第二話 沈黙のあと
※本作はカクヨムにも掲載しています。
石碑に拒まれた少年が、歴史に名を刻もうとあがく剣戟ファンタジーです。
石碑前の空気は、妙に乾いていた。
つい先ほどまで張りつめていた緊張も、高揚も、今はどこか別の質に変わっている。
ざわめきは小さい。
だが消えてはいない。
視線だけが残っていた。
シュライドは列の後ろへ戻されたあとも、しばらく石碑から目を離せなかった。
何も起きなかった。
本当に、それだけだった。
拒絶の声があったわけじゃない。
叩きつけられたわけでも、弾かれたわけでもない。
ただ、自分には最初から何の価値もないとでも言うように、石碑は沈黙した。
「……おい、大丈夫か」
横から小声が飛んでくる。レオグだった。
シュライドはそちらを見ない。
「別に」
「いや、別にって顔じゃ――」
「うるせえ」
思ったより強い声が出た。
レオグが口をつぐむ。
気まずい沈黙が落ちた。
自分でも分かっていた。
今のは八つ当たりだ。
だが、謝る気にはなれなかった。
前ではまだ認証が続いている。
ひとり、またひとりと石碑に呼ばれ、王の幻影の前へ立つ。
光の強さには差がある。
反応の深さにも差がある。
だが、誰にでも何かは起きていた。
自分以外には。
「ヴァルツェン」
名を呼ばれた同期が前へ出る。
シュライドは無意識に顔を上げた。
ヴァルツェンは石碑の前で一拍だけ目を閉じ、静かに右手を置いた。
直後、石碑の紋様がこれまでで最も明るく走る。
空気が震えた。
誰かが息を呑み、教官のひとりが小さく眉を上げる。
「……強いな」
「さすがだ」
そんな囁きが、今度ははっきり耳に届いた。
ヴァルツェンの前方、石碑の空間がわずかに揺らぐ。
何も見えないはずなのに、そこに“誰かがいる”と分かるような圧だけが現れた。
王の幻影。
ヴァルツェンは呼吸を整え、目の前の見えない相手に向かって一歩踏み込む。
その瞬間だけで、シュライドにも分かった。
違う。
自分が石碑に手を置いていた時間は、ただ冷たい石に触れていただけだった。
だがヴァルツェンは今、確かに向こう側へ届いている。
悔しさが喉に刺さる。
やがてヴァルツェンが下がってくる。
顔色は少し青いが、目には熱があった。石碑に応えられた者だけが持つ光だった。
すれ違いざま、ヴァルツェンの視線がシュライドを掠める。
そこに、もう入学前のような期待はなかった。
困惑。
測り直し。
そして、ほんの少しの失望。
たったそれだけで、胸の奥がざらついた。
認証は続き、最後のひとりが終わる頃には、夕日が中庭の石畳を赤く染めていた。
ドルグレフ教官が全員を見回す。
「本日の認証接触は以上だ。各自、結果を誇るな。今日は入口を覗いただけに過ぎん。新星授与の正式判定は遥か先だ。浮かれるな」
その言葉に、何人かが姿勢を正した。
だが、シュライドだけには別の一言が落ちてきた。
「……シュライド」
名を呼ばれ、反射的に顔を上げる。
ドルグレフの目は、相変わらず厳しかった。
だがそこに、先ほどのような困惑はもうない。現実を切り分け終えた者の目だった。
「後で来い」
短い命令。
それだけで、周囲の空気がまた変わる。
ミルドが小さく隣のフェインに何か囁いた。フェインは口元だけで笑った。
リーゼは視線を逸らし、レオグは何か言いたそうに眉を寄せる。
ヴァルツェンはもう見ようともしなかった。
その日の訓練は、それで終わった。
石碑前の認証が終わったあとの広場は、妙に明るかった。
誰もが自分の反応について話したがっていた。
今見たもの、感じた重圧、空気の震え。
まだ新星ではない。
ただ入口に立っただけだと分かっていても、それでも石碑に“届いた”こと自体が誇らしいのだろう。
「お前、すごかったな!」
