冤罪が晴れて釈放されましたが、牢屋のほうが快適なので出ていきません【短編版】
「ミレイユ・ローズレイン! 三日前の茶会における、聖女エミリアへの毒殺未遂の罪により、貴様との婚約を破棄し、白百合の塔への投獄を命じる!」
王宮の大広間に、王太子アルベルトの声が響き渡った。
楽団の演奏がぴたりと止み、夜会に集まった貴族たちがざわめく。その視線が一方に集まった先で、公爵令嬢ミレイユ・ローズレインは、果実水のグラスを片手に小さく首をかしげた。
「まあ。わたくし、毒など入れた覚えはございませんけれど」
「とぼけるな! エミリアの紅茶から毒が見つかったのだ! あの茶会で紅茶を淹れた侍女が、貴様に命じられたと白状したのだ! エミリアは今も怯えて、この場にすら来られずにいるのだぞ!」
「わたくし、その侍女の方とお話ししたこともございませんけれど……」
「言い訳は聞かぬ!」
聞かないのならもう何を言っても無駄だろう。ミレイユは果実水を最後まで飲み干してから、ゆっくりとグラスを置いた。王宮自慢の葡萄を搾ったものだ。残すのはもったいない。
「お嬢様っ!」
人垣の向こうで、侍女のリーゼが衛兵に取り押さえられながら叫んでいる。ミレイユと同い年で、幼い頃からずっとそばにいたしっかり者だ。
「リーゼ、大丈夫よ。風邪を引かないようにね」
「そういう問題ではございません!」
こうして公爵令嬢ミレイユは、その夜のうちに白百合の塔へ送られた。
白百合の塔。
王宮の西のはずれに建つ、罪を犯した貴族だけを収容するための牢である。名前だけは美しいが、中身はただの石の箱だ。ここ数年は使われておらず、収容されているのはミレイユただ一人。
最上階の部屋には、硬い寝台と、壊れかけた椅子と、小さな窓がひとつ。扉には太い鉄格子がはまっている。
衛兵が鍵をかけて去っていくと、ミレイユは寝台に腰を下ろし、しばらく天井を見上げていた。
「……明日は、朝四時に起きなくていいのね」
王妃教育は、毎朝四時から始まる。歴史、礼儀作法、外国語、詩の暗唱。十年間、一日も休んだことはない。
それが、もうない。
「……ちょっと、気が楽かもしれないわ」
とはいえ、寒い。初冬の石の部屋は底冷えして、薄い毛布一枚ではどうにもならない。ミレイユは丸くなって目を閉じた。
翌朝。
目を覚ますと、寝台の脇に見たことのない箱が置いてあった。
茶色くて、四角くて、木でも革でもない。指で押すと少しへこむ。分厚い紙を何重にも貼り合わせたような、不思議な素材だった。
「衛兵さんの忘れ物かしら?」
鉄格子の向こうに声をかけてみたが返事はない。そっと蓋を開けると、中には薄桃色の紙の束と細い針金と、緑色の細長い帯。それに一枚の紙が入っていた。
紙にはこう書かれている。
『内職のご案内 同封の材料で造花を作り、完成品を箱にお戻しください。出来高に応じてポイントを付与します。ポイントは同封のカタログの商品と交換できます』
「……ないしょく?」
聞いたことのない言葉だった。裏には作り方が絵つきで書かれている。薄桃色の紙を花びらの形に折り、針金に巻きつけ、緑の帯で留める。
そして「カタログ」と書かれた薄い冊子には、見たこともない品々が、本物としか思えない精巧な絵で並んでいた。
頁をめくるたびに、必要なポイントの桁が増えていく。嗜好品の章では五十、日用品の章では三百。最後の「家具・家電」の章にいたっては、見たこともない数字がずらりと並んでいた。
「銀色の紙で包まれた茶色い板……『チョコレート 五十ポイント』?」
よくわからない。わからないが、どうせすることもない。
ミレイユは薄桃色の紙を一枚取り、説明書きどおりに折ってみた。
