私の愛しいひと
女性に対してフランス語で、『私のいとしい人』とは「マ・シェール」というのだと知り、彼女には名前を付けました。名前の段階で、エイネム様の最愛の人であると表現していますっていうこれまで明かしていなかった事実。呼びかけるたびに、恥ずかしくなりそうですね…(エイネム様以外は)。
扉を開けると、待ち受けたように小娘が立っていた。
やはり予想していた通り、我に用があったのだと分かりうんざりする。
『このような深夜に、何の用だ小娘』
念話で話し掛けてやれば、小娘は僅かに顔をしかめる。
大した反応を見せてはいないが、相当体に負担がかかっているのだろう。このまま話し続けてもいいが、小娘が部屋のまえで倒れていたとなればシェールは心配してしまうかもしれない。
彼女を苦しませるのは本意ではないため、『場所を変えるぞ』と小娘を誘導し屋上へと連れ出した。
「ねぇ…どうして、シェールを選んだの?」
媚を含んだ言葉に、吐き気がする。
やはり所詮小娘は、貧相な小娘でしかなかったようだ。艶然とほほ笑むさまは男に媚び売るそれと変わらないのだから、女とは恐ろしいものだと嘆息する。
このような獣相手にまで媚を売るなど、ご苦労なことだ。
生け贄として選ばれたシェールが差別されていた事は知っている。髪や瞳の色などとるに足らない物だというのに、人間どもは本質など見ようともせずに彼女を排除しようとした。心無い周囲の言動に傷つき、最後には彼女自身ですら生を諦め『シェール』を不必要だと言った。
死するかも知れないのに、捧げの場にいた彼女は驚くほど静かだった。
これから起こることに怯え叫ぶことなく、呼吸を乱すこともない。まるで何十年も生きて、穏やかに死を待つ老人のようであった。今より痩せこけた細い体からは、生命力がほとんど感じ取れず、彼女くらいの年齢の娘には似つかわしくない独特の雰囲気を発していた。
絶対的な捕食者を前にした動物ですら、ここまで大人しく死を待つことはない。
あまりに、生き物としては不自然な姿ではあったが、なぜか我の瞳にはとても興味深く映った。彼女の目に映る場所に降りても、少し驚いたように目を見開くくらいで逃げる様子も媚びうる様子も見せない。
確かにこちらを認識しているはずなのに、これまで見てきた人間とは、全く異なる反応を返してくる。
この娘はなんなのだと戸惑いながらも、どうしようもなく気になった。
我の傍にいれば、この娘はいずれ変わっていくのだろうか?
王族に群がる人間どものように金品を望み、権力を欲し…いずれ欲にその瞳を汚すようになるのであろうか?
我が答えのでない思考に溺れていると、ふっ…と娘が笑みを浮かべた。その刹那、全身に衝撃が走るのを感じた。
―――みたい
近くでこの娘を見ていたいと強く感じた。
できれば笑顔を……今のような儚く消え入りそうな笑みではなく、命の輝きを感じさせるような力強い彼女の笑顔が見てみたいと思った。
「ねぇ…エイネム、あの娘より私の方が魅力的だと思わない?
