完全置換
「何で私を助けてくれたんですか」
彼女は弱々しい声でそう言った。これは僕の身を案じてくれてのことなのかもしれない。しかし僕は助けたなんてとんでもないと感じていた。手術はまだ始まってすらいない。それなのに彼女はもう助かったと思っているのだ。
このウイルスはちょっとした傷口からでも侵入する。体内に入ったウイルスは増殖を繰り返し、高熱と共にその部位を壊死させ、宿主を死に至らせる。さらには増殖を十分に終えた頃、それらは血液に乗って爆発的に身体中へと転移していく。A地区で最初に確認された後、感染者数は急激に増加した。この手の死亡率の高いウイルスは通常拡大しにくいという特徴があるが、これは当てはまらないようだった。
よって、彼女はこのまま放置しておけば一日と持たないだろう。動けなくなる前にこの病院を訪ねたことと僕が発見できたこと、その二つが不幸中の幸いだった。そしてその幸いもまた苦難を孕んでいる。
「手術が成功する保証はないんだ。そんな言葉使わないでくれよ」
僕は麻酔や器具の準備を慎重に行った。特に防護服を何重にも着重ねた。僕が感染してしまえば彼女にまた移る可能性も考えられるからだ。そして最後に手術台を確認すると付属している右手を固定する部位が外れかけている事が分かった。しかしそれ以外は万全の状態だ。
このウイルスの治療方法は単純だった。転移が始まる前にその部位を切除、または切断することだ。侵入から転移まで早いといっても猶予はある。その間にケリをつけることができれば、手術は成功と言えるだろう。
「さあ、始めるよ。後は僕に任せて、ゆっくり寝なさい」
彼女は既に焦点が定まっていなかった。麻酔が効いている証拠だ。だが最後の抵抗として、頭を縦に動かした。
僕はこの地区に残された最後の医者だった。ここC地区も随分と前に封鎖されており、他の医者はそれよりも前に別地区へと逃げおおせていた。政府は僕たちを逃がしたくないようであり、目論み通り僕たちはもうすぐ漏れなく息絶えることだろう。そのお陰とは言いたくないが、病院残った医療品は使い放題であり、今回使う義足もそこから調達できた。
という状況下で彼女は助けを求めに来たのだ。十二、三歳くらいだろうか、まだ一人で生きる経験をしたこともないような子供が生きたいと懇願してきたのだ。最善を尽くすことが、僕に残された最後の使命だ。
精一杯、やれることはやった。後は彼女次第だ。
約三時間後、彼女は目を覚ました。僕は彼女の額を触り、熱がないことを確認した。分かりやすく胸を撫で下ろした。
未だ虚ろな表情の彼女はしばらくの間、自身の置かれている状況の整理に費やした。そして最後に僕を見つめる。
だんだん麻酔が抜け、意識がしっかりしてきていた。
「……あの、私」
彼女は寝ぼけた声でそっと呟いた。
「手術は成功したよ」
僕の声には様々な物が詰まっていた。安堵、達成感、喜び、等々。しかし最も強調したかったのは罪悪感だった。手術は成功した、が、というその後の説明の方が大切だったからだ。これは向き合わなくてはいけない。だから心を鬼にするではないが、正直に伝える必要がある。
「でも治療の過程で左足は切断した。ウイルスを取り除くにはこれしかなかったんだ」
彼女は顔を青くして体を起こした。そして真っ先に自分の左足を確認した。しかしそこには足がある。それこそが僕の作った義足だった。
「事前に説明してあげられなかったのは申し訳ないと思っているんだ。でも一刻を争う状況でする暇がなかったんだ」
しばらくの間沈黙が続いた。おそらく彼女の中で様々な事に対して折り合いをつけているのだろう。医療の現状から考えてこれ以上の結果は存在しないことは彼女も理解しているはずだ。しかしそれと自分の足が別の得たいの知れないものに入れ替わるのとでは全く趣旨が異なる。その咀嚼が彼女には必要だった。
虚を突いたのは彼女の一声だった。
「ありがとうございました。治して頂いて。……きっとそれだけで十分なんです」
彼女はスッと立ち上がる。近年の義足の進歩はすさまじく、装着者の意思のまま駆動することが可能になっている。これは人口に膾炙しているものではないが、そこには何の疑念も抱いていないようだった。
「その……なんてお礼をしたらいいか」
「要らないよ。この世界には温かさが必要なんだ。だからさっきの言葉で十分だよ」
そう言葉をかけるも彼女はあまり腑に落ちないようだった。手をいじくって、視線も右往左往している。
「……じゃあ隣の部屋にオセロがあるんだ。それを持ってきてくれない? 実はボードゲームが好きでさ。それで手を売ってくれないかな。あ、でも歩く時にあまり横から力を加えないで。外れてしまうから」
