第9話
それからというもの。
『月待ち食堂』のカウンターの一席は、事実上、宮廷筆頭魔術師の研究室と化していた。
「……ぶつぶつ。この魔法式の構成要素を再構築し、熱伝導率を……」
開店と同時にやってきたルーカス様は、カウンターに羊皮紙や魔道書を広げ、ブツブツと何かを呟いている。
普通なら「営業妨害です」と追い出すところだが、彼は極めて行儀が良い。
資料を広げるのは端の席だけだし、何より――。
「店主。追加の『燃料』を頼む」
「はいはい、熱燗とおでんの残りですね」
彼は驚くべきペースで注文をしてくれる、超優良顧客なのだ。
今日のお通しは、昨日のおでん作りで大量に出た『大根の皮』を使った料理だ。
普通なら捨ててしまう部分だが、公爵家育ちでも「もったいない精神」を持つ私には、立派な食材に見える。
フライパンにごま油を引き、千切りにした大根の皮を投入。
強火で一気に炒める。
――ジャアアアッ!
ごま油の香ばしい匂いが、魔術師の鼻を直撃した。
羊皮紙に向けていた彼の目が、スッとフライパンの方へ動く。
「……ほう。廃棄部位を再利用するつもりか? 錬金術の『等価交換』の原則に反するようだが」
「皮には栄養があるんです。それに、中心部とは違う食感が楽しめるんですよ」
砂糖、醤油、そして鷹の爪を少々。
水分を飛ばすように炒め煮にし、最後に白ごまを振る。
『大根の皮のきんぴら』の完成だ。
小鉢に入れて出すと、ルーカス様は眼鏡を光らせてそれを検分した。
「見た目は茶色い繊維の塊だが……」
彼は箸で一つまみし、口へ運んだ。
――ポリポリ、カリッ。
小気味よい音が響く。
柔らかく煮込まれたおでんの大根とは対照的な、しっかりとした歯ごたえ。
「……面白い」
彼は咀嚼しながら、ニヤリと口角を上げた。
「噛むたびに、ごま油の風味と甘辛い味が染み出してくる。この硬さが、思考に行き詰まった脳への適度な刺激になるな。……酒が進む」
彼は熱燗をクイッと煽った。
辛口の日本酒が、油っぽくなった口の中を洗い流していく。
無限ループの完成だ。
「しかし、ルーカス様。王宮の厨房にも優秀な料理人がいるでしょうに、どうして毎日ここへ?」
私が尋ねると、彼はスッと表情を曇らせ、忌々しげに吐き捨てた。
「……今の王宮の食事は、地獄だ」
「地獄?」
「ああ。あの『聖女』リナ・バーンズとかいう女が、厨房に口出しを始めたのだ」
私は手を止めた。
リナさん。私から婚約者を奪った、あの可愛らしい男爵令嬢だ。
「彼女は『皆の健康のために』と言って、料理から塩と油を奪った。代わりに『聖なるハーブ』だの『浄化の水』だのを大量投入させている」
「うわぁ……」
「肉はパサパサ、スープは青臭い草の味。おまけに『愛情を込めました☆』という謎の魔法効果のせいで、食べると無駄にテンションが上がって疲れる。……あんなものは餌だ」
ルーカス様は心底うんざりした様子で、きんぴらをもう一口食べた。
「王太子殿下も、最近は顔色が悪い。『愛の力』で無理やり食べているようだが、胃袋は正直なようだ」
「あらあら。それはお気の毒に」
私は棒読みで答えつつ、内心でガッツポーズをした。
ざまぁみろ、とは言わないけれど、私の塩むすびを馬鹿にした報いだ。
「だから、私はここに『避難』してきているのだ。……ここはいい。論理的で、無駄がなく、何より――」
彼は少し酔いが回ったのか、とろんとした目で私を見た。
「貴様の料理には、押し付けがましい『愛』がない。あるのは食材への敬意と、食べる者への配慮だけだ。それが心地よい」
それは、料理人として最高の褒め言葉だった。
私は照れ隠しに、彼のお猪口にお酒を注ぎ足した。
「研究熱心なのはいいですが、飲み過ぎないでくださいね」
「ふん、私の解毒魔法を甘く見るな……ヒック」
ルーカス様はその後も、閉店時間まで粘り続け、「おでんの残り汁を使った雑炊」まで完食して帰っていった。
◇ ◇ ◇
店を閉め、静かになった厨房で、私はふと考えた。
騎士団長ライオネル。
筆頭魔術師ルーカス。
国の重要人物二人が、このボロい食堂の常連になってしまった。
そして、ルーカス様の話が本当なら。
王宮の食卓は崩壊寸前。王太子ジュリアン様の胃袋も限界に近い。
「……まさか、ね」
私は洗った皿を拭きながら、首を振った。
いくらなんでも、王太子がこんな路地裏の店に来るはずがない。
彼には「愛しの聖女様」の手料理があるのだから。
けれど。
人は空腹の時、普段ではありえない行動をとる生き物だ。
そして「匂い」は、どこまでも残酷に、飢えた獣たちを引き寄せる。
翌日。
私の予感は、最悪の形で的中することになる。
開店準備をしていた昼下がり。
店の前に、忍ぶ気ゼロの豪華な馬車が横付けされたのだ。
降りてきたのは、やつれ果てて頬がこけた、かつての私の婚約者だった。




