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蝉が惨めに通り魔す  作者: 酒とゾンビ/蒸留ロメロ


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12/22

11


 七月に入り、暑さは一層増して、日常は以前よりも気だるく感じる。どうにか話しかけて、連絡先だけでも手に入れないとマズい。最近はそんなことばかり考えている。一週間後の金曜日までに声をかけないと終わる――そう先週の金曜日に思った。今日がその日だ。記憶を失くした無砂利場さん。あれから色々あって――厳密にはただ月日が流れただけだが――避けられているんじゃないか思うようになった。じろじろ見てくる変な人だ、そう思われているに違いない。それで以前よりも近づけなくなった訳だ、以前も近づいたことなんてなかったけど。でもそれは違って、俺が避けていただけだった。すれちがうと下を向いてしまう。

 夏休み前、登校最終日を迎えた今日、ただでさえ手に着かない授業は手に着かず、呆然と過ごした。終わった……終わった……。黒板の頭上にある丸時計を見ては、まだ数時間あると気休めを頭の中で転がし、話しかけている自分を想像する。会話の内容を想像し、自分の口から出てくるであろう単語を探した。俺は無口だった。

 何もなく、通常通りの放課後を迎え、心は平坦だった。いつものように教室に残ろうと隣の教室へ行くと、誠がにやけながら言った。


「祇園祭に行かないかって誘われたんだけど、行く?」


「祇園際……え、誰に?」


「平さん」


「無砂利場さんの友達の?」


「うん。無砂利場さんも来るらしい、行くよなあ?」


「行く」即答した。


「オッケー」


 時間はまたメールするらしい。三条京阪か四条のどちらかに集まるそうだ。


「てか誠、メアド知ってたのか?」


「平さんのな」


「ああ、平さんか」


「あの人のは知らない、知りたきゃ今日自分で聞け」


「……うん」


「あと何人か来るらしいから、気を付けろよ」


「何が?」


「無砂利場さんだよ。あの人、結構男子に人気あるみたいだから。今日逃したら次に会うのは九月だろ、みんな考えてることは同じだぞ」


 突然に降って湧いた好機を前に、俺は少しばかり有頂天になっていた。誠の警告が耳に入ってこなかった。

 一度家に帰ったあと最寄りの駅で誠と落ち合って、三条京阪に向かった。到着し、改札を抜けて地上の三条大橋の東詰めに出るころ、「ごめん、四条だって」と誠が面倒くさそうに言った。ここから四条烏丸までは電車で数駅だ、間に乗り換えもはさむ。


「電車代がもったいないな」


「一日乗車券にすればよかったな」


「な」とかったるそうに、誠は「四条まで歩くか」と言った。


 三条大橋から北へ振り向けば、河川敷には見事に鴨川等間隔の法則を体現しているカップルの連なりがある。久しぶりに見た気がした。そして不思議と嫌悪感がなかった。無駄に時間を浪費しているだけの定年退職後の老害のようなものだ。彼らには具体性がなく、それ以外にやることがない。目的がない。不憫に思えてきた。その路傍に沿って続く連なりが、まるで物のように見える。俺の心は清々しい。頭の中はすっかり、四条烏丸で待つ無砂利場さんのことでいっぱいだった。

 京極を抜けて四条通に出ると、もう歩行者天国は始まっていた。


「うわー」と誠が引き気味に言った。


「時間かかりそうだな」


「だな」


 人の密集度が凄まじく、さらにそれらの足取りはやけに遅い。たらたらと、みんな暑さにやられた顔をしている。東は四条大橋を越えて祇園の方まで続いている。西はもう見えない。

 道路の中央に境界線が作られていた。俺たちは右側通行で西に向かって歩いた。アーケードの下に入ったり、道路に出たりして、人のいない空間をぬって、できるだけ小走りに駆け抜けた。

 橙色の空が陰り始めるころ、無砂利場さんと平さんは、四条烏丸交差点の角にあるカフェレストランのテーブル席に座っていた。中は昭和感漂う喫茶店風で、なのにがやがやと賑わっている。

 誠に気付いた平さんが手を振って「ごめーん」と言った。誠は席に着きながら「いいよ」、上手いこと会話を始めた。俺も無言で椅子に座った。正面の二人は椅子ではなく、壁越しのソファーだった。せめて大将がいてくれたらと思ったそばから、あの男女の目合う生臭いにおいを思い出した。


「ごめんね、大変だったでしょ」と平さん。


「全然だったよ、なあ?」


 誠のパスを生かしきれず、「え……うん、全然だった」と淡泊に答える。


「他の人は?」


「ちょっと遅れるみたい、駅が混んでるんだって」


「そっか」


 わざわざ声に出さずとも分かりそうなことであっても声に出し、浅く薄っぺらい、もはや「音」と呼ぶべきほどの内容であっても、それでも声に出し合う。それが会話だ、コミュニケーションだ。俺はこれまで、この「コミュニケーション」をバカにしてきた。誠は実に饒舌だ。すらすらと、ぺらぺらなことを話す。だから平さんも喜作になるのだろうか。誠は女慣れしている。

 とはいえ、誠や大将と普段話す内容がそれほど凝った内容だったかと思えば、そうでもない。結局のところ、俺だけが女子の前だと話せない。それだけのことだ。そのシンプルな事実を恥じ、「話せない」のではなく「話さないんだ」と自発的であることを主張してきた。誰に対してかは不明だ。それは常に心の声で行われ、外部に出たことは今まで一度もない。俺は都合が悪いとすぐに自分の理解に逃げ込み、現実をシャットアウトしてきた。そのつけが今まわってきたんだ。