一つ目はひどい出来だった。花びらはつぶれ、帯はゆるんで、なんというか、しおれたキャベツのようだ。
「……これは、いけませんわね」
ミレイユは背筋を伸ばした。
王妃教育で叩き込まれたことがある。人前に出すものに手を抜いてはならない。たとえそれが、誰に届くかもわからない造花であっても。
二つ目は少しマシになった。三つ目で花びらの重ね方のコツがわかった。十個目を超える頃には、食事を差し入れに来た衛兵の足音にも気づかなかった。
日が暮れる頃、箱の中には、ふんわりと開いた薄桃色の花が五十輪、きれいに並んでいた。
「……悪くないわね」
ミレイユは満足げにうなずき、蓋を閉じた。
翌朝、箱を開けると造花は消えていた。
代わりに、小さなカードが一枚。
『五十個 検品合格 五十ポイント付与』
その下には「ご注文用紙」という紙が添えられている。ミレイユは少し迷ってから、丁寧な字で「チョコレート」と書き込み、箱に戻した。
そして次の朝。
箱の底に、銀色の紙に包まれた茶色い板が、ちょこんと置かれていた。
「……本当に、届いたわ」
銀紙をそっとめくる。甘い香りがふわりと広がる。端を小さく割って、口に入れた。
ミレイユの動きが、止まった。
舌の上で、ゆっくりと溶けていく。甘くて、ほろ苦くて、なめらかで。王宮の菓子職人が作るどんな砂糖菓子も、こんな味はしなかった。
「…………」
ミレイユは無言でもう一かけら割った。そして、もう一かけら。
気づけば板は半分になっていた。
「いけない。これは、いけないものだわ」
残りを銀紙で包み直し、ミレイユは箱に向き直った。そこには新しい薄桃色の紙が、たっぷりと補充されている。
「……やりましょう」
その日、塔の最上階からは、日暮れまでひたすら紙を折る音が聞こえていた。
投獄から十日が過ぎた頃、初めて面会が許された。
「お嬢様っ……!」
鉄格子の向こうで、リーゼが泣きそうな顔をしていた。
「お痩せになっていないか、寒さに震えていらっしゃらないか、毎晩心配で……ご安心ください。わたし、外で必ず証拠を集めます。お嬢様の無実を証明してみせますから!」
「まあ、ありがとう。でも無理はしないでね」
ミレイユは、膝の上で造花を折りながら微笑んだ。
リーゼの動きが止まった。
「……お嬢様、それは何をなさっているのです?」
「内職よ」
「ないしょく」
「この箱が毎朝届くの。造花を作って戻すと、ポイントというものがもらえて、それでこういうものと交換できるのよ」
ミレイユは大事に取っておいたチョコレートの最後の一かけらを差し出した。
「わたくし、こんなに美味しいものを食べたのは初めて。リーゼにも分けてあげたかったの」
「お嬢様……」
リーゼは目頭を押さえながら、鉄格子の隙間からそっと手のひらを差し出した。ミレイユはそこへ、チョコレートを載せようとした。
鉄格子を越えた瞬間、チョコレートがふっと消えた。
「……えっ」
見れば、チョコレートはいつの間にかミレイユの手の中に戻っている。もう一度差し出す。また消えて、また戻る。
「まあ。じゃあ、そういう仕組みなのね」
「どういう仕組みですか!」
その後、試してみてわかった。交換した品は、鉄格子の外に出そうとすると消えて元の場所に戻ってしまう。内職の箱や材料にいたっては、リーゼが格子越しに指を伸ばしても、霧のようにすり抜けてしまう。こちらはミレイユにしか触れないらしい。そして箱の底には、いつの間にか注意書きが一枚増えていた。『交換商品はお部屋の中でのみご利用いただけます。お部屋の中であれば、どなたさまでもお召し上がりいただけます』
「……牢の外には出せないみたいね。でも、リーゼが中に入れば、一緒に食べられるのね」
「入れません! 鍵をお持ちなのは衛兵さんです!」
