の中にあるのは、何か要りようになったときのためにエレテが預かっている、わずかな小銭ばかりだ。普段はそれで不自由もない。里にいるかぎりは、金の遣いどころなどほとんどないのだから。

 かき集めた小銭を握りしめて、コダは思い出したように土間に下り、甕の中でぬるくなった水を口に含んだ。

 ――やっぱり、水神さまの遣いじゃ、なかったんだな。

 ふっとそう考えて、コダは口の端で笑った。まだ胸のどこかで、もしかしたらと思っていた自分に気がついて、それを滑稽に感じたのだった。

 言葉がわからなかったのも、遠い国から逃げてきたからだったのだろう。攻め滅ぼされたという高地の国を、思い浮かべてみようとして、コダは失敗した。この狭い辺境の里を一度も離れたことのない彼にとって、見知らぬ遠い土地のようすというのは、ぼんやりと想像することさえ難しかった。

 コダは忍び足で自室に向かった。廊下の窓から吹き込む夜風が、湿り気を孕んで重い。コダはちらりと窓から空を見上げた。いまは雲が切れて月が出ているが、空の端にはまだ重い雲が垂れこめている。しばらくは雨の多い日が続くだろう。そう遠くないうちに、水が出てもおかしくはなかった。

 ――そうすりゃ次のウートラは自分の息子だからな。

 ウートラが口にした言葉を、コダは胸の内で繰り返して、声を出さずに笑った。彼自身は、父親の後を継いで次のウートラになりたいなどとは、一度だって思ったことがなかった。だからといって、何をやりたいという考えもなかったが……

 幼いころ、コダは漁師になりたかった。河のほとりで遊ぶのが他の何より楽しく、魚を釣るのが好きだった。子供の釣り遊びとはまるで違う、大人たちの漁に憧れた。里の漁師たちはみな怠け者で、いつも木陰で昼寝してばかりいるが、いったん漁に出るとなれば早朝から何時間でも網を引き、木舟の底が抜けそうなほどの魚を持って帰る。その豪快な漁のようす、重い網を引く漁師たちの、筋肉の盛り上がった背中に、コダは飽きず見入った。

 ある日コダは腕のいい漁師のひとりをつかまえて、自分も漁につれてゆけとせがんだ。男は困ったように眉を下げて、ウートラの坊っちゃんに、とてもそんなこたあさせられねえですと笑った。

 後日、あきらめられずにコダはその男の家へ向かった。しつこく弟子入りをせがむつもりだった。家の前に着いたとき、中年女の太い声がした。「あんなガキにへいこらして、みっともないと思わないのかい」

 コダは立ち止まった。「俺だって好きで頭下げてるわけじゃねえ」怒鳴り返すのが聞こえた。「だけど、ほかにどうしようがあるってんだ……」

 続く口論に背を向けて、コダはその場から逃げ出した。この漁師をはじめとした里の人々の多くが、課せられた税を納めきれずに滞らせているということは、もっと後になって知った。その日から、コダが漁師になりたいと思うことはもうなかった。漁のようすを遠巻きに見つめるのもやめた……

 コダは足音を殺したまま自分の部屋に戻ると、窓辺で眠る少年の肩をゆすった。

 目覚めは早かった。びくりと体をこわばらせて、少年は息をのんだ。静かに、と身ぶりで示して、コダは手の中のわずかな小銭を少年の手に握らせた。困惑したようすで手の中の小銭を見下ろす少年の表情は、たしかに普通の子供とどこも変わりなかった。

「逃げろ」

 コダは囁いたが、少年はやはり困ったように、彼を見つめ返すだけだった。このとき初めてコダは、言葉の通じないことに苛立ちを覚えた。

 窓の外と少年の胸元を交互にゆびさして、コダはもう一度言った。「逃げるんだ。親父は、お前を殺すつもりでここに置いてる」

 少年はやはり困ったような顔のまま、手の中の小銭を見た。コダはもどかしく何度も窓の外を指した。

 いっそ窓から蹴り出しでもすれば、わけはわからずとも勝手に逃げ出すだろうか。コダはそう考えて、すぐに首を振った。大きな物音を立てれば、父親が起き出してくるかもしれない。気付かれれば逃がすのが難しくなる。ウートラはみすみす損を見逃す男ではない――

 そのときだった。少年がふいに、唇を動かした。

「オマエ、モ」

 ぎこちなく、ひきつれたような声だった。

「お前、言葉……」

 少年は薄い唇を再び閉じて、じっとコダを見上げた。月あかりのせいで、その顔は、まるで血の気の失せたように白く見えた。

 コダは困惑した。言葉が通じていたのなら、何故いままで話せない振りをしていた?

