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【第3章開始!】断罪令嬢の飯テロ食堂  作者: 九葉
第1章

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第7話

 嵐のような騎士団一行が去り、店内に再び静寂が戻った。

 私は大量の皿を洗い終え、ふぅと息をついた。


「さて、最後に『あれ』の火加減を見ておかないと」


 私は厨房の奥、とろ火にかけ続けている大きな寸胴鍋の前に立った。

 蓋を少しずらすと、白い湯気と共に、ふわりと甘辛い香りが立ち上る。

 鍋の中には、透き通った琥珀色のつゆ。

 その中で、大根、こんにゃく、ゆで卵、さつま揚げといった面々が、気持ちよさそうに浸かっている。


 ――おでん。

 冬の夜の決定版。

 昨日の豚汁で使った大根の残りと、市場で見つけた練り物、そして鶏の出汁を合わせて仕込んでおいたのだ。一度冷まして味を染み込ませ、今まさに温め直したところである。


「うん、いい色。大根も飴色になってる」


 これぞ私の晩酌用……と思った、その時だった。


 チリン、とドアベルが鳴った。

 ノックもなしに、音もなく扉が開く。


「……まだ営業中かな?」


 入ってきたのは、紫色のローブを纏った長身の男だった。

 銀色の長い髪を後ろで束ね、鼻にはインテリジェンスな眼鏡をかけている。

 整った顔立ちだが、その瞳は爬虫類のように冷たく、感情が読めない。


 私は彼を知っていた。

 宮廷筆頭魔術師、ルーカス・ヴァイデル。

 「王宮の知能犯」と呼ばれ、私の元婚約者である王太子ですら、彼の前では直立不動になるという食わせ者だ。


(うわぁ、一番面倒なのが来た……)


 私は内心で顔をしかめつつ、営業スマイルを浮かべた。


「いらっしゃいませ。お食事ですか?」

「食事? ……ふん、白々しい」


 ルーカス様は冷笑を浮かべ、カウンター席に座ることなく、店の中央で杖を突いた。


「単刀直入に言おう。私は『調査』に来た」

「調査、ですか?」

「そうだ。ここ数日、この路地裏から異質な魔力の波長……いや、人を惑わす『誘惑の香り』が観測されている。さらに、あの堅物の騎士団長までもが骨抜きにされたと聞いた」


 彼は眼鏡の奥で目を光らせ、私を睨みつける。


「貴様、元公爵令嬢シェリルだな? 魅了チャームの魔法か、あるいは違法な薬物でも使っているのか? 騎士たちを操り、国家転覆でも企んでいるのでは?」


「……はぁ」


 私は呆れてため息をついた。

 考えすぎである。国家転覆する暇があったら、美味しいご飯を食べて寝たい。


「違います。ここはただの定食屋です」

「定食屋だと? ならば、その鍋の中身は何だ」


 彼は杖の先で、厨房の奥の寸胴鍋を指した。


「先ほどから漂う、この奇妙な香り……。複数の植物と、動物の死骸を煮込んだような……まるで魔女の秘薬の匂いだ」


 動物の死骸って、鰹節と煮干しのことだろうか。

 おでんの出汁の香りを「魔女の秘薬」と表現するその感性、逆にすごい。


「これは『おでん』です。煮込み料理ですよ」

「オデン……? 聞いたことのない呪文だ。やはり怪しい」


 ルーカス様はツカツカとカウンターに歩み寄り、身を乗り出した。


「証拠品として押収する前に、私が『毒見』をしてやろう。その黒い液体が、人の精神を蝕む薬かどうか、分析してやる」


 要するに、食べてみたいだけなのでは?

 私は苦笑しつつ、おでんを深皿によそうことにした。


「毒なんて入っていませんよ。どうぞ」


 私は大根、卵、こんにゃく、ちくわを盛り付け、たっぷりとつゆを張った。

 そして、皿の縁に黄色い『和辛子』をちょこんと添える。


 ドサッ、と目の前に置かれた湯気の立つ皿。

 ルーカス様は、それを実験動物を見るような目で見つめた。


「……ほう。茶色い液体に、正体不明の物体が浮いている。グロテスクだな」


 失礼な。これが一番美味しいのに。


「まずは液体スープの成分分析からだ」


 彼はスプーンを手に取り、琥珀色のつゆをすくった。

 液体がキラキラと照明を反射する。

 彼は匂いを嗅ぎ、少し眉をひそめ、そして恐る恐る口に含んだ。


 ズズッ……。


 静かな店内に、汁をすする音が響く。

 その瞬間、ルーカス様の動きがピタリと止まった。


「…………ッ!?」


 眼鏡が曇る。

 彼は目を見開き、口に含んだ液体を飲み込むのを忘れたかのように、じっと固まっている。


「……なんだ、これは」


 長い沈黙の後、彼が震える声で呟いた。


「甘い……いや、塩辛い? 違う、もっと奥底にある、この舌に絡みつくような『深み』はなんだ?」


「それは『出汁だし』です」

「ダシ……? 未知の魔法言語か?」


 彼は混乱しているようだ。

 この世界には、素材を煮込んでスープにする文化はあるが、「昆布と鰹節の合わせ出汁」という概念はない。

 昆布のグルタミン酸と、鰹節のイノシン酸。

 この二つが出会うことで生まれる『旨味の相乗効果』は、魔法にも匹敵する破壊力を持つ。


「ただの塩水や肉汁ではない……。海藻の恵みと、魚の魂が、複雑怪奇に絡み合っている。口に入れた瞬間は優しく、喉を通ると力強い余韻を残す。これは……」


 彼はスプーンを動かす手を止められなくなっていた。

 一口、また一口。

 分析すると言いながら、その目はすでに「研究者」のものではなく、「美食家」の色を帯び始めている。


「この茶色い液体……危険だ。精神への干渉力が高すぎる。飲むだけで、張り詰めた思考が強制的に弛緩させられていく……!」


「それは単に『ほっこりしてる』だけですよ」


「うるさい! ……おい、この黄色いペーストはなんだ? これも薬か?」


 彼は皿の縁の辛子を指した。


「それは薬味です。少しだけつけて食べると、味が引き締まりますよ」

「ふん、味変というやつか。試してやろう」


 彼はスプーンの先で辛子を溶き、つゆと一緒に口に運んだ。


 ――ビクッ!!


 ルーカス様の肩が跳ねた。


「かはっ……! つぅぅぅ……!」


 鼻を押さえ、涙目になっている。

 だが、その顔は苦痛ではなく、どこか快感に満ちていた。


「鼻腔を突き抜ける鮮烈な刺激……! それが去った後に、出汁の甘みがより一層際立って感じられる……! 計算され尽くしている……これが、悪役令嬢の調合術か……!」


 完全に誤解されているが、訂正するのも面倒だ。

 彼はつゆを半分ほど飲み干すと、ギラリと光る目で具材たちを睨みつけた。


「液体だけでこの威力だ。ならば、この茶色く染まった固形物たちは、どれほどの魔力を秘めているというのだ……」


 彼のスプーンが、最も味が染みていそうな『大根』へと伸びる。

 さあ、魔術師様。

 出汁の魔法をたっぷり吸い込んだ爆弾の味を、とくとご覧あれ。

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この魔術師の食レポもおもしろいですね
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