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河岸の月  作者: 朝陽 遥
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中編

 少年は日がな一日寝台に横たわっているか、せいぜいが腰かけてぼんやりと宙を見つめているばかりで、寝ているのか起きているのかもよくわからないことが多かったが、それでも日に四度、差し出されるままに食事を摂っているうちに、やがて少しずつ肉がつき、遅れて血色も戻ってきた。

 そうして体が恢復の兆しを見せるにつれて、少年は眠りのうちに魘されるようになった。

 低くねじれた呻きが耳に飛び込んで、コダが跳ね起きたとき、まだあたりは真夜中だった。はじめは聞き間違いかと思ったコダだったが、耳を澄ませてみれば、やはりその声は少年のものだった。

 それまで一度も口をきいたことがなかったものだから、コダはそもそもこの子供が、声が出せないものだとばかり思い込んでいた。だがいま名も知らぬ少年は、たしかに夢の中で呻いていた。その言葉にならない唸り声は、コダの耳に、悲鳴のように聞こえた。

 コダは寝台から下りて少年の枕元に歩み寄った。魘されているのが可哀相だから起こしてやろうかというよりも、うるさくて自分が寝付けなかったためだった。

 午後に激しく降った雨はすでに上がって、開け放していた窓からは乾ききらない湿った夜気とともに、青白い月の光が斜めに入りこんでいた。

 いくらか肉が戻り始めたといっても、少年の肩はいまだ薄く骨ばっていた。それをコダが掴んで揺さぶると、少年はその手を激しく跳ねのけて、大きく目を見開いた。

 月光の下で見るその瞳は、木漏れ日を受けて煌めく淵のようではなく、午後の強烈な日差しの下で黒々と沈む木陰のような、暗く底の知れない色をしていた。

 このとき少年の顔にあらわれた表情を、コダは前にも見たと、とっさにそう感じた。おかしな話だった。拾ってきた日こそ、少年は熱に浮かされて苦しげな顔をしていたが、それ以降は人間とも思えないような無表情を貫いて、感情らしい感情をけっして見せたためしがなかったのだから。

 だがコダが記憶の糸をたぐりよせるよりも早く、少年はいつもの無表情に戻った。少年はこわばっていた手から力を抜いて、コダの顔を見るともなく、ぼんやりと見返した。

 コダは正体のわからない不安に駆られて、視線を少年の顔から外した。背を向けて自分の寝台にもぐりこみ、眠ろうとして目を閉じたが、眠気は一向に訪れなかった。いつにも増してひどく蒸し暑い夜で、それがますます眠りを妨げた。

 背中越しに感じる少年の気配はひどく希薄で、コダには少年が再び眠りに落ちたのか、あるいは自分と同じように寝付けずにいるのか、見当もつけられなかった。



 翌朝、日が昇るのを待って寝台から這いだしたコダは、水を浴びようとして、女中を呼びつけた。

 水汲みは重労働だ。ここらの里に井戸はなく、みな河から汲んだ水を運んで使う。夜明け前に起きだして一日に使うだけの水を汲むのは、この家では決まって一番新入りの女中の仕事だった。夜の明けるよりもずっと前に起き出して、何度も河まで往復しなくてはならない。そのうえウートラの屋敷は里の中でもっとも河から離れた高台に建っている。これに音をあげて早々に暇を取る若い女中も多かった。

 このときの女中もすでに日々の仕事に嫌気がさしているのが目に見えるありさまで、無言でコダに桶を差し出した手つきは、ひどくぞんざいなものだった。それでも、その手に目を留めたコダの表情から彼の不機嫌を察すると、女中は慌てて顔を伏せた。

 コダはその頭を掴んで、強引に顔を上げさせた。特に考えがあってしたことではなかった。この女が下げた頭の下で、どんなふうに笑って舌を出しているものか、見てみようとしたのだ。

 女は笑ってはいなかった。コダとさして変わらない齢ごろの若い女中は、ひどく怯えた顔をして、視線をおぼつかなくさまよわせた。その卑屈なさまを鼻で笑って、コダは手を放した。女は後ずさり、逃げるようにして駆け去った。

 中庭に出て水をかぶっても、眠気は重くまとわりついたまま、一向に去ろうとしなかった。コダは庭に打ち捨ててあった古い甕に腰掛けて、そのままぼんやりと、桶の底に残った水を見つめた。このところ鳴りを潜めていた苛立ちが、久しぶりに胸を塞いでいた。

 やがてさざ波立っていた水面が静まり返ると、コダはそこに映ったものを見て、はっとした。

 昨夜、いつかどこかで見たと思ったあの顔が、そこにあった。いや、顔立ちにはどこも似通ったところはない。だがそれにも関わらず、驚くほどふたつの顔はよく似て見えた。

 水面におぼろに映る自分は、誰も信じないという目をしていた。



 その日から、少年はたびたび魘されるようになった。夢の中から響く悲鳴は、いつも小さく掠れたもので、ほかの家人を起こすまでにはいたらなかったが、コダは毎晩のように眠りを破られた。