きっと宝石や豪華なドレスだって、私の方が似合うわよ」
シェールと出会ったときのことを思い出していると、二人の記憶に土足で踏み入るような言葉が聞こえてきた。まったく…彼女はたった一瞬で我を魅了したというのに、この小娘は我を不快にする事しか口にしない。しなを作り笑いかけてくるその姿も苛立ちをあおられるだけで、魅力的だとはとても思えない。
感情を殺したまま小娘を見つめると、何を勘違いしたのか我に無断で触れてきた。
すっと毛に触れられる程度の感触だったのにもかかわらず、ぞわっと全身の毛が逆立ったのを感じる。
『―――やめろっ』
極力怒りを抑えていたのだが、思ったより力を殺し切れていなかったようだ。
小娘が後ろに吹っ飛び、その体からはわずかに血のにおいを感じ取れた。膝をつき僅かに呻いているが、大したけがをした様子は見られない。これならばシェールにバレても怒られることはなさそうだと、頭の端で考える。
『嗚呼…シェール以外のにおいが付いてしまった』
首を折り自身の体を確認する。あれだけ近くにいて、多少なりとも触れられたのだ。においが付いていない方がおかしい。理性ではそう考えるのだが、感情が追い付かない。こういうときは敏感すぎる自身の嗅覚が憎たらしくなる。体に付着したにおいがやけに鼻につく。
小娘が発する血のにおいで、考えていたより冷静さを欠いているようだ。
シェールに出逢ってから、雌という雌に近づくことなく触れるなどもっての他だと避けてきた。
小動物どころか虫の雌に触れることもなく、それこそすべて避けてきたのに…こんな形で彼女と同属の雌に触れられるなど、不愉快以外の何物でもない。
『不快だ…鼻がもげる、早く水を浴びなければっ』
バシャアァッッ
急いで小娘の体臭を消すため、周囲の事には目もくれず自身に水をかけた。
術で出した水はそれなりの量があったはずだが、一度くらいではにおいが落ちた気がしない。周囲には局地的な雨が降ったのかと間違うほどの水たまりができた。
…だがそれは些細なことでしかない。
現在自分が置かれている状況すら忘れて、ぶるぶると毛についた水をきる。
『一度くらいでは、まだ取れない…』
再び、においを消そうと大量の水を浴びていると、突然ごく近い場所から笑い声が響いてきた。
先ほどまでは苦しそうに体を折り曲げていたというのに、小娘はもう立ち直ったらしい。ケラケラと下品に笑い声をあげている。こちらは不愉快極まりないというのに、何をそんなに笑っているのだ。
『貴様っ…どういうつもりだ』
こちらを誘惑してきたかと思うと、人の不幸を嘲笑うなど趣味がいいとは言えない。
―――全く、これだから人間はいやなのだ。
我を勝手に神だなんだと祭り上げたと思えば、一部ではそれに反して我を始末しようと暗躍する者がいる。望んでもいないのに巻き込まれる側の気持ちを考えろ!
『我はただ、シェールと穏やかに過ごしたいだけなのに…』
つい、ため息とともに零れ出た熱風が渦を巻いて、我のずぶ濡れた体を乾かした。
意図したことではなかったが、熱風は距離の空いた小娘を攻撃するまでには至らなかったようだ。顔をしかめた程度の反応しか示さなかった。
「あらっ…毛がべちゃりと体に張り付いて、間抜けで可愛かったのに残念ですわ」
『いっそ、焼き殺してやるぞ』
グルグルと喉を鳴らして威嚇するが、小娘が堪えた様子はない。
神と呼ばれている我を利用しようとした位なのだから、当たり前といえば当たり前か。相当図太い根性と厚い面の皮をもっているのだろう。
「―――さすがに、この…念話?を続けられると辛いので、勘弁して貰えません?
あなたを試そうとしたことは謝るから」
「……はっ、小娘の分際でシェールを愚弄するから悪いのだ」
苦しそうな小娘に、自業自得だと鼻で笑って返す。我を試そうとしたことよりも、シェールを引き合いに出したことが許せない。それがたとえ本心ではないとしても言い過ぎだ。
「ふふっちょっと痛い目にあってしまったけれど、まあいいわ。
あの娘を大切にしているってわかったから」
「勝手なことを…」
「そうね。どちらかというと、焦がれているって言った方が正しいのかしら?」
神と巫女姫なんて、まるで童話みたいだわなどと、小娘はにこやかな笑みを向けてくる。常のような憎しみの込められたものではなく、先ほどのように妖艶なものでもない笑みは初めて見る類のものだった。
エイネム様が…イタイ感じになってしまいました。