 向いの席で、無砂利場さんが静かにストローでジュースを飲んでいる。

 今になって気が付いた。俺は無意識に、無砂利場さんと対面するこの右側の席に座った。おそらく誠がそう仕向けたのだろう。店に入った時点では、誠は俺の右側に立っていた。誠はテーブル席の様子を確認し、このテーブルまでの道中に自分の立ち位置を俺の左に変更した。だから俺は今、無砂利場さんと向かい合えているんだ。なんて奴だ、巧みにもほどがある。

 そんなことはどうでもいい。

 すると誠がテーブルの下で足を蹴った。「ん?」と振り向いたら、誠は「それがさあ――」と平さんと話の続きをしている。偶々足が当たっただけかと思っていたら、また足が当たった。さっきよりも少し強めだ、痛くはない。

 わかってるって……話しかけろって言いたいんだろ? それはもう十分に理解してるって。

 言葉が思いつかない。たとえば「そのジュースおいしい?」はどうだ。いや、気持ち悪すぎる。まるで味見させろと言っているようなもんじゃないか、下心丸出しだ。引かれるのが、おちだ。「なに飲んでるの?」くらいにしておこうか? いいや、まず何故そこまでジュースにこだわる必要がある。他にもっと話すことがあるだろう。たとえば無砂利場さんは制服姿じゃない、私服だ。服装を褒めるとかにしておくべきか。いや、待てよ。それでは完全に狙っていると思われる。祭りの雰囲気を楽しみにきたんじゃないのかと、気味悪がられてしまう……。

 そうだ! 「他に誰が来るの?」」という、俺にとって一番どうでもいいこれを聞こう、これなら警戒されないし気味悪がられることもない。


「お待たせ――」


 背後に、数人の男女の姿があった。


「待った?」


「ううん、待ってないよ」と無砂利場さん。彼女の隣に女子が座った。学校で何度か見たことがある。隣のテーブルから空いていた椅子を借りてきて、男子二人が追加でテーブルを囲んだ。「どうする?」「夜店見に行く?」そんな会話があって、平さんが「着いたばかりじゃん、休憩しなくていいならいいけど」とか言って、結局数分後には店を出た。


 ぼんやりと後悔の波が押し寄せてくる。左から名前も知らん男子二人、女子一人、無砂利場さん、誠、平さん。それらの背中と横顔を見つめながら、ときどき夜店に視線を逃がし後悔を紛らわして、うっかり呆れ気味の誠と目が合って、また夜店に逃げた。

 烏丸通りに連なる夜店を人通り見終えた。休憩がてら専門学校前の階段に腰かけながら、夜店で買ったきゅうり棒やミノの唐揚げを食べる。通りが煌々としているからか、暗い空は微かに黒く青みがかっている。そのころにはもう俺は敗退していた。周囲では自然に上手いことペアができていて、それはカップルという意味ではないが今後発展しないとは言えない。彼女がいるはずの誠は相変わらず平さんと会話を弾ませている。無砂利場さんたち四人は祭り終わりの顔をしていて、青春の渦中にいるようで俺には羨ましい。

 七人目の俺は、おそらくよくわからん顔をしているはずだ。人混みを往復し疲れていない訳ではない、ただ祭りに参加したという実感がない。俺は夜店と六人や、他の楽しそうな他人を眺めていただけだ。

 それで妙に引っかかっている感覚がある。多分、この六人には感じ得ないものだ。だってみんなは祭りに参加して、祭りを終えたんだから、楽しんだんだから。ならば感じ得ているはずがない。

 それは暗く沈むような狭い室内には決してない。放課後の、生徒のいなくなった教室にだってない。視界に把握できるすべての人たちが笑ったり、ふざけたり、疲れたり、叫んだりしている。夜だから当然昼間よりも辺りは暗い。それでも夜店や街頭や飾りつけの照明で煌々しているし、密集する人々の姿は表情まではっきりと見える。それならば当然、俺の姿は誰も彼もに見えているはずだ。俺だけが、そこにいないような感覚に陥る。体が軽くなり、足が地を離れたような浮遊感があって、喩えるならパソコンモニターに映し出された繁華街の様子を眺めているみたいだ。真っ暗な世界にモニターだけが佇み、、誰かの一人称視点で祭りの様子が映し出されている。次第にモニターは遠ざかり、音と一緒に小さくなっていく。俺は真っ暗闇に浮遊したまま取り残される。

 孤独とは多分、他人との比較から始まるものなのだろう。


「――何かあったのかなあ?」と誠の声がして、俺は真っ暗闇から戻ってきた。


 六人は揃って同じ方向へ振り向き、目を奪われているように見えた。烏丸通りの南の遠くから、多数の悲鳴が聞こえてくる。悲鳴の数が増えてきて、押し寄せる群衆の姿が微かに見え始めた。辺りが「やばくない?」「逃げるか?」「行こ行こ」などとざわつき、避難する人の姿がちらほら見え始める。