 夜ばかりではなかった。暑い地方のことで、もっとも日の高くなる正午からのいっときの間、誰もが陽射しを避けて昼寝を決め込む。そうした午睡の間にも、少年はしばしば夢に魘された。

 かと思えば、じっと座ったまま、何かを考えこむような顔つきをするときがあった。そういうとき、コダが傍に寄ると、少年は気配を察して顔を上げ、そのたびに何かを迷うような、困惑したような顔になった。

 そうやって人なみの表情を取り戻してみると、もう少年は、水神の化身だの遣いだのというようには見えなかった。

 ある日の午後おそく、皆が午睡からさめて再び動き始めるころ、コダは少年に向かって、子供の頃のことを、とりとめなくぽつぽつと話し聞かせていた。幼いころには魚釣りが好きで、河辺に張り付いて一日を過ごしていたことや、森から細々と流れてアッロス河にそそぎこむ小川をさかのぼって、鬱蒼としげる森の奥深くに入り込んだはいいが、そのうちに夜になってしまったときのこと、調子に乗って獲りすぎた魚を腐らせ、祖母にたしなめられたことなどを。

 自分でもすっかり忘れていたことが、次から次に口をついて出るのに、コダは話しながら自分で戸惑った。少年はコダの話に耳を傾けているとも、聞いていないともつかないような素振りで、あいづちを打つでもなく膝を抱えて、ただじっと座っていた。

 その時、窓の外でかすかに草の鳴るのを聞いて、コダはとっさに立ち上がった。

 窓辺に座っていた少年の体を押しのけると、コダは一息に窓枠を乗り越えて庭に飛び出した。一人の子供が、いままさにあわてて逃げ出したところだった。

 コダはその子供を知っていた。ヤクという名前の、里で一番のちびだった。気が弱く、いつも年かさの子供たちの背に隠れてびくびくと怯えた顔をしているので、かえってコダの目に留まり、よけいに小突かれては泣いて逃げ帰るのが常だった。

 コダの半分の背丈にもならないちびすけのことだから、走り方も危なっかしい。コダはすぐに追いついて、ヤクの襟首をひっつかんだ。

「盗み聞きか? 泣き虫のくせに、今日はずいぶん度胸のある真似をするじゃないか」

 コダがそう言って小さな体をぶら下げると、ヤクは空中で短い手足を振りまわした。「放せよ」

「口のきき方のなってないやつだな」

 コダがその小さな体を振りまわすと、ヤクは面白いように目を回した。

「おどかしたって、怖くないぞ、どうせお前ら、じきに死んじまうんだろ」

 その口から飛び出した威勢のいい言葉とは裏腹に、ヤクの声には怯えが滲んでいたし、目には早々に涙が浮かんでいた。だがそれよりも、コダは言葉の中身のほうに気を取られた。

「誰が死ぬんだって?」

「みんな、言ってる。ウートラの屋敷は魔物にとっ憑かれて、連中、すっかりおかしくなっちまったって。お前らみんな、じきにとり殺されっちまうにちがいねえって」

「ああ?」

 コダは手を放し、ヤクの体を地面に落っことすと、その尻を蹴り飛ばした。それから舌打ちをして、じろりと生垣の外を見た。誰かほかにも隠れているのが、木々の隙間に見えかくれしていた。ヤクが自分ひとりの考えで忍び込んだのではなく、おおかたほかの子供らに、度胸だめしとでもいってそそのかされたのだろう。

 ヤクは慌てて立ち上がると、逃げにかかった。蹴られた尻をかばいながらひょこひょこと走るものだから、追いかけるのはいかにも容易だったが、コダはそうしなかった。これまでずっとほかの連中にまじって彼の顔色をうかがってきた泣き虫が、面と向かって彼に反抗してきたことに驚いて、腹が立つよりも、拍子抜けするような思いの方が勝った。

 窓枠を乗り越えて自分の部屋に戻ると、少年はかわらず寝台に腰かけたまま、コダを見上げてきた。

 コダはその深緑の瞳をいっときのぞきこんで、それからぽつりと呟いた。

「魔物なんかじゃないよな、お前」

 少年が答えをよこすはずがなかったが、それでもこの家に来たばかりのころのように、コダの存在を無視することはなかった。その深緑の瞳で、じっとコダのほうを見つめ返していた。

 返事がないのを承知の上で、コダはもう一度繰り返した。「魔物なんかじゃ、ないよな」



 その日の夜更け、コダは前触れなく目をさました。いつものように少年が魘されていたというわけではなかった。いつにもまして蒸し暑く、寝苦しい夜ではあったが、そのとき少年は深い寝息を立てて、穏やかに眠っていた。

