弟子入り日和
善太は埼玉にある儒烏風亭三乗の家の前でまごまごしていると、そこの弟子らしき男に見つかった。
「どなたでございますか?」
「はあ、あの、三乗師匠はおりますでしょうか?」
善太はその緊張で裏返るような高い声で話した。
「師匠でしたら昨日まで仙台の方に寄席で行かれております。どう言ったご用で」
善太はこの言葉を何よりも求め、そして何よりも恐れていた。
「あの、弟子入りの希望なんですが」
「はあ、弟子入り。少々お待ちください」
男はそう言って後に下がった。しばらくすると、再び善太の前に出て
「とりあえず、中へお入りください」
男はそう言って善太を門の中へ入れた。
駅からも近い場所であるが、そこは東京から離れているのか、広い庭とそのほとんどを大きな池が占めていた。
三乗の師匠である三宝は長屋暮らしであったと言うが、この家は三乗の趣向が詰まった家であるように思えた。
門のすぐ右にある家は弟子が住んでいるようで、善太はここで三乗を待つことになった。
部屋に通され、善太の前には茶が置かれた。ただ、善太はそれには手をつけず、絶えずじっと目の前にいる男を見つめていた。善太よりも歳がいくつか上のように見える白い肌をした男できっちりとした髪の分け方はこの男の生真面目そうな印象を善太に与えた。
「私は三乗の十番弟子の乗助です。まだ前座でございます」
「はあ、どうも」
乗助はハキハキとした声で善太に声を掛けた。その時に部屋に女性が入ってきた。
「女将の藤子と申します。貴方はどこからいらっしゃったの?」
「私は栃木の足利から参りました」
「まあ、遠い所からどうも。なんでも弟子入りをしたいとのことで」
「はい、三乗師匠の寄席を半年前に拝見し、私はその時から半年かけて職や家を何もかもを捨てて参りました」
「家も?」
「はい」
善太の声に女将は少々驚いたようであった。
「しかし、どうしましょう。三乗は乗助でちょうど十番弟子と言うことでキリがいいからとこれ以上は弟子を取らないと言ってまして」
善太はこれ程までに感じた絶望感をこれまで味わったことはなかった。何もかもを捨ててまで来たのだが、善太はこの先をどうしようと早くも思っていた。
「しかし、事情を話せばわかってくれるかもしれません。なにしろそれ程の覚悟を持って来てくださったのですから」
「そうでしょうか」
女将の言葉に善太はいくつかの希望を持った。師匠の気前の良さを願い、善太は三乗の帰りを待った。
それきり善太は女将や乗助と話をすることはなかった。ただ、彼の中にあるのは三乗の帰りと弟子入りのことだけであった。
その中に時折聞こえる家の中の足音が彼の静寂に心地良い想像を与えてくれた。外の風の音は既に飽き、揺れる草や影の移り変わりも彼にはもう退屈以外の何者でもなかった。
三乗が帰って来た時はそれはふと突然であった。気がついたら、三乗は家にいたように思えたのだ。
善太はそこに急に現れ出た三乗に腰を後ろに倒すような幻覚を見た。
「この子は?」
「はあ、弟子入りでございます」
乗助が恐る恐る言うと、三乗は善太を見つめた。それがどのような目で見つめているのか善太には想像もつかなかった。およそ、追い出されることとその中に微かに弟子入りを許される希望を持っていた。
三乗の目は乗助に向けられ、善太には雨に濡れたと思う程の汗が流れ出た。
そして三乗はその目を乗助から善太の方に変えた。
「ついて来なさい」
そう言って、三乗は善太を連れて、庭に出た。池のそばを通るとそこにまた違う家があった。
平家とそれにくっついた高床の建物であった。
三乗はそこに入るとすぐに善太を通した。そして高床のある部屋へ善太と共に行き、二人は向き合いながら座った。
「名前は教えてくれないか」
「はい、寺内善太と申します」
「善太....。なぜ私のところに弟子入りを?」
善太はやはりまごまごとした間を開けてこう言った。
「私は元々画家を志望をして美術学校におりました。将来は画家になるつもりでいて、それ以外には目を背けながら生きていたのです。しかし、半年前に友人に連れられて末廣亭を訪れ、そこで三乗師匠の芝浜を聞き、私の描く、絵がまるで映画のように動く、そんな幻を見たのです。どうか私を弟子にしていただけないでしょうか」
善太は頭を下げた。三乗の顔はとても恐ろしく見ることはできなかった。
「頭をお上げなさい」
三乗の声は優しく暖かいそよ風のように思えた。その風に頭を上げられているような感覚があった。
「私は今いる乗助で十人の弟子を取っている。乗助を除くともう皆すでに二つ目や真打になっている。だから、貴方を弟子にすることは容易だ。しかし、私ももう年で乗助が弟子入りした時にこのキリのいい数字で弟子入りを終わらせるつもりでいる。私の一番弟子の乗平を紹介しよう。乗平はなかなかにうまいやつだ」
「嫌でございます」
善太は頑固にも物を言った。ふと横目から白い日差しが床に照らされているのがわかった。
三乗は何も言わなかった。また善太も何も言わず頭も上げなかった。
それがいくつか続くと、家の扉を開ける音が聞こえた。やって来たのは女将で三乗に耳打ちをした。
「あの子を弟子入りにするの?」
三乗は何も答えなかった。恐らくは首を横に振ったのであろうと思われた。
「あの子は職も家も捨てて来たそうよ。それ程の覚悟があって来たのよ」
女将はそう言い、しばらくして三乗は女将を下がらせた。
そして二人の間が再び出来上がり、影の映りは善太が最初に見た時よりもだいぶ斜めへと移動していた。
「来なさい」
突然、三乗は善太に声を掛けて、外の高見台に連れていった。
「君は今まではこの景色を絵に描いていたんだ。そして私はそれに話を描いていた。その覚悟が君にはあるように思う」
善太はその言葉を聞き、三乗ではなく、庭の方を見まわした。この景色を話にすることができると思い、そして羽を広げた鳥の幻覚を見た。
「十一番目の弟子にしよう」
「ありがとうございます」
高見台に掛けてあった簾がこの時だけ風に揺られていた。善太はそれを歓喜のものだと思うことにした。