 俺は「誠?」と言った。誠は振り向かず、背中越しに「行こう」呆然とした声を漏らした。

「何かあったのかなあ」と平さん。結局自己紹介すらしていない男子二人が「ヤバそうじゃないか?」「事故でもあったのか?」女子が「私たちも逃げる?」と怖がった。

 阿草さんの話を思い出しながら、俺は無砂利場さんの背をおもむろに見つめた。

 近くのホテルの窓ガラスが一斉に割れ出し、三階から火が上がった。遠くで車体が宙を舞って、映画のような火柱が上がった。爆発で空気が揺れた。辺りでも悲鳴が上がり、周囲はすぐにパニックとなり始めた。


「ミチカ!」誠の声がして振り返った。


 平さんや無砂利場さんを含め、すでに五人は避難しようとしていた。路上を駆けて行く人の群れに誠が揉まれている。


「駅に行くぞ!」


 それはマズい――直感で、妙に冷静にそう思った。駅とは地下鉄のことだろう。俺は「立ち往生するぞ!」と叫んだ。人込みに揉まれ、誠はどんどん遠ざかっていく。声は届かない。俺は専門学校の階段から路上に出て、逃げ惑う群衆に合流した。群れは通りを北上していく。遠くの頭上に「地下鉄・四条」の標識が見えた。が、誠の頭は地下鉄の入り口を通り過ぎて、交差点の方に向かっていた。

 カフェの前に誠を含め、無砂利場さんたちの姿があった。俺はまっ先に、地下で立ち往生することになったら地獄だと伝えた。無砂利場さんたちは人の波に押されて地下に入れず通り過ぎてしまったそうだ。地下に流れ込む人混み以外にも、北の御池方面と東の河原町方面、四条大宮のある西に向かって流れていた。おそらくどれも電車などの交通機関を目指しているはずだ。ただ爆発が能力者のせいなら電車が止まってしまう可能性がある。さらに入り口が何かの拍子に崩れたら生き埋めだ。救助がくるまで動けなくなってしまう。そこに能力者が現れでもしたら絶望的だ。

 交差点の隅は、人々が主に三方に散っていくからか少し空間があった。

 平さんが「どうするの?」と次の行動を求めたとき、バチバチと稲妻のような縦長の塊が、交差点上空を南に向かって通り過ぎていった。


「何、今の……」と女子が、男子の一人が「人に見えなかったか?」と言った。


「見えた見えた」と同意する男子。「てか電車が動いてるうちに、地下鉄に向かった方がよくないか?」


「うん、俺も今そう思った」


「行く?」と女子。平さんが「だったら私も行くわ」と言った。


 地下鉄への入り口前が混み合っていなからか、電車に乗って帰る方向に話が進んでいく。


「誰か一人が一回地下の様子を見てくるっていうのは?」誠が言った。


「あ、じゃあ俺行ってくるわ」


 男子の一人が話し合いもなく、すぐに走っていった。

 どこか遠くで爆発でもあったのだろうか、それらしいものがまた聞こえた。困惑しながら走り過ぎていく人たちの悲鳴が、街中に反響している。


「――無理無理!」


 地下鉄から男子が戻ってきた。どうやら改札にすら辿り着けなかったらしい。それだけに戻ってくるのも早かった。地下では多くの人たちが立ち往生しているそうだ。

「とりあえずここを離れよう」誠が言った。「地下の人たちが地上に戻ってくる前に」


「でもどこに?」と無砂利場さん。


 誠は「あっちは?」と四条方面を指さした。「ここがダメなら河原町か祇園四条か……ダメか。もう人でいっぱいだよな」

 無砂利場さんが「三条京阪は? 市役所前でもいいけど」誠のよりも離れたところにある二つの駅について提案した。誠は、「うん、それでもいい」

 相談しながらとりあえず四条河原町方面に向かって歩き出した。丁度そのとき、地下鉄から人の群れが出てきた。次々と見えるそれらは、まるで巣穴か溢れ出る蟻のようだ。


「やば」


「おい、ちょっと急ぐぞ」


「うん」

 

 もうどうでもいいが、未だに名も知らない男子女子が先導する。

 地面に揺れを感じた。俺たちはほぼ同時に足を止めた。激しさを増していくそれに、思わず身をかがめるようにした。恐怖からか言葉もなく、それぞれでアイコンタクトを取りながら状況説明を求めた。だが誰もわからない。

 多数の悲鳴が上がった。四条方面から巨大な球が転がってくる。


「あっちだ!」と誠が言った。


 俺たちはアーケードの下の路地に逃げ込んだ。大通りのど真ん中を、巨大な球が通り過ぎていった。地面と接する球の側面には、どろどろになった何かがべっちょりとくっついていた。付近にいた人がゲロを吐いた。見れば他にも何人もの人がゲロゲロ吐き出している。この暗さでは色も何も見えない、それは遠ざかる球の側面にくっついる、挽肉みたいなあの影も同じだ。

「うっ!」と無砂利場さんが口と鼻を手で押さえた。すぐにみんなも同じ反応をした。

 辺りがとてもつもなく、異様に鉄臭い。つーんと生臭いにおいもして、俺も口を押えた。戻しかけたそれを、ごくっと食道の奥に戻した。

 襟や手で口元を押さえながら、できるだけ空気を吸い込まないようにして足を進めた。道路の真ん中には、球の通った跡がくっきりとあって、地面はくぼんでいた。そのくぼみの中に……。


「うえっ!」 


 平さんがゲロを吐いた。無砂利場さんが背中をさすっている。そこでまた足を止めた俺たちは、呆然とした顔で見合って、一言も喋らない。真夏日に見る、日常的な荒い鼻息を浮かべている。

