番外編 四月の魚
お久しぶりでございます。
四月の魚(仏訳プワソン・ダヴリル)・・・エイプリルフールのこと。ウィキペディア参考。
どうやら、エイネム様と姫はまた新たな遊びを始めたらしい。
姫がある呪文を発すると、エイネム様がフリーズして石のように固まる。
そんなはたから見たら何が面白いのかわからない遊びだが、本人たちはいたって真面目らしい。この国でも徐々に暖かい風が草花を目覚めさせる時期がやってきたが、そんな風が御二方の頭にまで影響を与えてしまったのかもしれないなんてことを考えてしまうのは、決して忙しい執務に追われているが故の僻みではないはずだ。
……とにかく、面白くはあるが少しエイネム様が不憫に思える会話が、ずっと続けられている。
「ねぇ、エイネム。今日は嘘をついても良い日なんですって」
そんな言葉を皮切りに、シェール姫はエイネム様に「私はエイネムが嫌いよ」なんてことを口にしているのだ。可哀想に、心の準備すらできなかったのだろう。姫を溺愛しているエイネム様は、落ち込む余裕すらなく取り乱し、毛を逆立てて固まってしまった。それはまるで、毛から水気を払おうと体を震わせた犬のように膨張していて、尚のこと哀れだ。
何を思って彼女がそんなことを言い出したのかはわからないが、単なる気まぐれに左右されている姿を見ると同情せずにはいられない。
そんな俺たちの気持ちを知る由もない姫は、ころころ明るい笑い声をあげる。
「もう、これは嘘よって初めから言っているのに、どうしてエイネムは固まってしまうの?」
楽しそうな笑い声をあげる姫には悪いが、今回ばかりは彼女に非があるようだ。
さすがに俺だって、好きな子に嫌いだと連発されてへこまない自信がない。ましてや、つい最近まで冗談という概念すらあったのか甚だ疑問のエイネム様だ。初めて気に入った女の子に笑顔でそんなことを言われて混乱するなという方が可哀想だ。
心なしか、華やいだ陽気も重苦しいものに変化しそうになったころ、小さな声がぽつりと一つ落とされた。
「私は……嘘で『嫌い』っと言っているのよって、何度も伝えているのに」
微かに寂しげに聞こえる声に、おやっと首をかしげる。
彼女の反応の変化に、エイネム様が気付かないはずもなく。俺同様、彼も不思議そうに首をかしげている。その真意を確かめようとしたのだろう。大きな口を開きかけたエイネム様に、再び謎の呪文が放たれた。
「それなら……私、エイネムのこと『好き』よ?」
「シェールっ」
一瞬喜んでしまったのだろう。ばっと毛を逆立て激しく振られ尻尾が、困惑気に再び止まった。―――そう、姫は今までずっと『嘘』と称して、エイネム様に嫌いだと連発していたのだ。だとすれば、今回のこれは?どういう意味を持つものなのかと、今度こそ混乱の極みに入る。
悪戯気に微笑む彼女は、何も言葉を返そうとはしなかった。
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「今のはどういう意味だ?」「これはどっちなんだ?」などと激しく言葉を重ねるエイネム様に、相手はにこにこ笑うばかりで答えようとしない。こんな謎かけはあまりに難解すぎて、エイネム様が可愛そうだとため息を吐く。
「姫は、少し勘違いなさっているね」
俺の隣にいるランツェにだけ聞こえる声で、そっと言葉を落としたのは、そうでもしなければやるせなかったからだ。
「えっ……?」
「今日は『罪のない嘘』をついても良い日だから、姫がしているのはルール違反だと思わないかい?」
「でも、ただ嫌いと言っているだけですよ」
どこか呆れたようにいうランツェは、しょうもないといった様子で全く本気にしていない様子だ。
まぁ、それも庶民などであれば仕方がないだろうと思う所だが、エイネム様相手だと話は変わるのだと分かってほしい所だ。
「それでも、自分が好いた存在に嫌いだと言われ、相手があれほど落ち込んでいる以上罪以外の何物でもないだろう?」
他者の心をいたずらに弄ぶ行為を、姫が意味もなくやっているとは思えない。
だが、結果的にエイネム様に混沌とした状況を味わわせ、心地の良い芽吹きの兆しさえ消し去ろうとしているのなら黙っていろという方が無理な話だ。大概俺も、エイネム様びいきなのかと思えば釈然としないが、少なからず怒りを覚えてしまうのも事実だった。
そんな俺の耳に、確かな意思を持った声がすとんと落ちた。
「―――あら、ジェード様は何もわかっていらっしゃらないのですね」
「うん?」
「今まで恋らしきものをする余裕すらなかったシェールにとってあれは、精いっぱいの甘えなんですよ」
「甘え……」
「たとえ戯れだとしても、嫌いだなんて早々言えませんでしょう?それを言っても大丈夫だと、ある意味信用されているのだと、どうして誰も彼も気づかないのかしら」
その瞳からは、『男は駄目ね』なんて声が聞こえてきそうな感じがした。
考えてみれば、それもそうだ。彼女が冗談でも、エイネム様が傷つきそうな言葉を発するのをこれまで聞いたことがない。
……エイネム様に対してどころか、下手をすれば横にいるランツェを始めとして、誰に対しても同じことかもしれない。
姫の真意は分からないが、俺ももう少しこの光景を眺めていようと、紅茶を注いだ。
「御代わりはいかがかな?」
どうせ、まだしばらくかかりそうだと笑いかけると、ランツェも笑ってそれに答える。
「ありがとうございます。ジェード様にお茶を淹れて頂けるなんて光栄ですわ」
「いやいや、何のこれしき」
二人笑いながら口にしたお茶は、少し花の香りがするものだった。