この頼みは義足が上手く機能するかという試験でもあった。義足は横方向からの衝撃にはめっぽう弱いため、この試走で外れてしまった時に、彼女の歩き方と共に調整する必要があった。
「そんなので良いんですか?」
僕がコクりと頷くと彼女は扉の方を向いた。
一歩、二歩。不安そうな顔で歩き始めた。それが仕事の用意さからなのか、足に対しての心配からなのかは判断できなかった。が、その心配は両方とも杞憂であった。
三歩、四歩。彼女自身も少なくとも後者は無用の心配であったと理解したのだろう。口元はほころび、目には明らかに希望の色が見えた。
五歩、六歩――。彼女の体は突然骨を全てを無くしたようにドタドタと音を立てながら倒れた。義足が壊れたのではない。別の要因。僕は彼女の体を受け止めようとするも反応できたのが床に倒れた時だった。僕の足は少しの間固まった。
「っ、おい! 一体何があった!」
彼女の体に触れるとその原因は明らかだった。熱い。四十度は優に超えているだろう。コーヒーを溢した時、このくらいの熱さだったように思える。
ウイルス、まさか再発したのか。転移に間に合わなかったのか。ここに来るまでに時間が経ちすぎていたのか。苦しむ彼女の横でいくつもの可能性を考えた。
「……あれ、私……なんで」
その声は弱々しく、同時に微細に震えていた。僕は彼女のもう片方の足を見た。切り傷があった。さっき倒れた時にできたのか、両足同時に傷ついたのかは判断できない。
「もう……終わったんじゃないんですか? さっきそう言って……」
胸が苦しかった。自分までも感染してしまっているのではないか、そう思うほど体に熱が走っていた。僕は彼女の顔を見ることができなかった。
やるしかない。しかし可能性が二つあった。一つは右足にも同様のウイルスが侵入し、症状が現れ始めた可能性。この場合もう一度足を切除しなければならない。
もう一つは最悪で、左足に入ったウイルスが既に転移してしまった可能性。この場合、更に難しい手術をするしかなくなる。それは首から下、その全てを切り、義手義足、人工の内臓、胴体を付けるというものだ。体の代替物に関しては問題なかった。つい最近血液や神経を脳と繋ぐ技術が開発された。これは本当に奇跡だった。ウイルスが流行してからでは僕の所にこの技術はやってこなかった。確率はゼロだった。
選択する必要があった。彼女に尋ねると必ず前者を選ぶだろう。だが真のタイムリミット、脳への到達を考えると後者の場合手遅れになる可能性がある。よって彼女のためを思うなら、自分を信じて体の交換をすることが最も良い。
ただ、自身の体を捨てるというのは受け入れられる事では到底ない。それも彼女のような子供にとってはより顕著なものだ。仮に生きられたとして、それからを過ごすことはできるだろうか。
「……先生?」
その言葉で決心した。僕は彼女を背中に担いだ。稼働しているストーブを直におんぶしているようだった。彼女の息遣いは徐々に荒くなっていた。
「いや」
そう聞こえた。
「怖いよ」
僕は無視した。
「私……やだよ」
「すまない。これで最後だから」
僕はそう言うしかなかった。手術台に乗せ、四肢を固定した。相変わらず彼女の顔は見られていない。見られるはずがない。しかし鼻をすする音は聞こえていた。それが意味するのは一つだけだ。
僕は麻酔を打った。そして右足だけを切った。義足も完璧に着けた。
手術終了から一時間半、けれども熱は下がらない。麻酔の効果時間のおよそ三時間を迎えようとしているのにだ。最悪のシナリオだった。ウイルスは既に体に転移していた。
もうすぐ三時間、僕は追加の麻酔を打とうと針を近づけた。細い腕に焦りのせいか上手く刺さらない。焦りが呼吸の乱れとして現れていた。
やっとの事で打つことに成功したその時、声がした。
「……ああ」
働かない頭を必死に動かしているのが伝わってきた。
「ごめん……もう少しだから――」
慰めにもならない言葉をかけた。起きた、つまり体の一部が人でなくなっているということ。今この瞬間彼女には果てしない精神的苦痛が襲っているだろう。
僕は咄嗟に彼女の頭を撫でた。それは以前に僕の姪にしてあげたことだ。姪はそれが落ち着くと、よく求めていた。
「あああああ!! やだ! やだよ!」
彼女は叫んだ。理由は後から分かった。もう片方の手に注射器を持ったままだった。それを見たことでまだ続くと理解してしまったのだ。
二回目の麻酔が切れ、三回目の麻酔が効き始めるその僅かな一瞬、外れかかっていた右腕の固定具が壊れ、手が自由になった。そしてそのまま僕の頬を爪で引っ掻いた。僕は血がたらりと流れるのを無視し、持てる力を全て使って腕を固定した。