ミルドがヴァルツェンの肩に飛びつくように近づく。
「いやあ、あの光り方見たか? 俺、鳥肌立ったぞ」
「さすがだよ、ヴァルツェン。最初から違ったもんな」
「まだ入口に触れただけだ」
そう答えるヴァルツェンの顔には、しかし確かな自負が滲んでいた。
リーゼもその輪の中にいる。
少し前まではシュライドの隣で笑っていたはずなのに、今はごく自然に、反応の良かった者たちの近くへ立っていた。
別に、裏切られたとは思わない。
思えない。
石碑に認められるかどうかが、この学院ではすべてだ。
それは入学前から分かっていたことだ。
なのに胸の奥が妙に冷えるのは、彼らが間違っていないからだった。
「シュライド」
レオグだけが、少し離れた位置から呼んでくる。
シュライドは壁際に立ったまま、そちらを見なかった。
「さっきの、何かの間違いじゃねえのか?」
「だったら何だよ」
「いや、だってお前――」
「俺が何だ」
言葉が荒くなる。
レオグはそれでも引かなかった。
「お前、剣は振れてただろ。教練でも遅れてなかったし」
「……石碑はそう思わなかったみたいだな」
自分で言ったその言葉が、刃みたいに喉を削る。
レオグは黙った。
正しい返答なんて、あるはずがなかった。
その沈黙を裂いたのは、ミルドの笑いだった。
「いやでも、ほんとどういうことなんだろうな」
「団長の息子で無反応って、聞いたことなくね?」
「やめなよ」とリーゼが一応たしなめるが、声に強さはない。
フェインが肩をすくめる。
「まあ、まだ初日だし。次があるかもしれないだろ」
慰めの形をしているくせに、言葉の中身は空っぽだった。
ヴァルツェンだけが少し遅れてシュライドの方を見る。
「……期待していた」
その一言は、責める声ではなかった。
それでも、妙に刺さった。
「団長の息子なら、少なくとも入口には立つと思っていた」
そこで言葉は切れる。
続きは言われなくても分かった。
――だが違った。
シュライドは笑いそうになった。
笑えるわけがないのに、口元だけが妙に歪んだ。
「悪かったな。期待外れで」
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味だよ」
「……」
ヴァルツェンは答えなかった。
いや、答えられなかったのだろう。
自分でもまだ、整理がついていない顔だった。
ドルグレフ教官に呼ばれていることを思い出し、シュライドは踵を返した。
誰の顔も見たくなかった。
教官室は騎士団本部の裏手にあった。
扉を叩くと、すぐに「入れ」と返る。
中へ入ると、ドルグレフ教官は机の前に立ったまま、腕を組んでいた。
窓の外には、夕陽に染まる中庭の石碑が見える。
「座れ」
言われた通り、シュライドは木椅子へ腰を下ろした。
ドルグレフはしばらく何も言わない。
ただ見ている。
シュライドはその視線に耐えるように、膝の上で拳を握った。
「……お前、自分がどういう立場か分かっているか」
最初の一言は、それだった。
「団長の息子ってことくらい」
「違う」
即座に切り捨てられる。
「石碑に反応されなかった者だ」
その言葉は静かだった。
静かな分だけ、逃げ場がない。
「この学院の卒業条件は知っているな」
「新星だ」
「そうだ。石碑から新星を与えられなければ、お前は騎士になれん。どれだけ木剣を振ろうが、どれだけ教練で点を取ろうが、それは変わらん」
シュライドは歯を食いしばる。
「……今日だけだ」
「かもしれん」
ドルグレフは否定しない。
だが希望を与える気もなさそうだった。
「だがな、シュライド。辺境では“かもしれん”で死ぬ」
「……」
「石碑に届かぬ者が騎士の真似事をして前に立てば、そいつが死ぬだけじゃ済まん。背後の民も死ぬ」
声は冷たい。
だが感情的ではない。