 そのあと男子二人が吐いて、女子が貰いゲロをした。誠は薄手の上着を脱いで、ギャングみたいに口元を覆った。ポケットの携帯がバイブレーションした。見ると画面には「大将」の文字があった。角の起動ボタンを二回押して留守を装った。

 道路を挟んだ向かいの路地から多数の悲鳴が上がった。一つの人影が、長い刀のような影を振り回している。


「俺たちの時代!」と影は何度も言葉を繰り返した。


 道路に飛び出た影の姿が、月明かりに照らされて半分ほど見えた。ぎらついた目と歯茎が見えるほどの笑み。タンクトップの男が、周囲の人を無差別に切り刻みながら近づいてくる。斬ったあと肩がすとんと落ち、腕はぶらぶらと力なく揺れている。斬りかかる瞬間にだけ細腕が隆起し、刀は明確に人を斬る。

 道路を渡って欄干を跨ぎ、男は路地に入ってきた。逃げ惑う人たちをきょろきょろと物色しながら、俺たちを見て視線が止まった。一歩一歩と近づいてくる、刀がカチャっと音がした。

 後退りもせず、みんな逃げようとしない。


「誠?……平さん?……無砂利場さん?」


 みんな、硬直し切っていた。男に一番近いところに立つ無砂利場さんの唇が、微かに震えている。俺は「誠!」と叫んだ。誠の背中をばしっと叩いた。はっとした誠は直近の平さんなどの手を取った。


「走れ!」


 だが無砂利場さんがまだ動いていなかった。俺は一拍ためらって、彼女の肩にポンと触れた。


「逃げよう!」


 顔を覗き込むと、彼女の目は点になっていた。


「俺たちの時代が始まる……」


 俺はとっさに声へ振り向いた。刀の男はもう目の前に立っていた。手には月夜の反射する刀があり、口元は歯茎が見えるまでに引き攣っていた。

 細腕が隆起し、男は刀をカチャリと構えた。俺は「下がって」と背後の無砂利場さんに叫ぶ。反応がなく、動いた気配もなく。


「成敗……」男の静かな声があった。


 俺はとっさに右手で自分の顔を覆った。一瞬、目も瞑ったかもしれない。


「……え?」


 ――不思議なことが起きた。

 男の構えた刀は、確かに斬り下ろされようとしている。ただそれが、まるで止まって見えるほど遅く感じた。隆起した細腕の筋肉の動きや、力む口元の動き、男の全身から起こる動きのすべて、まるでスローモーションのように遅い。

 だから容易に反応することができた。刀の柄に硬く握られた男の指を、一本ずつ剥がす。一本一本は簡単で、余裕をもって男から刀を奪った。そして刀を逆手に持たせた。思いつきだ。無砂利場さんに被害が及ばないように背中で隠すように、しっかりと間に入った。それから時が過ぎるのを待った。

 剣道でもやるように腕を振り下ろし、男は「ぐふっ」と声を漏らし勢いよく止まった。口元から顎に向かって汁が流れる。陰って色は見えない。徐々に異変に気付き、自分の胸元に刺さる刀の刃を見下ろした。おぼつく足で後退り、尻餅をついて背中から倒れた。胸には真っすぐに刀が刺さっている。隆起した腕は元に戻っていた。刀が砂のようにさらさらと消えていった。

 俺は振り返った。「無砂利場さん?」

 他のみんなは誠以外、もう結構離れたところまで逃げていた。


「大丈夫?」


 彼女はきょとんとしていた。呆然としつつも、かろうじて小さく頷いた。


「行こ……」


 初めて喋れた気がした。二人だけの時間、沈黙……。

 そこに「ミチカ!」という誠の邪魔が入った。「大丈夫か!」と呑気に手なんか振ってやがる。手を振り返した。

 その直後、体の右側から急に何かが押し寄せた。自分の体が飛んでいった、それだけはわかった。反射的に浮遊を使い勢いを殺す。着地して振り向いた。


「おいおい、嘘だろ?」


 野太い声で、そいつは笑った。

 二メートルもの岩石のような巨体。人の形をしているが人間とは思えない。生身の足や胸や顔はどれも筋肉質な人間のものだ。ただ肩から両腕にかけてが、岩のようにコーティングされており、右腕などは建物の柱ほどの大きさだ。


