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第三話 血の匂いのする空

※本作はカクヨムにも掲載しています。


石碑に拒まれた少年が、歴史に名を刻もうとあがく剣戟ファンタジーです。

臭いが、まず喉を殴った。


鉄だ。

焼けた肉だ。

土に染みた血だ。


次に来たのは、音だった。


怒号。

悲鳴。

何か巨大なものが地を踏み砕く振動。


シュライドは息を呑んだ。


さっきまでいたのは、クラウフェル騎士学院の中庭だったはずだ。

月があった。

石碑があった。

拳から流れた血が、黒い石に吸い込まれて――


「っ、は……!」


足元がぬかるむ。


見下ろせば、泥ではない。

黒ずんだ血と土が混ざり、靴の裏に粘りついていた。


いや、靴じゃない。


重い革と金具で固められた、見たことのない戦装束。

腕も、肩も、何もかもが違う。


息を吸うたび、肺の奥が焼けるように痛む。

左の脇腹は熱く、ぬるりと濡れていた。傷だ。深い。けれど動けないほどではない。


そのことが、頭ではなく身体で分かる。


「……なんだよ、これ……」


声を出したつもりで、シュライドは自分の喉から漏れた音に凍りついた。


低い。

掠れている。

自分の声じゃない。


その瞬間、右から黒い影が飛び込んできた。


本能が先に動いた。


身体が半歩沈む。

地を踏む。

肩を落とし、腰を据える。


次の瞬間、手の中の剣が唸っていた。


鋭い金属音。


飛びかかってきた獣の牙が、目の前で弾かれる。

灰黒の毛並み。狼に似ているが、牛ほどもある体躯。口の端から赤い泡を垂らしていた。


化け物だ。


だが驚いている暇はなかった。


二体目が来る。

三体目も。


シュライドは剣を握ったまま、一歩も退かずに踏ん張った。

いや、踏ん張らされた。


身体が勝手に、最も崩れない位置を知っている。

踵が沈む角度。

膝の緩め方。

腕の通り道。


一ノ剣――地承。


王が遺した十の型、その最初の名が、骨の奥で鳴った。

見るのではない。教わるのでもない。

この身体は、それを生きるように使っていた。


獣の爪が振り下ろされる。


受ける。

逸らす。

捌く。

崩さない。


足場は悪い。

血と泥で滑る。

それでも、身体は沈まない。


「左より三!」


誰かの怒声が飛ぶ。


ほとんど反射で、シュライド――いや、この身体は左へ剣を払った。


黒い獣の首が飛ぶ。


温かいものが頬へかかった。

生臭い。

吐きそうになる。


だがその嫌悪すら、次の一撃には追いつかない。


前へ出た。

踏み込んだ。

斬った。


剣が重いはずなのに、軽い。

腕がちぎれそうなのに、止まらない。


目の前で人が死んだ。


若い兵だった。

胸を噛み裂かれ、後ろへ倒れる。

口から血を吐きながら、なお槍を離さなかった。


「防柵を下げるな! 落ちれば終わるぞ!」


また別の声。

老いてもいない、若すぎもしない男の怒声。


シュライドはそこで初めて、戦場の全体を見た。


狭い谷だ。

両側を切り立った岩壁に挟まれている。

背後には、壊れた荷車と、怯えた人々。女、子ども、老人。避難民だ。

前方からは、黒い獣の群れが押し寄せてくる。


この場が抜かれれば、後ろの民が死ぬ。


理解は一瞬だった。


次の瞬間には、また身体が動いていた。


「……っ!」


傷口が軋む。

脇腹が裂けるように痛む。


それでも剣は止まらない。


ただ強いのではない。

ただ速いのでもない。


この身体は、壊れない場所を知っていた。


どれほど押されても、どれほど衝撃を受けても、地から剥がれない。

踏み、受け、返す。

沈み、承け、返す。


地承。


その型の意味を、シュライドは骨で理解した。


教本で覚えるものではない。

ただ名を知るためのものでもない。


崩れれば後ろの誰かが死ぬその場所で、地そのものに身体を預けて立つこと。

それが一ノ剣なのだと。


「オルドレグ!」


怒鳴り声が、すぐ近くで爆ぜた。


「右壁だ! 上を見ろ!」


その名に、心臓が跳ねた。


オルドレグ。


今の王と同じ名。


反射で顔を上げる。


岩壁の中腹から、獣ではないものが落ちてきた。


人に似ていた。

だが長い腕と、不自然に裂けた口を持つ異形。

両手の爪が鎌のように月光を返す。


速い。


シュライドが反応するより先に、その身体は半歩引いた。

引きながら沈み、剣を下からすくい上げる。


骨ごと断つ手応え。


異形の胴が空中でねじ切れ、血を噴きながら岩壁へ叩きつけられた。


息が乱れる。


視界の端が暗くなる。


自分のものではない記憶が、閃光みたいに頭を焼いた。


吹雪。

飢えた民の目。

壊れた村。

幼い泣き声。

血に濡れた石。

倒れる兵。

それでも進む足。


これは夢じゃない。


この身体は本当に、この地を生きていた。


「オルドレグ、まだ立てるか!」


左から一人の男が来る。

槍を持ち、肩口まで血に染めた兵だ。


その顔を見た瞬間、知らないはずなのに分かった。


名も、癖も、何度背中を預けたかも。

記憶ではなく、感覚で。


だがシュライドは答えられない。

息を整えるだけで精一杯だった。


「……問題ない」


出た声はやはり自分のものではない。

低く、乾いていて、それでも不思議と揺らがなかった。


男は短く笑った。


「ならいい。あれを落とせば道が開く」


視線の先。


谷の奥、獣の群れのさらに向こうに、巨大な影がいた。


四足。

山みたいな躯。

黒い鱗。

額から捻じれた二本角。


竜ではない。

だが竜に近い何か。


あれが群れを押し出している。

あれがいる限り、この波は終わらない。


「民を先に通す」


自分の口が、勝手に言った。


「ここで止める」


それは決意というより、既に何度も言ってきた言葉だった。

この身体の持ち主にとって、当たり前の選択だった。


兵が歯を剥いて笑う。


「はっ。お前がそう言うと思った」


足元で、また獣が唸る。


脇腹から血が落ちる。

握る剣は重い。

呼吸のたびに視界が揺れる。


それでも、この身体は前へ出ようとしていた。


シュライドは理解した。


これは、ただ王の姿を見るためのものではない。


王の痛み。

王の判断。

王が背負っていた死の重さ。


それを、生きたまま呑まされるのだ。


谷の向こうで、角持つ巨獣が吼えた。


地が震える。


次の波が来る。


知らないはずの手が、剣を握り直す。


踏み込む足が、再び地に沈む。


地承。


その名が、今度ははっきりと胸の奥で鳴った。


そしてシュライドは、王の身体で戦場の真ん中へ駆け出していた。

第3話をお読みいただき、ありがとうございます。


ついにシュライドは、王の記憶の中の戦場へ踏み込みました。

次話では、王の時代の仲間との関わりも少しずつ見えてきます。

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