「お嬢様、よくそんなに落ち着いていられますね……」
「だって、美味しいものは美味しいものよ?」
リーゼは何か言いたそうに口を開け、閉じ、それから深々といえないため息をついた。
「……とにかく、お元気そうで安心いたしました。証拠は、必ず集めますから!」
「ええ、よろしくね。あ、リーゼ、この花びらの重ね方、どう思う? 五枚と六枚、どちらが美しいかしら」
「今それを聞かれましても!」
一か月が過ぎる頃には、箱の中身が変わり始めた。
『品質優良のため、新しいお仕事をご案内します』
そう書かれた紙と一緒に届いたのは、小さな丸い絵がたくさん並んだ紙と、大量の小箱。丸い絵を剥がして、小箱の決まった位置に貼る。ただそれだけの仕事だ。
「剥がして、貼る。剥がして、貼る……」
地味だった。とてつもなく地味だった。だがミレイユは、これが妙に性に合った。一ミリもずれずに貼れたときの満足感は、王妃殿下の前で完璧なお辞儀を決めたときより、ずっと心が躍った。
さらにその次には、封入作業が来た。
封筒に、三種類の紙を決まった順番で入れていく。説明書きはこの国の言葉で読めるが、封入する紙の方には、まったく読めない文字がびっしりと印刷されていた。字の形が三種類ほど混ざっているらしい。たまに赤い大きな文字が躍っていて、やたらと勢いがある。
「……異国の呪文かしら」
もちろんわからない。わからないまま、ミレイユは三枚をきっちり折って封筒に入れ続けた。どこかの誰かのもとへ、この呪文が届くのだろう。せめて美しく届けたい。
そうしてポイントは、着実に貯まっていった。
「……三分、待つ」
ある寒い夜。ミレイユは、紙でできた筒状の容器を前に正座していた。
カタログでひときわ目を引いた「カップ麺」。それを食べるためには熱湯が要ると知り「電気ケトル」というものも一緒に交換した。紐の先についた金属をどこかに差し込むらしいのだが、差し込む穴などこの石の部屋のどこにもない。仕方なくそのままボタンを押してみた。
動いた。
なぜかはわからない。でも、動いたのだからそれでいい。
説明どおりに蓋を半分めくり、湯を線まで注いで蓋を閉じる。そして「キッチンタイマー」という小さな箱を三分に合わせ、押す。
三分。
石の部屋に、ひとつ、またひとつと数字が減っていく音だけが響く。蓋の隙間から、うっすらと湯気と、吐息が出そうなほど良い匂いが漏れてくる。
ミレイユは背筋を伸ばし、微動だにせずに待った。この三分には、きっと何か大切な意味があるのだ。異国の神聖な儀式なのだろう。
ピピピピッ、とタイマーが鳴った。
蓋を開けると、細く縮れた麺が湯の中で揺れていた。説明書きの絵では二本の棒を使っているが、あれはきっと異国の大道芸だろう。ミレイユは食事に添えられていた木のフォークを手に取り、パスタをいただくときと同じ要領で、くるくると麺を巻きつけた。淑女たるもの、音を立てて食べるわけにはいかない。そうして、ひと巻きをそっと口に運んだ。
「……っ!」
熱い。塩辛い。そして、ものすごく美味しい。
冷え切った体の奥に、じんわりと熱が広がっていく。汁の最後の一滴まで飲み干したとき、ミレイユは、窓の外の月に向かってそっと手を合わせていた。
そこから先は早かった。
まず、「マットレス」というふかふかの床。注文した翌朝に目を覚ますと、いつの間にか硬い寝台の上に敷かれていて、自分はその上で眠っていた。雲の上で寝ているようだった。公爵家の天蓋付きの寝台よりずっと寝心地がいい。
次に「エアコン」。これも注文した翌朝には、壁の高いところにもう取り付けられていて、やはりなぜか動いた。初冬の石の部屋はまるで春の日だまりのようになった。
クッション。ハンドクリーム。もこもこの靴下。小さな冷たい箱の中に、果物の味がする冷たい菓子が入っている。