「能力者……」


「今のを食らって無傷はやべえだろ」


 能力者は愉快そうに笑い声を上げた。「んあ?」と足元の無砂利場さんを見下ろした。そして右腕を軽く振り下ろそうとした。


「――どんでもねえ力だ」


 念動力の膜を築き、無砂利場さんを守った。能力者の下ろした腕は、何もないただの空中で止まったように見えている。

「発動までの時間も早い」まじまじと見つめ、「その能力は自動か?」不気味ににやつき、「発動は自動かって聞いてんだ、でなけりゃ最初のあの一発を防げたはずがない」

 思えば、あの剛腕にぶたれたというのに、俺の体は傷一つ付いていない。直前に念動力が発動したのか?……。


「無意識に守ったか? 恐ろしい影響力だ……どうりで欲しがる訳だ」


 妙な言葉が聞こえてすぐ、能力者の右側に知っている人物がすっと現れた。


「……阿草さん?」


「やあ、霜月くん」


「どういう、ことですか……」


 無砂利場さんはそっと後退る。駆け寄ろうとした誠が足を止めた。


「早い話が、最後の勧誘をしにやってきたのだ」


「これは、あなたが?」


「被害のことか? 指揮などはしていない、発端は私だろうがな」


「なんで……」


「こうでもしないと君は気付かないだろう?」


「気付く?」


「別に私に賛同しなくとも、彼らはいずれ勝手に始めたのだ。能力者の誰もがそうだ。烏丸通りと四条通り、河原町通りから三条通りにかけて能力者を配備した。中には私と何の繋がりのない者も混ざっている。君が上手いことやった、そこで倒れている能力者がまさにそうだ。人と違う恵まれたものを手にしておきながら、いくら保守的とはいえ、それを永久的に使わないなんてことはあり得ない。君だってそうだろ、最初は使い方がわからなかった。だが段々に使い慣れてきて、意外にも周囲があまり気付かなかったりすると、それでまた慣れてくるんだ。躊躇いがなくなってくる。誰しもそうなんだ。始まれば、誰も守ってはくれない」


「……警察がいるじゃないですか」


「この岩のような彼を止められると思うか、この体は銃弾を弾くぞ?」


 さっきの腕の一振りすら、止めたのは俺が初めてだそうだ。


「初めて君の能力を見たときは冷や汗をかいた。あれは濃い紫とも黒とも群青色とも分からない、なにか濃いエネルギーの球だった。それは対象を寄せ付けず、霧の男を柱に打ち付けた。私はすぐに君を勧誘しようと考えた。しかし君はあまりに能力を使わなさ過ぎた。霧の男を殺さず、みすみす逃がした。二度目の戦闘においてすら殺そうとはしなかったんだろう? ごく普通の、物静かな高校生だ……。迷ったよ、殺すか生かすか」


「……」


「のちに必ず大きな存在となるだろう、死ねばそれまでだが。そのときは仲間にしたい。しかし今は抗争に参加するつもりがないようだし、見つけらることもないだろう。ならば放置し、あとは縁に任せようと考えた訳だ」


 そして阿草さんは鴨川デルタの会合を開いた。


「驚いたよ、まさか君が会合に興味を持つとは思わなかった」


「マンションの場所も元々知ってたってことですか?」


「嘘はついていない、あれは本当のことだ、君は能力者を引きつけやすい。尾行したりもしていない。学校での二回と、鴨川での一回、それからマンションで会った一回と、レストランに呼び出した一回。それだけだ」


 軽く腕を広げ、「自由平等平和、これらはすべてフィクションだ」


「……」


「目を覚まさせに来たのだ、我々は。何か起これば、襲われれば、逃げるしかない、それが世間でいう防衛だ……。これをどう思う?」


 質問の意味が分からない。


「逃げ惑う彼らは殺されても反撃しない。無論、死ねば動けまい。だが誰も彼もがそんな単純なことにすら気付いていないのだ。殺されるまで何もしようとしない、死ねばそれまでだ。そして、彼らの多くはそんなことは分かっていると話すのだ、ならばなぜ反撃せずにいられる。今にも敵は差し迫っているというのに、なぜ背を向けていられるのか。死にたくなければ殺せばいいじゃないか」


「すいませんが、神経を疑います」


 本当に呆れた人だ。人を殺すだなんて、そんな簡単に……。


「……では攻撃されるまで待つつもりか?」


「能力者にしろ、俺は自分から仕掛けに行くつもりはありません。だって大半は抗争なんて望んでないじゃないですか? 俺だって望んでません」


「多数派の考えは無意味だ」


「……どうしてですか?」


「彼らは不都合な目に遭いたくないだけだ、利己的なのだよ。選択すらしていない。そして抗争の多くは突発的に発生する。そのとき否定派や無能力者は人知れず巻き込まれるのだ。あとには死体しか残らない」


「そのときこそ動けばいいじゃないですか」


「人が死なねば動かないのか? それでは遅いと何故わからない? 遅すぎるんだ。大切な者の死を前にしても、君は同じことが言えるか?」


 阿草さんは、鉄砲の形にした手を無砂利場さんに向けた。人差し指の先端に、小さく火が灯る。


「やめてください」


「安易に能力を向けてくれるなよ、その瞬間にもこの子は死ぬことになる。ではどうする……方法は一つしかない、私を殺せばいい」


「だから……」


「失ってから行動して足りることなど何一つない。何か失わなければ気がつけないのは愚か者だ。君にとっての物事は君を中心に起こる。君に関係のある争いは君の周囲で起こる。そのとき君の大切なものが死ぬ、時間の問題だ、根元から変えなければ解決する問題など一つもない」


「だからって殺せません……話し合えば」


「命は尊重されるべきではない、それよりも重要なことがある。さあ、止めてみろ」


 この人の目的がわからない。俺をけしかけたって、それで俺が仲間になる訳でもない。この暴力的な話にはまったくついていけない。

 そう思いながら、俺は別の理由で躊躇っていた。誠が、無砂利場さんがちらちら俺を見ている。

 俺の能力が目に見えない。そこの岩石男や阿草さんの火とは違う。色がない、透明だ。だから使っても分からない。それで何か起きても、人は目に見えないものに対してはいい加減だし、深くは考えない。でも今使えば、無砂利場さんも誠も気付く。俺が何かしたことに、俺が能力者であることに。

 落ち着け、落ち着くんだ……。


「霜月くん、私は二年待ったんだ。誰か動いてくれる者はいないかと、願って。しかし口にすらしない願いなど、実在しないも同じだ。私は積極的なタイプではなかったが、仕方がなかった」