 その問いに、コダは自分で答えた。信用できなかったからだ――言葉のわからない振りをしていたほうが、安全だと思ったからだ。ほかに何の理由がある?

 そこまで考えて、コダは首を振った。「いや、なんでもいい。さっさと逃げるんだ。わかるか。逃、げ、ろ――」

 だが少年は、はっきりと首を振った。

「逃ゲ――ル、オマエ、モ」

 コダはぽかんとして、口を開いたまま、少年の顔を見つめ返した。

 逃げる? ――自分が?

 少年は、コダから視線を外さなかった。呆気にとられたまま、コダはその緑の瞳を、まじまじと覗き込んだ。

 こいつはどこまで事情が呑み込めているのだろうかと、コダは考えた。いったい何故、コダまで一緒に逃げなくてはならないなどと思ったのか。それとも単に、一人では心もとないからついてきてくれという意味なのか……だが少年の表情は、助けを懇願しているというふうには見えなかった。

 逃げる? 何から?

 ふっと、コダは胸に何かが落ちこんでくるのを感じた。

 次のウートラになりたいなどと、思ったことは一度もなかった。それにも関わらず、自分が里の外に出る道もあるということを、どういうわけか、コダはこの瞬間まで、一度も考えたことがなかった。ほかならぬ彼の父親が、後に戻ったとはいえ一旦は外に出て、その当時の話をだれかれとなく吹聴して回っていたにも関わらず。いや、そうした父親への反感と嫌悪が、却って彼の眼をその道からそむけさせていたのかもしれなかった。

 ――うちにはあれ一人しかおらんのを……

 父親の忌々しげな声が、コダの耳に蘇った。もしかわりになる兄弟がいたならば、ウートラはためらわず彼を水神さまに差し出しただろう。それで連中の気が済むなら、安いものだと言って。



 家を抜け出すのは簡単だった。

 あらためて持ち出した荷物は何もなかった。それぞれ身一つに、子供の小遣いのような小銭を握りしめて、彼らは夜に滑り出した。

 里に点在する家々のあいだをすり抜けるうちは息をひそめ、足音を殺して慎重に歩いた。

 夜気は熱く蒸れていた。森から梟の声が間遠に響く。通りかかった畑では、麦の穂が頭を垂れている。いまのところ、次の収穫に不安はないように見える。水さえ出なければの話だが……

 風は行く手、南から吹いている。このあたりではいつもそうだ。河をどこまでも南へ下りつづけると、はるかな先の世界の涯で、河面は煮えたぎってもうもうと蒸気を噴き上げているのだという。その話をコダは、いつか父親のひけらかした知識の中で知った。その蒸気が南から吹き寄せて、やがて冷え、雨を呼ぶ……

 このまま風にさからってしばらく南へゆけば、いくつかの里を通り過ぎたのちに、大きな港町がある。世界の涯ではないが、ウートラがかつて若かりし時を過ごした町だ。港からは何隻もの大きな船が河をさかのぼり、あるいは支流を西に下って、遠くの街と往き来するという。

 そこならば人が多いから、きっと身を隠しやすいだろうというのが、コダの考えだった。何なら船に乗って、さらに遠くまで逃げてもいい。これっぽっちの金では船には乗せてもらえないかもしれないが、着いてしまえば何か方法があるだろう……

 少年は、言葉が充分にわかっているわけではなさそうだったが、コダが河の流れてゆくさきを指で示すと、理解したようにうなずいた。

 アッロス河の水面が、月光をはじいてさざ波立っている。寝物語に水神の話を語り聞かせた祖母の声が、コダの耳の奥にはまだ残っていて、いまでも忘れたころに、しばしばふっと蘇る。くだらん迷信だと吐き捨てるウートラの声が、それに重なる。足どりがいつしかだんだんと速まってゆく。