そして、「テレビ」。これも翌朝には、部屋の隅にちゃんと据えられていた。
黒くて薄い板の中で、知らない国の人々が、知らない言葉で喋っている。何を言っているのかは一つもわからない。けれど、前掛けをした女性が料理を作る番組だけは、毎日欠かさず見た。画面の隅で数字が減っていき、ちょうど三分で、熱々の料理が皿に盛りつけられるのだ。
カップ麺と同じ、三分。やはり異国において、三分とは神聖な時間なのだ。
いつしかミレイユは、その番組が始まるたびにカップ麺に湯を注ぎ、画面の向こうの女性と一緒に三分を待つようになった。
もちろん、内職は一日も怠らない。朝は封入、昼はシール貼り、夕方は造花。部屋の角には「品質優良」のカードが十枚以上、誇らしげに飾られている。
ある日の午後、塔の階段に軽やかな足音が響いた。
「ごきげんよう、ミレイユ様。お可哀想に、さぞお辛い毎日をお過ごしで……」
鉄格子の前に現れたのは、空色のドレスに身を包んだ聖女エミリアだった。見舞いと称して、落ちぶれた元婚約者の姿を笑いに来たのだ。扇で口元を隠しながら、エミリアは楽しげに牢の中をのぞき込み——
そして、固まった。
ふかふかの寝台。柔らかそうな敷物。壁からは春のような風が吹き、黒い板の中では知らない国の人々が楽しそうに笑っている。
その真ん中で、ミレイユはもこもこの靴下を履いて、カップ麺をフォークでくるくると巻いていた。
「あら、エミリア様。ごきげんよう」
「……な、なんですの、これは」
「内職のごほうびですわ」
「ないしょく……?」
エミリアの扇が、ぷるぷると震え始めた。
「わ、わたくしは! あなたが冷たい石の床で泣き暮らしているものと思って!」
「まあ、ご心配いただいて。でも見てのとおり、とても快適ですのよ。よろしければ、おひとついかが?」
ミレイユは善意しかない笑顔で、カップ麺を鉄格子の外へ差し出した。と、カップ麺はふっと消えて、ミレイユの手元に戻ってくる。
「あら。そうでしたわ、外には出せないのでした。残念」
「いりませんわっ!」
エミリアの顔が、熟れた林檎のように赤くなる。
王太子の新しい婚約者になってからというもの、毎朝四時に叩き起こされ、歴史と外国語と詩の暗唱漬けの毎日だ。もう何日もまともに眠れていない。なのに、この女は——
「……どうして、牢屋の方が、わたくしのお部屋より快適そうなんですの……!」
「エアコンのおかげですわ」
「えあこん……!」
聖女エミリアはハンカチを噛みしめんばかりの顔で、足音も荒く階段を下りていった。
ミレイユは小さく首をかしげ、それからまたカップ麺に戻った。
「……何をしにいらしたのかしら」
「……お嬢様」
二度目の面会の日。鉄格子の前に立ったリーゼは、しばらく声が出ないようだった。
石の床にはふわふわの敷物。寝台には分厚い床。壁からは暖かい風が吹いていて、黒い板の中では知らない国の人が大声で笑っている。
その真ん中で、ミレイユはクッションにもたれ、もこもこの靴下を履いて、シールを貼っていた。
「あらリーゼ、いらっしゃい」
「……ここは、牢屋でございますよね?」
「ええ、そうよ」
「わたしの部屋より暖かいのですが」
「エアコンのおかげよ」
「えあこん」
リーゼは遠い目をした。それから頭を振って、気を取り直すように口を開いた。
「……証拠集めの方は、進んでおります。毒を入手したという薬師の居場所を突き止めたところです。もう少しです、お嬢様。もう少しでここから出られますから!」
「まあ。ありがとう、リーゼ」
ミレイユはにっこり笑って、それから、シールを貼る手をほんの少しだけ止めた。
……出られるのね。