 無砂利場さんに向けらた指先が微動した。阿草さんは「時間はないぞ」と煽る。頭の中で「どうする……どうする……」ぶつぶつと、それだけを繰り返した。


「私を殺せばいい。そうだろ? 違うか?」


 分かっている。もう使うしかない。それに、そもそも使うために練習してきたんだ。コントロールならできる――。


「ダメか……」


 そのとき、人差し指から火の子が発射された。


 螺旋を描き回転するそれは、形を鋭く形成し進んでいく。


「――見事な能力だ」


 硬直する無砂利場さんの目前、空中で停止する火の粉を見つめ、阿草さんは称賛を漏らした。モーターのような摩擦音が、夜の街中に響いている。

 目視で見える火の子を指先で掴むように想像し、俺は右手を伸ばす。腕を振り払い、火の粉を阿草さんの顔面目掛けて飛ばした。直前でかわされ、火の粉は岩石の能力者の胸部で散った。

 俺にはもう止まるつもりがなかった。無砂利場さんにも、誠にも、ついでに平さんや他数名の同級生も見られたんだ。見られた可能性があるんだ。とにかく無砂利場さんに見られてしまったことが重要で、それはもう変えられない。

 思う壺だと気づいたときには遅かった。脳裏に過ったのは、俺は前々から常に見られていたのだということだ。川村さんは「君はわかりやすい」と言った。阿草さんに分からないはずがない。強引な考えではあるが、この出来過ぎた状況が不自然だった。阿草さんはわざと、無砂利場さんを襲ったんだと、そう思わずにはいられなかった。

 俺は両手を突き出し手の平を上に向け、勢いよく上に払った。頭の中の想像を念動力という現象に変換する、もっとも効率のいい方法は「動き」だ。体を動かし表せばいい。じっとした状態での発動もできなくはないが、より集中力を必要とする。

 阿草さんと岩石の男――二人は上空に打ち上がった。阿草さんの方は足の裏から火を噴いて、ジェット機のように飛んで俺を念を逃れた。

 せめてもう一方のこいつだけでもどうにかしないと不味い。そう思い、岩石の男を四条河原町のある東の方角に向けて、出せ得るすべての念動力で放り投げた。男は風を切りながら加速して闇夜の向こうへと消えた。風圧を受けて、一部のビルの窓ガラスが大通りに割れ落ちた。

 上空で停滞する阿草さん。「すばらしいな君は!」笑い声を上げた。大量の火を足裏から放射し、「着いてきたまえ」と四条河原町方面へ飛んだ。俺は自分の全身に念動力を使い、上空へ浮かび上がった。


「ミチカ!」


 真下に誠の姿があった。


「……無砂利場さんを」


 俺は東へ飛んだ。


 燃え上がるその後ろ姿は、すぐに見つけることができた。ビルの明かりで彩られた夜の河原町上空に、その姿は余分なものとして見ることができ、見つけやすかった。

 台風の時期は風が強く、窓はガタガタと揺れて外の風音は生き物のように感じる。

 暴風域にあるような強い風音が耳元を覆う。途切れることのない地鳴りのようだ。これほど高速で飛んだことがなく、慣らしながら追いかけるしかない。体の曲線に沿って表面を抜ける風が、首から下の衣服をバタバタと揺らしている。俺は鳥だ。鴉だ、燕だ、鷹だ……。翼を持つ生物の名前を列挙し、すると漠然と「何にでもなれる」と思えてくる。夢の中で車を運転するような危機感が、現実的に、より直接的に感覚的に差し迫ってくる。徐々に恐怖心が薄れ、感覚が麻痺してきた瞬間から快感となり、主観と客観の狭間で、この人間離れした「羽ばたく」という耽美に陶酔していく。

 左右を高いビル群に囲まれた、四条通り上空を移動した。高島屋が右手に見えてくると河原町通りを左折した。交差点や道路、アーケードの下で能力者たちが通行人を襲っている。念動力の球を無数に放ちながら北上し、三条通りで右折して東へ直進する。鴨川が見えてきた。

 阿草さんは三条大橋の上空で停滞していた。橋は東西からの車と人混みで渋滞している。ひっくり返った車両の上で誰かが猛将を気取っている、能力者を煽っているのだと分かった。路地や道路、河川敷で祭りの参加者たちが逃げ回っていて、能力者が人を襲っている。中には包丁一本持った通り魔のような、能力者かどうか分からない者の姿もあった。


「やめさせてください」


「……わからないか? 出町柳の火災ですら、別に私は何もしていないのだ。彼らは自発的にここにいるのだよ。それに有象無象は必要ない、私が欲しいのはSERIESだけだ。笹部や、君のような」


「笹部?」


「岩の男のことだ。四条通りを転がる巨大な球を見なかったか?」


 四条通りの鉄臭さと生臭さを思い出した。


「ここ半年ほど、君のことを色々と調べさせてもらった。すると五年前、とある中学で起きた児童殺傷事件に辿り着いた」


「……」動悸がした。


「この事件では児童が一人亡くなっている。殺したのは……当時十二歳だった霜月くん、君だ」


「違う!」


「そうだ、違う……」


 阿草さんは「そうだ、その通りだ」と肯定した。間をおいて、「君を見ようとしたのは能力に興味を持ったからだ。妙に暗い目をする高校生だと思った。学生なんて夢と希望しかないじゃないか、そうだろ? なのに、たまーに、君のような者がいる。でも調べてみて納得したよ……君は殺人者だ、と言っても君は違うとしか言わないし、思わないだろうがな」


