【孤独な数列と、部屋に残されたひとつの点】
1
古いアパートの一室で、数学講師の田代が死んでいるのを見つけたのは、
僕が訪ねた日の夕方だった。
鍵は内側から施錠され、窓も締まっている。
部屋は完全な密室だった。
異常がひとつだけあった。
机の上に置かれたルーズリーフの片隅に、
たった“ひとつの点”が鉛筆で強く打たれていた。
文章も数式も何もない。ただ一点だけ。
まるで「ここを読め」と言わんばかりに。
「点……か。これはメッセージや」
そう呟いたのは、僕が呼んだ友人・神代だった。
工学部出身で、物事を“コード”として読む癖がある。
「田代の授業プリント、全部見せてみ」
僕は机の脇から数十枚のプリントを拾い上げた。
どれも数学の補講の資料だ。
神代はざっと目を通し、すぐに言った。
「これ、ほんまは“数式”に見せかけた暗号やで」
僕は目を瞬いた。
「え、見せかけ?」
「点はな、“インデックス(参照位置)指定”や。
この点が、どのページのどの行を読めと言うてるかが
この事件の核やろ」
2
ルーズリーフの点は、丁度“右上”にあった。
神代は田代のプリントを床に広げ、
右上に何か共通点がないかを調べ始めた。
そして数分で勝手に納得したように頷く。
「やっぱりな。田代らしいわ」
「わかったの?」
「このプリント、全部“点対称”になっとるやろ」
そう言われて初めて気づいた。
連立方程式の例題、
三角比の図形、
積分計算のグラフ──
全部のレイアウトが、
表の“右上”に問題番号が寄せられていた。
「つまり、この点は“その右上を読め”ってこと?」
「せや。
そして重要なんは、
その右上に“ひとつだけ違うもの”が存在してたページや」
神代は1枚のプリントを取り上げた。
表題は **『数列(6)』**。
右上には、他と違って **黒塗りの四角** があった。
神代が指でなぞる。
「田代のメッセージはこれや。
“ここを読め” と。
つまり、犯人は“数列6”の授業に出てたやつや」
僕は息を呑む。
確かにその補講を受けていたのは、
田代の研究室の学生たち4名に限られている。
その中に、田代と揉めていた学生がひとりいると聞いていた。
神代はさらに続けた。
「でも、犯人はもっと絞れるで」
ルーズリーフの“点”の場所をもう一度見る。
右上より、もっと右端に寄っている。
神代はプリントの右端を確認し、
すぐに低くつぶやいた。
「……犯人は“右利きじゃない”やつや」
「なんで?」
「右利きのやつが強く点を打ったら、
力点は斜め左下に流れるからな。
でもその点は“真横方向”から打たれとる。
左利きか、あるいは癖のある筆圧や」
その特徴に当てはまる学生は、
ただひとり──佐伯だった。
3
佐伯を研究室で問い詰めると、
彼は最初こそ否定したが、
神代の説明を聞くうちに膝から崩れ落ちた。
「……バレるわけ、ないと思ったんです。
あのルーズリーフ、僕らはみんな“ただの授業プリント”だと思ってた」
「田代は気づいてたんや。
お前が盗んだ研究データをな」
田代は、数列の“点対称”を利用して
メッセージを忍ばせた。
・右上の“黒四角”で授業を特定
・“点”の位置で犯人の利き手を特定
・密室は、犯人が“鍵を回してから窓の外へ戻った”
という単純なトリック
すべては、
この「ただのルーズリーフの一点」に集約されていた。
佐伯は泣きながら言った。
「先生は……最後まで、僕を信じてくれようとしてたんですか?」
神代は答えなかった。
ただ、ルーズリーフの一点を指差して言った。
「田代は、“点”しか残さへんかったんや。
お前の名前も、動機も、恨みも書かんかった。
そんなん全部どうでもええ。
“事実だけ残す”ってのが、あの人の美学や」
僕は静かにルーズリーフを閉じた。
一点が残り、
世界がそこから逆算される。
数学者らしい、
あまりに静かな遺言だった。
【完】