ミレイユが塔で封筒を折っていた頃、王宮ではちょっとした騒ぎが起きていた。
王太子アルベルトと聖女エミリアの仲が、すっかりこじれていたのだ。
きっかけは、聖女の浪費だった。牢屋で快適そうに過ごすミレイユを見て以来、エミリアは負けじと浪費に拍車をかけた。異国の羽毛布団を取り寄せ、部屋中に暖炉を増やし、毎週のようにドレスを仕立て、宝石を買い、その請求書をすべて王太子宮に回した。さらに、第二王子や隣国の使節にまで、やたらと親しげに笑いかけている。
一方のアルベルトはといえば、ミレイユがいなくなった途端に政務が回らなくなっていた。これまでの書類の半分は、実はミレイユがこっそり整理していたのだ。
「エミリア、貴様は一体いくら使えば気が済むのだ!」
「まあ、殿下こそ! あの方がいなくなってから、何もかも後回しではありませんか!」
二人の口論は日に日に大きくなった。
そして、ある夜会の席。大勢の貴族の前で、ついにそれは爆発した。
「そもそも、毒を用意したのは殿下でしょう! わたくしは言われたとおり、自分のカップに入れただけです!」
「何を言う! 『あの女を追い落とせば、婚約者にしてくれるんですよね』と言い出したのは貴様の方だろう!」
…………。
大広間が、しんと静まり返った。
二人が自分たちの言ったことに気づいて青ざめたときには、もう遅かった。玉座の国王陛下が、ゆっくりと立ち上がるところだった。
その後の調べは、あっという間に終わった。
リーゼが突き止めていた薬師は、王太子の使いから毒を注文されたことをあっさり認めた。茶会の侍女も、『ミレイユ様に命じられたと言え』と王太子の側近から金を握らされていたと白状した。もっとも、本人たちが大広間で全部喋ってしまったあとなので、もはや確認のようなものだったが。
王太子アルベルトは廃嫡となり、辺境の離宮で謹慎。聖女エミリアは聖女の称号を取り上げられ、山奥の修道院で奉仕活動に励むことになった。
そして、公爵令嬢ミレイユ・ローズレインの冤罪は、晴れた。
「……わたしの三か月は、一体なんだったのでしょう」
釈放の知らせを届けに来たリーゼは、鉄格子の前で、少しだけ遠い目をしていた。雨の日も雪の日も駆け回って集めた証拠は、結局、答え合わせにしか使われなかったのだ。
「無駄じゃないわ。リーゼがいてくれたから、わたくしは安心して内職ができたのよ」
「そこは『安心して待てた』とおっしゃってください……」
それでもリーゼは、泣き笑いのような顔をしていた。
「明日の朝、宰相閣下がお迎えにいらっしゃいます。お嬢様、ようやく、ようやくここから出られますよ」
「……ええ。そうね」
ミレイユは微笑んだ。
その夜、塔の最上階ではいつもより少しだけ遅くまで、紙を折る音が続いていた。
翌朝。
宰相グランツは、沈痛な顔で塔の階段を上っていた。無実の公爵令嬢を三か月も冷たい牢に閉じ込めていたのだ。どれほどやつれていることか。どんな言葉で詫びればいいのか。
そうして最上階の鉄格子の前にたどり着いた宰相は、その場で固まった。
暖かい。
牢屋が、なぜか暖かい。
そしてその奥で、分厚い床の上にちょこんと座った公爵令嬢が、封筒に紙を入れていた。
「……ミレイユ・ローズレイン嬢。このたびは、まことに申し訳ございませんでした。貴女の冤罪は晴れました。どうぞ、お出ましを」
「まあ、宰相閣下。わざわざありがとうございます」
ミレイユは丁寧に会釈した。そして、手元の封筒に目を落とした。
「……あの、あと十二通だけ、お待ちいただけますか?」
「はい?」
「納期がありますので」
宰相は、納期という言葉の意味を考えているうちに十二通分の時間が過ぎた。後ろに控えたリーゼは、無言で天井を見上げていた。