「……俺は殺してません。あれは事故で」


「そうだ、事故だ。それははっきりしている、私もそれは分かっている。だがそう思わない者たちが、君の周りに大勢いたんだ」


「……俺は」


「世の中は理不尽だ、霜月くん、理不尽の巣窟だ。だがときにそれが合理的にも思えてしまう。私が中学生や高校生の頃にも、素行の悪い生徒というのはいたんだ。だがそういう生徒に限って教師の過保護を受け、贔屓され優遇された。普段、物静かに日常を送る普通な生徒ほど、何か悪さをしたときはきつく怒られた。周囲の男子や女子の中には、煙たがって睨む者もいた。そんな視線も不良連中に対してはあまり向けられなかった。それに気づいたときの違和感は今でも覚えている。だが世の中そんなものだ。今なら分かる。私が教師でも同じことをしたろう。彼らには素行が悪いなりの理由があったのだ、家庭環境があまりよくなかった。だが私に言わせれば、それは周囲の他の多くの生徒には関係のないことだ。普段周りに危害しか加えない、暴力的な他人の事情など知ったことではない。これは当然の感情だ。だがどれだけ関係がない、関係がないと連呼しようと、彼らがいたばかりに、私はそのときの理不尽さを今でも覚えている。学生という、もっとも重要な成長過程において起きた出来事の一つだ、私の人格形成になんらかの影響を及ぼした。くだらない連中と同じ空間に閉じ込められ、結果、私や君のような者は確実に影響を受けた。だが人生とは何度も言うがそうなんだ。理不尽を含めた微細な出来事の集合体なのだ。運がよければ望む未来も手に入り、しかしそういった、変えようがなかった、理不尽な出来事というものが、ひっそりと誰かの中で人知れず偏り、それが何等かの形で意味を持ってしまった瞬間、その些細な経験を経験たらしめてしまった瞬間、人殺しにだってなり得る。これは容易になり得るんだ」


「……話がよくわかりません。でも、俺は殺してない。それだけは確かです」


「君の場合はなんというか、思うに、幼少教育における強烈な失敗の典型例、理不尽の典型例じゃないかと思うんだ。間違いを消しゴムで消すと、文字は消えるがカスが出る。そのカスを多くの生徒は机の下に掃き捨てる。床に落ちて以降は見えなくなってしまう。年季の入った床の上の些細な異物など、見つけても誰も気に掛けない。生徒が掃除をさぼったところで、さほど溜まりもしない。それで、たとえば生徒の誰かが風邪をこじらせたとしよう、一体誰が、自分たちが掃き捨ててきた消しカスのことなど思い出すだろうか。しかし掃き捨てず、一人一人が清潔に心がけていれば、少なからず教室は清潔に保たれ、風邪をこじらせた生徒が肺を痛めることもなかったかもしれない。私はねえ、別に偽善を言いたい訳じゃないんだ。被害妄想も甚だしい大袈裟な、大袈裟な作り話さ。ただ君のそれは、明らかに他者の影響による結果だと言っているんだ」


 阿草さんは俺の目を真っすぐに見た。


「事件のあと、誰かに後ろ指を差されたりしたかい?」


 動悸が増し、頭が真っ白になった。「知らない……」


「覚えてないか? そんなはずはないだろう。君の瞳はちゃんと、何等かの影響を受け濁っている。忘れたフリでもしたか? 日本人は忘れたフリをして本当に忘れることのできる稀な種族だ。だが本当の意味で忘れることなどできはしないはずだ。私はそう信じている。それは君の場合、何度も言うが目を見ればわかる。君は明らかに偏り始めている。つまり、君の中で何かが意味を持ち始めているということだ、何かが……」


「……何もない。ありませんよ、俺は……俺は普通だ」


「あれを見てみろ」


 阿草さんは路傍の隅で女性を刺し殺している、ある人影を指さした。


「あれは暴力ではない、闘争だ」


「闘争?」


「暴力とは自と他を無理やりに関係づける、ただ唯一の方法だと文豪は言った。つまりキチガイでもなければ、あの人陰は女性の主体を認めているということだ。主体性ある他者と認めて行われたそれは暴力ではない、そこには闘争の論理が働いている」


 阿草さんは巨大な火の玉を作り出し、その通り魔の人影に放り投げた。地上の路傍に火は広がり、人影は痛々しく絶叫し、悲鳴を上げ消失した。


「これが暴力だ」


 まるで物のように……。俺は睨みつけた。


「君も早く人を殺すことだ。いるんだろう? 憎くて憎くて仕方がない、君の今の人生の、苦渋の根源とでも言うべき、何か、何か煩わしくて仕方がないものを自分に気まぐれに与えた、殺したいほどに憎い人間の一人や二人……いるだろう?」


「……いくら憎くたって」


「ん?」


「いくら憎くたって、普通、そんな簡単に殺せやしませんよ。みんな家族がいるし、友達がいるし、今の人生がある……過去に何かされたからって、恨んだって殺せない」


「ではあの通り魔はどう説明する?」


「頭のおかしい人だったんですよ。。たまたま路上を歩いていただけの、何の面識もない……」


「つまり面識がないほど殺しやすいということだ」


「は?」


「ん、違うか? 女子供ならなおよし」


「……違います」


「違わないさ。君は弱いな。戦わなければ絶対に負けるぞ。憎いほどに感情移入してしまったのだろう? だが何の面識もない場合、感情移入する必要がなく後腐れがない、だから殺しやすい。憎むのは相手の主体を認めているからだ。だがそれでいい、君はそうあるべきだ。その上で殺すべきだ。それが革命だ。現状を変えなければ望みは得られない、そのままでは君が守りたい、その何一つ守れないぞ?」