 夕方に降りだした雨が夜半になってようやく上がり、いまは満ちた月が、白々とした光を窓辺に差しかけていた。

 コダは寝台から抜け出して、廊下に滑り出た。やけに喉がかわいていた。土間へゆけば、前の日に汲んだ水がまだ残っているだろう。窓の外から夜を割いて、かすかに梟の声が響いていた。

 居間から父母の声がするのを聞いて、コダは足をとめた。

「――らしくないじゃないですか。どうしてまた、あんなおかしな子供を家に置く気になったんです」

「文句があるのか」

「そうじゃありませんが……」

 めったに夫に逆らったことのないエレテが、めずらしく夫の真意を問いただしているらしかった。少年を遠巻きに見ていた母親の、いかにも気味の悪そうなようすを思い出して、コダは眉根を寄せた。まさか、いまさら追い出せとでも言う気だろうか。

「女中もみな気味悪がっています。それに、近ごろどんな噂が立っているか、ご存知ですか」

 ウートラの忌々しげな低い舌打ちを、コダは聞いた。それに怯えてエレテが黙り込む気配を感じながら、コダは迷った。喉は乾いているが、二人のいる部屋を通らなければ水は飲めない。

「好きに言わせておけ。まったく、ここらの連中の迷信深いことといったら、昔っからひとつも変わらんな」

 ウートラは吐き捨てるようにそう言った。まだ彼がいまの立場になる前、先代のウートラが存命だった頃に、この男は里を出ていた時期があった。領主の治める南方の港町で、学舎に通っていたのだ。

 城下町とはいえ、はるかな王都には及ぶべくもない、鄙びた地方の小さな都市には違いなかったが、それでも港を擁する、雑多な人の行き交う街だ。そのころに見聞した知識をウートラは自慢に思っており、その分だけ里の人々の信心を迷信といって見下すきらいがあった。「水神さま、水神さま! 祟りだのなんだのと――まったく、うんざりだ!」

 拳で卓を叩く音がして、コダは首をすくめた。ウートラはもうひとつ舌打ちをして、鼻息を鳴らした。「だがそれで連中の気が済むんなら、あのガキ一人を食わせてやるくらい、安上がりなもんだ。そうだろう?」

「どういうことです?」

 飲み込めないようすで妻が訊ね返すのに、ウートラは長い嘆息を吐いた。

「お前もその空っぽの頭で、たまにはものを考えてみたらどうだ。このあいだの大水のとき、連中、何と言った。覚えているか、え?」

 短い沈黙をはさんで、おずおずとエレテが答えた。「祀りかたが足らないから、水神さまがお怒りになったと――」

「そういうことだ」

 ぶつりと断ち切るように、ウートラは吐き捨てた。「ハッドラのやつ――昔はウートラが率先して自分の子を差し出したものだと、そう抜かしたんだぞ。お前もその場にいただろう、それとももう忘れちまったのか。え?」

 コダは息を呑んで、慌てて自分の口を手でふさいだ。幸いにも、居間の中にまでは聞こえなかったようだった。ウートラは鼻息荒くまくしたて続けた。

「冗談じゃない、うちにはあれ一人しかおらんのを承知で、あんなことをいいやがる――おれが気にくわんから、水神の祟りを口実に、後継ぎを始末しちまおうという腹だ。そうすりゃ次のウートラは、自分の息子だからな」

 コダは息を詰めて、父親の言葉を胸中に繰り返した。

 ハッドラというのは、彼の叔父、ウートラの実弟の名前だった。愛想のいい男だが、兄によく似た抜け目のない眼をしていて、昔から内心で兄を疎ましく思っているのを、隠そうとして隠しきれないようなところがあった。

 コダは少年を拾ってきたときのことを思い出した。めずらしく上機嫌だったウートラの姿――吝嗇な彼にしては珍しいほど気前よく、無駄飯ぐらいが増えることを許した。

「じゃあ、コダの代わりに――」

「それで連中の気が済むんなら、安いもんだろう。いっそ早いところ水が出てくれれば、ますます安上がりで済むんだがな」

「そんな。だけどもし万が一、あの子供がほんとうに――」

 エレテは言いさして、怯えるように言葉を飲み込んだ。ウートラがじろりと妻を睨むのが、壁を挟んだ反対側にいても、コダには目に見えるようだった。

「お前も連中となにも変わらんな。くだらん迷信なんぞに振りまわされて、馬鹿らしいとは思わんのか。悪霊なんぞおらん。水神もだ」

「だけど、それなら、あの瞳は……」

「ああいう色の目をした連中は、北方には珍しくもない。高地のなんとかいう国が、戦に負けたというからな。おおかたここまで逃げてきたんだろうさ……」



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