鉄格子の扉が、きい、と開いた。
ミレイユは、食べかけのチョコレートを片手に三か月ぶりに扉の外へ一歩、足を踏み出した。
その瞬間。
手の中のチョコレートがふっと消えた。
「……あら?」
振り返る。
そこにあったのはただの石の部屋だった。硬い寝台と壊れかけた椅子。そして小さな窓。マットレスも、エアコンも、テレビも、「品質優良」のカードも、あの茶色い箱も。何もかもがきれいさっぱり消えていた。
ひゅう、と冷たい風が吹き抜ける。
ミレイユは、一歩後ろに下がった。
牢の中に戻った瞬間、ふわりと暖かい空気が頬を包んだ。マットレスも、エアコンも、テレビも、全部ある。手の中には、食べかけのチョコレート。
一歩、出る。消える。
一歩、戻る。ある。
出る。消える。戻る。ある。
「……お嬢様、何をなさっているのです?」
「確認よ」
出る。消える。戻る。ある。
五度目に戻ったところで、ミレイユはそのまま部屋の奥へ歩いていき、マットレスの上にすとんと腰を下ろした。
そして、この上なく品のよい微笑みを浮かべた。
「宰相閣下。わたくし、ここに残ります」
「……は?」
「お嬢様!?」
無実の令嬢が牢から出てこない。
その知らせに王宮はちょっとした混乱に陥った。公爵家の父は頭を抱え、貴族たちは「よほど心に傷を負ったのだ」と同情し、宰相は何も言わずに胃薬を飲んだ。
そして結局、国王陛下の方が塔の階段を上ってくることになった。
「ミレイユ・ローズレイン。愚息が、まことにすまないことをした」
鉄格子越しに国王は深く頭を下げた。
「詫びとして何でも望みを申せ。領地でも、宝石でも、新しい婚約者でもよい」
ミレイユは、少しだけ考えた。そして、はっきりと答えた。
「では、この塔をくださいませ」
「……塔を」
「はい。わたくしの屋敷として。ただし、この部屋の鉄格子はそのままでお願いいたします。鍵はわたくしが持ちますので」
国王はしばらく黙り込み、部屋の中を見回した。暖かい風。ふかふかの床。黒い板の中で肉を焼く女性。そして、その真ん中で誰よりも幸せそうに微笑む令嬢。
やがて国王はふっと口元を緩めた。
「……よかろう。白百合の塔は、今日よりミレイユ・ローズレインの屋敷とする」
それから、長い月日が流れた。
王宮の西のはずれに建つその塔は、今では「ローズレイン邸」と呼ばれている。
下の階には、侍女のリーゼが暮らしている。屋敷の主は部屋からほとんど出てこない。
部屋の鍵はミレイユが持っているので、リーゼは毎朝扉を開けてもらって中に入る。最初は引きつっていたリーゼも、いつしか「今日の納期は何通ですか」と聞くようになった。納期を終えた夕方には、二人で並んでカップ麺をフォークで巻くのがすっかり日課になっている。
時折、訪ねてきた貴族が鉄格子の向こうの光景を見て崩れ落ちる。そのたびにミレイユは、もこもこの靴下で出迎えて「お茶でもいかが? ただし、中にお入りいただかないとお出しできませんの」と微笑むのだった。
王妃にはならなかった。社交界の華にもならなかった。
けれど、石の塔の最上階。鉄格子の内側のちょうどいい広さのその部屋で。ミレイユ・ローズレインは、生涯をのんびりと幸せに過ごした。
朝、エアコンの暖かい風の中で目を覚ます。伸びをして、寝台の脇に目をやる。
今日も箱が届いた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
よろしければ評価や感想よろしくお願いいたします!
追記・連載版開始しました!
冤罪が晴れて釈放されましたが、牢屋のほうが快適なので出ていきません【連載版】
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