擦れ違い
ーーー酷い雨風のなか、時々ふとした間が空き静寂が訪れる瞬間がある。
まるで夢を見ているかのように、葉が暴れ狂う音も、雨が激しく降り注ぐ音も感じない時があるのだ。そんな時は決まって、彼女の声で優しく呼ばれているような気がして、わずかな幸福に酔いしれるのだ。
大きな屋敷の中で、甲高い叱責の声だけが響いている。
「ばかっ、馬鹿!エイネムなんて……ほんっとうに、馬鹿!」
「……すまない」
何度となく責められる言葉を浴びて、もうしばらくすれば床にのめりこんでしまうのではないかというほど体を伏せる。屋敷に戻ったのは二日前だというのに、彼女は未だに怒りを忘れられずにいるらしい。怒りに肩を震わせる彼女は、雷鳴や大嵐なんて目じゃないほど恐ろしい。幸い、あの規模の嵐がきたにしては被害が少なく済んだようで何よりだと思ったのに、嵐はこんなところにも影響を残していた。
我はどうやら、彼女と話している時に疲れて眠りこんでしまったらしい。
無事に任務をやり遂げた安堵と、ずっと焦がれていた彼女に逢えたことで緊張の糸が切れたのだろう。気づけば、我を見ながらボロボロ涙を流すシェールが目の前にいて驚いた。少々ヘマをやって、ふさぎ切れていない傷があったのも災いしたのだろう。「たくさん血が出ていたから、死んでしまうかと思った……」なんて、ぎょっとするようなことを言われた。
我にとっても、普段の見回りであれば適度に休みを取り、雨風の強くなった時間帯は作業をやめたりしていたが今回は話が違った。置いてきたシェールが心配で、不安に揺れていた瞳を少しでも早く晴らしたくてだいぶ無茶をした。休憩する時間などもったいなく、何度かジェドに出くわした時も頑として受け入れなかったのがバレてしまった。
「エイネム様、国のために頑張っていただけるのはありがたいですが、嵐がひどくなってきましたし、しばらく休んではいかがですか?」
「嵐など、いつ晴れるかわからないだろう。此度の嵐は長引きそうだから、うかうかしているうちに被害が拡大しそうだ」
「そう……ですか。大臣たちに言って、もう少し嵐後の修復作業にかける時間と、被害の出た地域への食糧配給を増やすように指示を出します」
「そうだな。復旧が遅くなればなるだけ、我がシェールといられる時間が減るから心して励め」
「―――やっぱり、シェール姫が理由なんですね」
「それ以外で、こんなに急ぐ必要はなかろう」
あの時ジェドは思いっきりあきれた表情をしていたが、対するシェールは怒ってしまった。まさかここまで怒られるとは思わず、いっそ早く帰れば彼女が喜ぶだろうと思っていたのに大誤算だ。
「あれだけ、無茶はしないでって!気を付けてって言ったし、約束だってしたのにっ」
「申し訳ない」
「嫌だったのに……心配で、たまらなかったのに」
「面目ない」
彼女の言葉にもまいったが、何より。目の下にできたクマの濃さや、屋敷を出る前より明らかにやつれた姿に胸が締め付けられる。もっと大勢を低くして謝罪の意を示そうとしたところで、微かな違和感に眉を寄せる。
「っエイネム、大丈夫!?」
「嗚呼、慣れない包帯が少々気になっただけだ」
心配してくれた彼女には申し訳ないが、ぐるぐる巻きにされた包帯の下にはすでに傷などありはしないだろう。人間たちと違い回復の早い我は、多少の怪我では気にすることすらしなかった。だから、「今回は多少血を流しすぎたか?」という意識はあっても、こんな風にボロボロになるほど心配されるなんて予想すらしていなく戸惑ってしまう。……今まで、我をこんな風に心底案じてくれた存在は、はたしていただろうか?自身からすれば「少し寝れば治る」程度の感覚でしかないのに、「エイネムがもう二度と目を覚まさないかと思った……」なんて彼女が泣いていて驚いた。
これまでだって、なんだかんだで人間どもに恐れられつつ崇拝されてきたのに、シェールはこれまでの人間とすべてが違ってどうすればいいのかわからない。
「すまない」
「……そんなに、何度も謝らなくていいよ」
わずかに拗ねたように口にされたが、それならどうすればいいのかと見当違いの怒りを覚えそうで何とか飲み込む。「もう二度と、このようなことはしない」なんて、言えば嘘になるだろう。また同じような嵐が来れば、我は身を投じるだろうし、一刻も早く彼女の元へ戻ろうと奔走するだろう。
それを責められたところで、無意識に体が動いてしまうのだからしょうがない。
早く彼女が待っている場所へ帰りたくて、休もうとしても気が収まらず。気づけば森を駆け回っている。そんな気が落ち着かない状況で「止まれ」など、無理なことは言わないでほしい。
「シェール、本当にこれくらいの傷なんてことはないんだよ」
「だって、あんなに血が……」
「なんなら、包帯を解いてみてくれ。きっと君が心配してくれた場所には、傷痕すら残っていないだろう」
「でも……」
どれだけ安心させようと、納得しない彼女にいっそ笑いが漏れる。
なにせ、我を想っていなければ「こんなにも取り乱し心配することはないだろう」と、昨夜ジェドには忠告されている。
「ランツェの証言によれば、姫はずっとエイネム様を心配して碌に休むこともなく帰りを待っていたようですよ」
「そんなに心配しなくても大丈夫なのだが……」
「まぁ、状況も分からずただ待つしかない苦しみを味わわせたのだから、多少の叱責は覚悟するべきですね」
「―――そんなものか?」
「国へ忠誠を誓った我々や、貴方を崇める神殿の者とは勝手が違って当たり前ですよ」
「女心は難しい……」
「エイネム様に取ったら、人間なんて全て珍獣でしょうに」
呆れたような瞳を向けられた時は、「理解できないと感じてはいるが、そこまで思ってない」と否定してみせたが、今は彼女を前に心底困り果てた。どれだけ誠意を持って謝れども、いっこうにシェールは受け入れてくれないのだ。
『本当に……いい加減信じてくれ』
「っ……!」
さすがに、何度言葉を重ねようと否定され、疲れてきてしまった。
思わず本音が念話として伝わってしまったようで、彼女が一瞬眉を寄せる。念話が人間に負担をもたらすと知っているのに、とんだ失態だ。
「ああっ!つい気が緩んでしまった、すまないシェール」
何故か、そんな風に謝罪をしたら、さらに彼女の額に寄ったしわは深くなった。
そんなに念話は不快だったのかと心配したところで、シェールはくるっと身をひるがえして去って行ってしまった。あまりに突然のことだったため思わず引き止めようとしたが、「しばらく、頭を冷やしたいから近づかないで!」なんて叫ばれてしまい、呆然と立ち尽くすしかなかった。