「あなたの仲間にはなりません、俺が言いたいのはそれだけです」


「ではまた後ろ指を差されることになるだろうな。今度は刺さるぞ? アイデンティティの崩壊を経て人は大人になっていく。丁度、君くらいの歳に起こるんだ。きっと次は痛い、現実が見えるからな。歳を重ねれば重ねるほど、向けられる後ろ指は鋭利差を増し、凶器として君の心を抉る。大量殺人鬼には危うさがある。しかし、人生においてただ一人の殺人しか行っていない、比較的惰弱な君の方が、周囲を圧倒的に不安にさせるのだ。またしでかすのではないかという不安を感じ、周囲は君に強烈な嫌悪感を抱いたのだ。大量殺人鬼が人を殺すのは当たり前だ、言うまでもない、大量殺人鬼なのだから何らの不思議はない。今後、君の瞳はますます濁る」


 襲い掛かる火の玉を鴨川に弾き落とした。阿草さんは「親切だな、君は」と言って笑った。脱力した表情で笑っていた。それからは一方的な攻撃が続いた。試されているようでもある。俺は念動力を駆使し、膜を張って耐えた。戦闘の合間、ときどき阿草さんの動きがスローモーションになることがあった。


「不思議な力だ、君の周りでは少々時間の遅延が起こる」


「もうやめましょう」


「やめましょうではない、やめさせるのだ。他でもない君が」


 念動力で首を掴むと、阿草さんの動きは止まった。「君の能力はけた違いだ」と阿草さんは言った。


「鴨川等間隔の法則を知っているか、物理的な距離間でもって人は安心する。闘争においてもそうだ。常に相手との間に必要な距離をつくる、物理的に。だが君を相手にする場合、いくら距離を作ろうとも意味がない。君の影響力には間隔がない。即座に差し迫り誰も反応できない、見えない。おまけに空間は歪む。人は生きているだけで常に他者の影響を受ける、自らも他者へ何等かの影響を与えている。この影響が理不尽を生むのだ。中には君を見るとき、とんでもなく悍ましい眼をする者がいるのだろう? 狂気じみたあの視線だ」


「……終わりにしてください」


「終わらないよ。君のそれは終わらない。手違いにしろ何にしろ、君はもう誰かの中では殺人者だ。そいつらの、君を見るときの眼は異常そのものだ。キチガイさ。しかし君がそんなミスをしていなければ、その誰かがそんな眼をするような人間に成長することはなかったかもしれない。影響には反動がある。君による影響で誰かは病魔に代わり、病魔は君に影響を与える。だが人にも病魔にも理性はあるはずだ。その理性でもって悪影響を違った方向に逃がせたかもしれない。しかし閉鎖的社会空間では、その理性がまさに狂う。君のその濁りはある意味では必然だ」


「今の俺は能力のコントロールに長けています。あなたの全身を覆って、一切の火が出せないようにすることくらい簡単だ。こんな高い位置で能力を使えなくなったらどうなるか、分かりますよね?」


「……試してみればいいさ。私の体が地面に接触するその瞬間まで、君の精神が耐えられるかどうか、試してみよう」


「……」


「さあ、早くやってくれ」首根っこを掴まれたような状態で、「それで君の完成だ。でなければ私は君の大切なものを今度こそ殺すぞ?」


「わかりません。なんのためにこんなことを……」


 悪人というものはそれなりに知っているつもりだ。本当の狂人も中にはいるだろう、これに関してはわからない。ただ正義の暴走みたいに、自分だけの都合や理屈で、明らかに間違った行為も正当化して、他人を傷つけるような悪なら知ってる。それは何度も見てきた。

 阿草さんは違う気がする。この人には勘違いというものがない。間違った行動であることも理解した上でやっているような……わからないが、そう思えてくる。


「社会的権力を大量の人々が手にした社会は救済不可能だ。畜群末人奴隷と言ってね、もはやこの国は合法的手段では救えない。でも災害でも戦争でもそうだが、どれだけ悲惨なことが起きようとも、世界は終わらずに続いていく。だからそれは突然にではなく、ゆるやかに訪れて、気付いたら目の前に広がっているのだろうと思う。今以上に神髄の影も形も失われた、痕跡すら見当たらない、無機質と憎悪にまみれた社会が訪れる。だけど人間は幸いにも死ぬことができるから、私は別にそんな世界は見なくて済む」


 それからしばらくは睨み合った。自分で決めろ――以降に、阿草さんはが何か話すことはなかった。まるですべてを伝え終えたようだった。

 念動力を放ち体の表面に薄く膜を張って、火の能力が外部に漏れないようにした。落下速度に合わせて膜も落下させ、阿草さんが浮遊の影響を受けないようにコントロールする。背中から落ちていく体は風圧の影響で一、二回転し、煽られながら浅い鴨川へ落ちた。水しぶきがそれほど高くもなく上がった。月明かりや京都の灯りがゆらめく、夜の川に姿は見えなくなった。

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