精神安定剤
不本意ではあるが、あの貧相な小娘はシェールの友人だと確認がとれた。
―――そして、あの娘は『シェールが本当に幸せなのか確認するために、此処へしばらく置いてほしいっ』と言い出したため、仕方なく残ることを許可した。
本心では…シェールを泣かし、取り乱す原因を作ったあんな人間を、彼女に近づけたくなどなかった。それでも小娘を此処に残すことを許したのは、シェールには我やジェドのほかに身の回りの世話をする者が必要だろうと考えたからだ。
ジェドには前々から『女性は繊細で何かと入用なのだ』と聞かされていたし、シェール自身小娘が残ると言い出したときには嬉しそうな……困ったような複雑な感情を抱いているのを感じ取れた。これは相手に対する気遣いなどから来るものだと分かり、短い間だけでも小娘を近くに置いた方が彼女の為になるだろうと、判断したのだ。
「シェール…そんな大きな犬は放っておいて、一緒にお菓子でも作りましょう?」
昨日、約束していたでしょう?っと、小娘が小首をかしげて聞くさまに苛立ちを覚える。
小娘は、そう言えばシェールが断れず約束を優先させることを知っているのだ。
思わずグルグルと獣のように威嚇してしまうが、シェールの困り切ったという表情を見て声を殺す。シェールは以前、一度は小娘に「帰れ」と言ったがそれが本心ではないことなど分かっている。彼女は我が憎々しく思うほどにあの貧相な娘を気に入っているのだ。
苛立ちが消えたわけではないため、眉間には先ほどよりも深くしわが刻まれたのが分かった。
「犬だなんて…ごめんなさいエイネム。
ランツェと美味しいお菓子を作ってくるから、後で食べてくれる?」
至近距離で彼女に瞳を覗き込まれ、黙ってうなずくことしか出来なかった。
「途中なのに、ごめんなさい」と眉を下げながら、シェールは我の眉間に寄った皺を伸ばすように頭を撫でて出て行った。
楽しみにしていたブラッシングは途中で止められ、菓子作りのはじまった調理室からではシェールの香りが分かり辛くなる。
「毛が入ったら嫌だから、犬は応接間にでもいなさいよ」
何処か勝ち誇ったように小娘に言われたときは『なんてことを言うのだっ』と反論したが、シェールにまで申し訳なさそうな顔で調理室に入ってこないようにお願いされればいう事を聞くしかない。……そもそも、我の大きな体で調理室など入ってしまえば身動き取れなくなる。
そのため、緊急時以外は入らないようにすると彼女と約束しているのだ。
我は人間どもと違って、容易く誓いを破ったりはしない。
「…だから、分かってはいるのだ」
力なくソファへ近づくと、シェールがよく使用しているクッションを引っ張り落し、顔を寄せた。ふんわりとした花のような香りが鼻をくすぐり、ほっと安心してしまう。彼女が湯浴みをして離れている時などはしょっちゅうこの行為をしているせいか、シェールはいくつも我専用のクッションを作ってくれた。
しかし、それではだめなのだ。彼女の香りがしみ込んだ物でなければ、この安心と幸福感は得られない。クッションに顔を埋めたまま、目をつぶって深呼吸する。
―――誰かの香りで安心するなど、これまでにない感覚だ。
シェールの傍にずっといることが出来るのならばそれが何よりだが、我にも彼女にもやることがある。
これも必要な我慢だろうと、無理やり自分を納得させた。
✾ ✾ ✾ ✾ ✾ ✾ ✾ ✾
此処に滞在することが決まった当初、小娘は「シェールと同じ寝室がいい」と言い出したが、もちろん我が却下した。小娘の部屋はシェールの寝室から一部屋置いたところに用意した。
小娘が来て直ぐの頃、数日間は共に眠ることを許したがもともと我がシェールと眠っていたのだ。ベッドに入ってしまえばきつくなるため、我は床に寝る形になるが。
時々「一人だと寂しいから…」と言って、シェールは我に抱きつき眠ってくれる。
床に寝ころばせることになるのは心苦しいが、「このカーペットはふわふわだから大丈夫です」と優しく微笑んでくれるのに甘え、我の体を枕代わりにするようにさせている。彼女の香りを近くで嗅ぎ…体温を感じながら眠るのは、我にとって至福の時間となっている。
彼女にそのことを伝えた事はないが、普段より勢いよく振られる尾の動きに気付いているのだろう。わざと甘えるしぐさをしてくれることもある。
その日も、いつものようにシェールと休んでいる時だった。
深夜、すこし距離を置いた場所から扉を開ける音がしたかと思うと、小さな足音は我々が寝ている寝室のまえで止まった。片目を開いてしばらく様子をみるが、何を言うこともなく立ち去る様子もみられない。
首をあげベッドで眠るシェールの様子を窺ってみたが、規則正しい寝息が聞こえるだけで目を覚ましてはいないようだ。
彼女は眠りが深いため、早々起きることはないだろう。滅多に吐くことのないため息を殺し、そっと彼女を起こさないように外へと足を向ける。
ゆっくり開いた扉の前には、瞳を妖しく光らせた小娘がいた。