 人家からすっかり遠ざかったところで、どちらからともなく、二人は走り出した。

 満月のおかげで、足元に不安はなかった。蒸し暑い夜気は、それでも走れば風になって、少しは涼しく頬を冷やした。息がはずむ。並んで走りながら、二人は目配せを交した。

 足元を鼠か何か、小さな動物が慌てて逃げてゆくのが視界の端をよぎった。それが急に可笑しくなって、コダは笑った。口の端だけで小さく笑ったつもりが、気がつけば声に出ていた。

 つられたようすで、少年も笑いだした。悪夢に魘されて発したときの、低くねじれた悲鳴と、同じ人間の声だとはとても思えないような、明るく澄んだ笑い声だった。

 しばらく走るうちに、少年のほうがいくらか遅れ始めた。長く伏せって体力が落ちていたためだっただろうが、自分のほうが足が早いという小さな勝利感に、コダは嬉しくなった。気分が高揚していた。このまま走りつづけて、どこにでも行けるような気がした。

 だが実際には、笑いながら走ったために、すぐに息が切れた。そうすると今度はそれが可笑しくて、コダはよけいに笑った。肩越しに振り返ると、少年と視線があった。月明かりをきらきらとはじいて輝く緑の瞳は、もう直視しても少しも恐ろしくはなかった。

 月が明るすぎて、ふり仰ぐ目に眩しかった。走っていた四本の足がゆっくりと速度を落とし、やがて歩く速さになって、少年がコダに追いついた。ずいぶん肉づきの戻った頬が、すっかり紅潮していた。

 コダは足を止めた。

 少年は息を整えながら、不思議そうに首をかしげて、立ち止まったコダと行く手とを交互に見た。その瞳に、いまは何の翳りも見えなかった。無邪気とさえ見えた。誰も信じないというあの眼差しは、いったいどこに消えてしまったのだろう。

 コダはいっときの間、そのまま立ちつくした。上った息を整える間、黙り込んで、眩しすぎる月を、じっと振り仰いでいた。

 それからゆっくりと顔を下ろし、行く手、河の下ってゆく先を、手のひらで示した。

「行けよ」

 少年はきょとんとして、首をかしげた。単純に言葉がわからなかったのか、それとも言われていることの中身が理解しがたかったのか、どちらだろうと、コダは考えた。

「ここからは、一人で行け」

 言って、コダは少年の肩を乱暴に押した。少年は眼を見開いて、押された肩と、コダの手とを交互に見た。

 コダはもう一度少年の肩を押すと、自分は踵を返して、もと来たほうへと戻りはじめた。

 迷い迷い、少年が追いかけてくる気配があった。コダは立ち止まって振り返り、少年を睨みつけて、足元から石を拾った。少年が足を止めた。

 その足元に、コダは石を投げつけた。まだ動かない少年を見て、コダはもう一つ石を拾った。さっきよりも大きな、尖った石だった。それを手に握って目を合わせても、少年はまだ動かなかった。コダの顔を、途方に暮れたような顔で、ただ見返していた。

 コダが腕を振り被ると、ようやく少年は、ひとりで走り出した。そして何歩も行かないうちに、また振り返った。コダは歯を食いしばって、少年をにらみつけた。

 このまま自分が一緒に逃げれば、ウートラは追手をかけるだろう。

 叔父をののしるウートラの悪態を耳に思いだしながら、コダは考えた。あの父親は、きっとそうするだろう。出来の悪いひとり息子を心配するためにではない。いずれ自分の血を引いてもいない人間に、自分の財を与えねばならないということには、とうてい我慢がならないからだ。それが彼自身の死後の話にすぎなくとも。

 だからウートラは、ひとり息子の行方を追うだろう。だが、少年がひとりで逃げるなら? そして自分が戻り、まるで違う方角に向かって、少年が逃げたと証言するなら?

 振り返り、振り返りしながら走ってゆく少年の背中をめがけて、コダは石を投げた。石は当たるはずもなく、ずっと手前で地面に落ちたが、それでもその音は、少年の耳に届いたに違いなかった。それからは振り返ることなく、影は遠ざかっていった。

 その姿がすっかり遠ざかって見えなくなるまで待って、コダはもと来た道を歩きだした。




(終わり)

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