過ぎ去った嵐
夜明けが突然足音を立ててやってきたような深い闇の中、ふっと以前にした彼との会話を思い出す。
「我、君を必要とす」
「えっ……?」
「我はきっと世界が滅びると聞いても、嗚呼そうかと受け入れ嘆かないが、―――君が。シェールが死ぬと思っただけで悲しくて泣くぞ」
「エイネム……」
心が震えるような感覚を味わうと同時に、それならどうして―――なんていう、責める感情が芽生えてしまう。
そんな気持ちに反応したのかは定かではないけれど、突然に周囲の景色ががらりと変わる。
起こった時系列も状況も全く異なるものなのに、次に思い出したのは黒く空を染め上げる雷雨のなか、銀色の毛をばさばさと風にあおられている彼の姿だった。暗転した環境の中、これは単なる記憶にすぎないとわかっていながら、焦ってしまう。何とか彼を止めなければ……、こんなひどい嵐のなか放りだすことなどできはしないと手を伸ばす。
「まっ、」
「シェールが大切だから、我は行く」
決して嫌いになったわけでも、どうでもよくなったわけでもないと言い聞かせるように口にしてくれるけれど、そんな言葉なんの気休めにもならない。引き止める言葉すら最後まで音に乗せることが出来ぬまま、彼との距離は徐々に開いていく。
いつもこちらが望む暇もない程、ずっと傍を離れないでいてくれるのに。
私が切望し、ほんの少しでもいいから心を落ち着かせる時間が欲しいと思っている今は、くるりと踵を返すとその身を嵐の中へと泳がせてしまった。
こうなってしまえば、私が追いかけるすべなどないとわかってこんな方法をとったのだろう。木々のざわめきすら見えない酷い嵐の中、暴力的な雨風だけを感じていた。目を開けていることすら辛い天候なのに、エイネムの白い体はそれと分からぬほどみるみるうちに遠く離れていく。気持ちをぶつけることも、勝手な選択を責めることすらできないまま……彼の姿は見えなくなってしまった。
何度も、『この場面』になると深い後悔がわが身を襲う。
いくど疑似体験したとしても、結局結果を変えられたことはない。しょせんこれは私の記憶が再生されているだけだというのに、心のどこかで違う結末を願っているのも事実だった。焦燥感にさいなまれた私は、何度目ともしれない叫び声をあげた。
「エイネムー!!」
「大丈夫、シェール?」
ぱっちりと、音が出そうなほどはっきりと目を見開いた。
先ほどの光景は、ただ起きたことを夢の中で再び『みている』だけだと頭では分かっているのに、決まって彼の名を呼んでしまう。
ベッドの傍らにはランツェがいて、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
エイネムが嵐のなかここを経って以降、彼女はこうして寄り添ってくれている。ジェド様も国の被害を最小限に抑えようと奔走しているのだろう。月が六回満ち欠けを繰り返しても到底消費しきれないだけの食糧と、こまごまとしたものを大量に寄越して以降、ぱったりと音沙汰がなくなった。
これまでだって、あまりの忙しさに似たようなことはあった筈だ。
だというのに……エイネムがいないという事実は思いのほか重くのしかかり、「もう、疲れすぎてすこし休憩をもらいました」なんて笑ってジェド王子がやってこない事に、現状の悲惨さを痛感した。
「……エイネムっ」
「シェールあの犬っころなら、きっと大丈夫よ。あいつなら殺したって死にそうにないし、怪我を負ったら、真っ先に貴女に甘えに帰ってくるわ」
「じゃあ……」
どこかで、動けなくなっていたら―――?
