正否の有無
お時間頂いており、すみません。
極力物音を経てないように、そっと中へ侵入した。
シェールの寝息は穏やかで、さほど眠りは深くなさそうだが、起さないで済んだようだ。ジェドの母親は、我と二、三言葉を交わしたのちに帰って行った。それを見届けた後、彼女の部屋に入りたいなどと言ったら、小娘が抵抗するだろうと思っていた。それなのに、扉の前に座っていた小娘は、二三言葉を交わしただけでその場を後にした。
「どうしてもシェールの顔を見て、謝りたい」と言っただけなのにそんな反応で、戸惑いを覚えたのはこちらの方だった。もしかしたら、ここでもジェドの母親が何か根回しをしていたのかもしれない。今後は多少、ジェドに水を浴びせる回数を減らしてやろうと、寛容な心が生まれるというものだ。
久しぶりに足を踏み入れた彼女の部屋は、多少空気がこもっていたが、彼女本来のにおいしかしなかった。前回に来たときは微かな病のにおいがしていたから、その変化に心底安心させられた。
ジェドとあの医者には、感謝しなければならないようだ。
微かな明かりしかない、薄暗い部屋でもシェールの姿はよく見える。静かな寝息を立てるその姿はうっすらと汗は掻いているものの、うなされた様子もなくて息を吐く。
どれくらい、そうしていただろうか。
シェールの寝息を聞くだけでは飽き足らなくなり、額にそっと口元をつける。顔を近づけるだけでも平熱であることは確かでも、実際に触れてみるのとはまた違う。熱などないし、呼吸の乱れもない。
大丈夫なのだと何度言い聞かせても、不安はやってくる。
安心しては不安になっての繰り返しで、こんなストレスにさらされたのは初めてかもしれない。もしかしたら、シェールも同じような……いや。それ以上の不安にさいなまれていたのかもしれないと思えば、何もわかっていなかった己を嘆きたくなる。
「え、いねむ……?」
「シェール、大丈夫か?」
少し眠そうに眼をパチパチと瞬かせるのは、常と変わらない動作でほっとする。
しばらく様子を見ていると、水を飲みたがったのですぐに水差しをちかづけてやった。こういう時は、人間のように看病できない己を歯がゆく感じる。
軽く体を起こして水をちびちび飲む姿を見守っていたが、どうやら喉が痛むらしい。少量の水でも急き込んで、眉間にしわを寄せている。
「嗚呼、シェール。医者を呼んでこようか?」
「だい、じょうぶ。なんて、ことないって……」
「シェール、無理して話さないでいい」
息をするのも辛そうなのに、無理に絞り出される言葉はこちらの胸を突く。
息を吐くだけで咳き込み、吸うたびに眉をしかめているのに、どうしてそんなにも頑張ろうとするのか。シェールは意外に頑固なのだと、昨日までなら苛立っていたことにも、今では感心すらしてしまう。知れば知るほど、彼女のことを理解しきれていないのだという実感は、一度受け入れてしまえばなんてことのないことだった。
知らないのならば、教えてもらえば良い。
理解できないのならば、そういうものだと受け入れれば良い。
何も難しいことではなかったのに、どうして我はこんなにも焦っていたというのか。
はじめて自ら共に居たい、好かれたいと思う存在を得たからと言って、慣れない感情に振り回されすぎていた。
あまりに余裕なく、無様な姿をさらしてしまったと反省こそすれど、存外そんな自分が嫌ではないのだから致し方がない。
「エイネムは……なんてことないって、言ったけど」
「ああ、それが怒っていた原因か?」
「ちがっ……」
「そんなに急いで話さないでも、今度はちゃんと聞くから」
声を上げようとしてむせるシェールに、あわてて水を勧める。
水差しからコップへ水を注いでみせると、彼女は恐る恐る口をつけた。
「そんな、口を少し湿らせた程度で大丈夫か?ほしいなら、もっと水を用意するぞ?」
「だぃ、じょぅぶ」
こんな時でも遠慮しようとする彼女が歯がゆくて、何か要望を伝えてくれはしないかと期待する。我は、少しでも彼女に必要とされたいし、構いたくてしょうがないのだろう。言ってしまえば、あれもこれも自らのためだというのに、彼女はこちらの願いを叶えてくれようとはしない。
もっと、わがままを言って欲しい。
もっと、素直に甘えてほしい。
そんなこの気持ちを、どうやったら彼女に正しく伝えられるのかと、彼女と離れている間にずっと考え続けている。
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まだ、あれは我の屋敷が出来たころの話だ。
我が初めて話した神官長は、それはそれは話好きな奴で。何かと我に話しかけてきては、とりとめのないことを口にした。
「エイネム様、覚えておいてくださいね」
どうせ、その日も似たようなことを口にするのだろうと気にも留めていなかった。
『お前、いつも不可解』
「―――私たち人間は、」
『意思の疎通、拒否……?』
此方の言葉を完全に無視された日だったというのに、その後に言われた言葉はずっと忘れられず残っていた。
ようやく意識の戻ったシェールを目の前に、我はそっとベッドから頭を上げる。
彼女は「早く動きたい」とのぞんだが、さすがに数日は安静にしておくようにと皆で止めた。ずっと寝ていては足腰が弱ってしまうし、逆に不健康だという。けれど、十分も庭で日光浴したら「眩暈がする」と言うくらいだ。とてもじゃないが、庭仕事なんて許可できない。
「エイネム、本当に駄目?」
「ダメだ」
「本当に?動くのは健康にいいって、お医者様も言ってたんだけどなー」
こちらを甘えたように窺ってくるシェールに、朝に思い出した言葉が浮かぶ。
「―――間違っていないからと言って、必ずしも正しいとは限らない」
「えっ?」
「以前に、知人から言われたんだ」
「『間違っていないからと言って、必ずしも正しいとは限らない』のだと」
「正しいとは限らない……」
「そうだ」
あの時は、神官長が言わんとしていることが理解できないでいた。
だが、今なら少しわかる気がする。
「きっと天災が起きた時、他の誰かのために我が向かうのは、間違っていない。だが、だからと言ってシェールを置いて、我が動くのは必ずしも正しいとは限らない」
「エイネム……」
「正しいとは限らないんだよ。シェール」
自身でも、突然だとは思う。
だが、あいつの言葉を思い出したら、これは今伝えるべきことだと思えたのだ。
「だからシェールは心配させるなと怒っていいし、不安だったと泣いてもいい」
それが、我にとって何より『正しい』ことなのだ。
病み上がりの彼女に伝えるには、少々酷だったかもしれないが、彼女に心を殺したまま傍にいて欲しくはない。
「我はきっと、シェールが責めたり泣いたりしてくれた方が、大事にされていると実感できて嬉しくなるんだ」
少しでも彼女に伝わるように願いながら、そっと体に沿って顔を寄せる。
何時もより弱弱しい力で少しくすぐったかったが、目を瞑ってやり過ごすことにした。