「やめて!! もう嫌だ!! これ以上私を壊さないで!!」
その間、僕は一言も発さなかった。
咆哮は次第に小さく、間隔が長くなっていく。麻酔が完全に回ったことを確認すると、僕は手術にとりかかった。
頭はめちゃくちゃだった。何も考えることができない。彼女に対する感情の整理はもちろんの事、手術の手順でさえも今の脳では記憶にもやがかかったように感じた。ただ、やらないといけない。助けないといけないという使命感と罪悪感とが僕を動かした。
手術は二時間半を要する大がかりな物になった。
彼女は目を覚ました。これは体の交換が成功したのを意味していた。首から下の完全置換、前例をいくつか聞いたことがあるが、一人で成功させたということは聞いたことがない。
彼女は沈黙していた。己に何が起こったのか、何をされたのかを咀嚼する時間だろう。僕は手術台から数メートル離れた椅子に座っていた。元々二人でオセロをするつもりだった机を挟む内の一つだ。
最初、僕は彼女が大暴れするのではないかと予想していた。しかし彼女は何も話すことなく、ただ固定が外れている右腕を天井に吊るされている光に向け、それを凝視していた。
「手術は成功した」
彼女の起床から十分が経過した頃、僕は呟いた。汗を滝のようにかいたのに、水分は一滴も補給していなかったため喉が渇き、酷い声が出てしまっていた。自分でも、己に何か大きな変化が起きたことは理解していた。
「そう……ですか」
僕の発言から三分後、彼女は呟いた。僕と同様、彼女の声もつぶれたような物しか出ていなかった。声に弱々しさはあるものの、初めて会った時の物とは似ても似つかなかった。もっと黒く、広く変色していた。
「……その、辛いと思うけど一応聞いて欲しいんだ。ウイルスは右足切除時には既に胴体にまで転移していた。だから最終手段として一か八かの完全置換を行ったんだ。さっきも言ったように手術は成功、でもこんな結果になってしまったことを申し訳なく思っている。……本当にすまなかった」
「これ外してくれませんか」
今度はすぐに返答があった。彼女が右手で指差すのは左手の拘束具だった。僕は少し思考した。暴れたり、自暴自棄になって自殺してしまうのではないかと想像してしまったのだ。僕は彼女の目を見た。ここからでは眼球の膨らみくらいしか目視できないが、表情を見ることができた、それが大切だった。
「私、もう助かったんですよね。……なら体が変わったってもう気にしないです」
彼女は笑った。初めての表情に少し目を奪われてしまった。
「……そうか」
僕は固定具をほどいた。すると彼女はすんなりと起き上がり手術台から立った。腕、体、足、彼女は順番に確認していった。
「……本当に。そうだ先生、今って何時ですか」
腕時計を確認すると夕方の六時だった。彼女がこの病院にやってきたのが朝の八時頃、そう考えるとかなりの時間手術をしていた。
「六時だよ、外は夕焼けかな」
「見に行きませんか。ちょっと気分転換したくて」
僕は彼女の申し出を承認した。精一杯彼女の心を休ませてあげたかった。そしてこの時期の夕焼けは特段綺麗だ。気休めにはなるかもしれない。
病院の屋上に出た。少し肌寒くなってきた秋の季節、周りの建物よりも一階程高いこの場所は空を一望するにはもってこいだったみたいだ。フェンスが無く、危ないため彼女の右腕をしっかり掴んだ。
「……綺麗ですね。なんだか今までしんどかったのが嘘のような清々しさです」
「……ああ」
数分、そうしていた。言葉を交わさずただそこに佇んでいた。そして彼女は言う。
「何で私を助けたんですか」
彼女は右腕を左手で支え、そこに膝を入れた。無機物同士の鈍い音がしたのと同時にガキッと何かが割れる音がした。僕が掴んでいた右腕が外れていた。接合部分の部品が割れる音だった。
彼女は拘束を外すと一目散に夕日へと向かっていった。
そして、飛んだ。
あまりに一瞬の事だった。義手義足は横からの力に弱いと知っていた。そして伝えてしまっていた。だから彼女は実行に移せてしまったのだ。
はあとため息をついた。そして一歩、また一歩と夕日に近づいた。下を見ると赤い何かがあった。が、あくまで何かでしかなかった。
最後の一歩を踏み出そうとした時、僕は留まった。
「……何、楽になろうとしてるんだ。僕は医者じゃないか。世界が諦めても、僕は、僕だけは諦めてはいけないじゃないか」
ふらっと後ろを向いた。下へと続く階段を降りて、あの手術台の部屋へと戻ってきた。
椅子に座ると、どっと疲れが襲ってきた。さっきまで奮闘していたからだろうか、やけに汗をかいている。体を洗わなければ。そう思ったが結局体が動くことはなかった。睡魔に負け、僕はゆっくりと目を閉じた。