そんな後ろ向きな発言をすることすら恐ろしくて、ぎゅっと震える体を丸めた。どうして私は、エイネムやジェド様が頑張っているなか、こうしてぬくぬく安全な│ベッド《ばしょ》で夢なんて見ているのだろう。
村にいたころは疲れて悪夢を見る余裕すらなかったのだから、自分にとって最悪な夢でさえも恵まれた環境を自覚する。そんなことを考え始めれば、両親を亡くしてあらゆる『痛み』が感情を支配していた当時にも、よい部分はあったのかと笑いだしたくなる。
あの頃は、白昼夢に追われて寝不足になるなんてことはなかった。
……だって、栄養が圧倒的に不足していた私には、眠ることでしか命をつなぐ方法はなかったのだから。仮にあの時、まともな睡眠すらとれていなかったら、エイネムと出逢うことすらなかったのだと思えば、もっとしっかりしなければという気持ちが湧いてくる。
「シェール」
「痩せてたら……エイネムも、ジェド様だって心配するよね」
「そうよ!あの犬っころは女心なんて無視して、しつこく太れって言ってたんだから絶対怒るわよ」
「ふふっ。きっと、エイネムに女心を理解しろなんて言うのは、私たちくらいね?」
「あの朴念仁に進言できるのなんて私たちくらいなんだから、きっとちょうどいいのよ。一番に被害をこうむるのはシェールなんだから、しっかり教育してやらなきゃ!」
大きな建物をきしませるほどの雨風に二人怯えなくなった頃、ようやくエイネムはジェド様を伴い帰ってきた。
✾ ✾ ✾ ✾ ✾ ✾ ✾ ✾
エイネムが闇へと消えてから、九つほど朝日を鈍い頭で迎えた。
不安な中まともに眠れるわけもなく、私は目の下にくっきりクマをこさえてしまう位に睡眠が足りていなかった。しっかりしなくてはと気持ちを切り替えてからも、うとうとするたびに悪夢は心の隙を狙ってくるのだ。不安な気持ちは伝染するもので、ランツェも眠れていないのか顔色が常より悪くなっていた。
久しぶりの晴れ間からのぞく太陽は目に毒だったけれど、ランツェと窓の外をのぞいて笑いあった。数日ぶりに目にした明るい日差しへ安心したのと、そんな中みる互いの顔色の悪さに笑いがこぼれた。思わず漏れた安堵の息はあまりにぴったりで、ようやく分厚いカーテンを開けられる事実は、悪い夢が覚める合図のようだった。
ほっとするこちらを祝福するかのように、部屋を出た私たちは光に包まれた。
今まで嵐を実感させられて恐ろしかった廊下の窓からは、これでもかというように光が入って神秘的な空間になっている。思わず目を細めた私の耳が、ずっと聞きたかった音色によって震わされた。
「―――シェール」
「エイネム?」
相手を自覚するより早く、私の足は動きだしていた。
濡れ、ところどころに木の枝が絡まった巨体に、思いっきり突進してやる。普段であればなんてことないように受け止めてくれるその体も、今だけは少し辛そうに揺れた。この嵐のなかで何をしていたのかと、詰め寄りたくなる。
「しんぱっい、した…ん、だからっ!」
「すまないシェール」
きっとエイネムの選んだ道はとても正しいものだろうけど、文句を言わずにはいられなかった。
本気で心配していたし、下手をすれば両親のように二度と会えなくなる可能性だって考えていた。
どれだけ責めてもまだ足りなくて、疲れた様子に気づきながらもこぶしを打ち付けた。
どうしてこんなになるまで帰ってこなかったのか、せめてどこで何をするのかすら教えてくれればよかったのにと言いたいことが多すぎて、喉に乾いたパンでも詰め込まれたように言葉が出てこなかった。
安全を確かめるように、ここにいるのだと確認するように、常よりごわごわとした毛を撫で続ける。こんなに濡れてしまっているのだから、早くタオルでも持ってきた方がいいのかもしれないと迷っていると、後からやってきたランツェは「うっわ、床がびちゃびちゃ……」なんて呟いた後、くるりと綺麗にターンをして戻っていった。きっとタオルを取りに行ったのだろうから、もう少し若木を切ったような香りと、どこかざわざわする香りを感じていたかった。
べたついたごわごわした毛を、言葉にすることのできない苛立ちの代わりに無理やり梳いてみせる。何時もはサラサラな毛は指どおりもいいのに、今はところどころで絡み付き……なにより、べたついた感触が嫌に気になった。
どうしてこんなにべたついているのだろうという疑問と、ずっと感じている胸騒ぎに後押しされて、恐る恐る体をはなす。そっと震える右手を正面に持ってくると、そこにはべったりと見たことがないような量の血液で赤く染まっていた。
「―――えっ?」
私が離れるのを待っていたかのように、白く輝く大きな山が傾いていく。
大きな彼との距離はあまりに近くて、ぼんやりと自分の右手を眺めながらその光景を受け入れきれずにいた。まるで水の中からのぞいた景色のようにどこか現実味がなくて、心もとない気持ちになる。そんな混乱した状態から私を覚醒させたのは、エイネムが床に倒れた音だった。