それが余計にきつかった。
「団長の息子だろうと関係ない。むしろ団長の息子だからこそ、俺は甘くしない」
「……分かってる」
「分かっていない」
ドルグレフの声が少しだけ低くなった。
「お前はまだ、自分が石碑に拒まれた意味を理解していない。今日はただ恥をかいただけだと思っている。違う。あれは、お前がこの先どれだけ剣を振ろうと、騎士になれん可能性があるということだ」
教官室の空気が重くなる。
シュライドは俯いたまま、膝に爪を立てた。
騎士になれない。
その言葉だけは、聞こえても意味として受け入れられなかった。
「……それでも」
掠れた声が出る。
「それでも、俺はやる」
ドルグレフは動かない。
「石碑に認められない? 知るかよ。なら認めさせるまで触る。何回でも」
「……」
「俺は、何者でもないまま終わるつもりはない」
顔を上げる。
教官の目を真正面から見た。
「絶対に、歴史に名を刻む」
言い切ったあと、教官室はしばらく静かだった。
ドルグレフはわずかに目を細める。
呆れたのか、怒ったのか、それとも別の何かなのかは分からない。
やがて、ひとつだけ返ってきた。
「……大口は、新星になってから叩け」
それだけだった。
だが追い出されもしなかった。
諦めろとも言われなかった。
「下がれ。明日も朝から教練だ」
「……はい」
立ち上がって扉へ向かう。
背中にもう一度、ドルグレフの声が飛んだ。
「規則時間内なら、石碑への接触は自由だ」
「……」
「ただし、次も無様を晒すなら覚悟しておけ。今度は誰も、お前に期待しない」
シュライドは振り返らなかった。
「最初から、期待なんか要らねえよ」
半分は嘘だった。
でも、その嘘にしがみつくしかなかった。
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夜。
学院の灯りがひとつ、またひとつと落ちていく。
クラウフェルの夜風は冷たい。
遠くで見張り塔の鐘が鳴った。
皆が寝静まったあと、シュライドはひとりで中庭へ出た。
石碑は、月の下で黒く立っている。
昼間と同じ沈黙。
同じ冷たさ。
「……ふざけんなよ」
誰に向けたのかも分からない言葉が、夜気に溶ける。
石碑か。
王か。
世界か。
それとも自分自身か。
分からないまま、シュライドは石碑の前に立つ。
昼間、何も返さなかった石。
皆の前で自分だけを沈黙で拒んだ石。
右手を伸ばし、押し当てる。
やはり何も起きない。
冷たいだけだ。
まるで最初から、自分など存在しないみたいに。
「……ざけんな」
低く漏れた声と同時に、拳が石碑を打った。
鈍い音が夜に響く。
一度。
二度。
三度。
拳を叩きつけるたび、骨まで痺れるような痛みが返ってくる。
だが止まらない。
「無視してんじゃねえよ……!」
また殴る。
四度。
五度。
六度。
皮が裂けた。
じわりと滲んだ血が、指の間を伝って黒い石へ落ちる。
「見ろよ……!」
拳を叩き込む。
「俺を見ろよ……!」
また叩き込む。
音は鈍いのに、胸の内側だけが焼けるように熱かった。
痛みも、悔しさも、羞恥も、何もかもが拳に集まっていく。
「俺は――!」
血のついた拳を振りかぶる。
「絶対に、歴史に名を刻むッ!」
振り下ろした一撃が石碑に触れた、その瞬間。
視界が揺れた。
石碑の冷たさが、拳から腕へ、肩へ、首筋へと這い上がる。
息が止まる。
「……っ!?」
中庭の夜が、音を失った。
月が滲む。
石碑の黒が、どこまでも深い闇へ沈んでいく。
拳から流れた血が、黒い表面に吸い込まれるように消えていった。
次の瞬間、シュライドは知らない血の匂いの中に立っていた。
お読みいただきありがとうございます。
次話より、シュライドは王の記憶が眠る戦場へ踏み込みます。




