第7話
嵐のような騎士団一行が去り、店内に再び静寂が戻った。
私は大量の皿を洗い終え、ふぅと息をついた。
「さて、最後に『あれ』の火加減を見ておかないと」
私は厨房の奥、とろ火にかけ続けている大きな寸胴鍋の前に立った。
蓋を少しずらすと、白い湯気と共に、ふわりと甘辛い香りが立ち上る。
鍋の中には、透き通った琥珀色のつゆ。
その中で、大根、こんにゃく、ゆで卵、さつま揚げといった面々が、気持ちよさそうに浸かっている。
――おでん。
冬の夜の決定版。
昨日の豚汁で使った大根の残りと、市場で見つけた練り物、そして鶏の出汁を合わせて仕込んでおいたのだ。一度冷まして味を染み込ませ、今まさに温め直したところである。
「うん、いい色。大根も飴色になってる」
これぞ私の晩酌用……と思った、その時だった。
チリン、とドアベルが鳴った。
ノックもなしに、音もなく扉が開く。
「……まだ営業中かな?」
入ってきたのは、紫色のローブを纏った長身の男だった。
銀色の長い髪を後ろで束ね、鼻にはインテリジェンスな眼鏡をかけている。
整った顔立ちだが、その瞳は爬虫類のように冷たく、感情が読めない。
私は彼を知っていた。
宮廷筆頭魔術師、ルーカス・ヴァイデル。
「王宮の知能犯」と呼ばれ、私の元婚約者である王太子ですら、彼の前では直立不動になるという食わせ者だ。
(うわぁ、一番面倒なのが来た……)
私は内心で顔をしかめつつ、営業スマイルを浮かべた。
「いらっしゃいませ。お食事ですか?」
「食事? ……ふん、白々しい」
ルーカス様は冷笑を浮かべ、カウンター席に座ることなく、店の中央で杖を突いた。
「単刀直入に言おう。私は『調査』に来た」
「調査、ですか?」
「そうだ。ここ数日、この路地裏から異質な魔力の波長……いや、人を惑わす『誘惑の香り』が観測されている。さらに、あの堅物の騎士団長までもが骨抜きにされたと聞いた」
彼は眼鏡の奥で目を光らせ、私を睨みつける。
「貴様、元公爵令嬢シェリルだな? 魅了の魔法か、あるいは違法な薬物でも使っているのか? 騎士たちを操り、国家転覆でも企んでいるのでは?」
「……はぁ」
私は呆れてため息をついた。
考えすぎである。国家転覆する暇があったら、美味しいご飯を食べて寝たい。
「違います。ここはただの定食屋です」
「定食屋だと? ならば、その鍋の中身は何だ」
彼は杖の先で、厨房の奥の寸胴鍋を指した。
「先ほどから漂う、この奇妙な香り……。複数の植物と、動物の死骸を煮込んだような……まるで魔女の秘薬の匂いだ」
動物の死骸って、鰹節と煮干しのことだろうか。
おでんの出汁の香りを「魔女の秘薬」と表現するその感性、逆にすごい。
「これは『おでん』です。煮込み料理ですよ」
「オデン……? 聞いたことのない呪文だ。やはり怪しい」
ルーカス様はツカツカとカウンターに歩み寄り、身を乗り出した。
「証拠品として押収する前に、私が『毒見』をしてやろう。その黒い液体が、人の精神を蝕む薬かどうか、分析してやる」
要するに、食べてみたいだけなのでは?
私は苦笑しつつ、おでんを深皿によそうことにした。
「毒なんて入っていませんよ。どうぞ」
私は大根、卵、こんにゃく、ちくわを盛り付け、たっぷりとつゆを張った。
そして、皿の縁に黄色い『和辛子』をちょこんと添える。
ドサッ、と目の前に置かれた湯気の立つ皿。
ルーカス様は、それを実験動物を見るような目で見つめた。
「……ほう。茶色い液体に、正体不明の物体が浮いている。グロテスクだな」
失礼な。これが一番美味しいのに。
「まずは液体の成分分析からだ」
彼はスプーンを手に取り、琥珀色のつゆをすくった。
液体がキラキラと照明を反射する。
彼は匂いを嗅ぎ、少し眉をひそめ、そして恐る恐る口に含んだ。
ズズッ……。
静かな店内に、汁をすする音が響く。
その瞬間、ルーカス様の動きがピタリと止まった。
「…………ッ!?」
眼鏡が曇る。
彼は目を見開き、口に含んだ液体を飲み込むのを忘れたかのように、じっと固まっている。
「……なんだ、これは」
長い沈黙の後、彼が震える声で呟いた。
「甘い……いや、塩辛い? 違う、もっと奥底にある、この舌に絡みつくような『深み』はなんだ?」
「それは『出汁』です」
「ダシ……? 未知の魔法言語か?」
彼は混乱しているようだ。
この世界には、素材を煮込んでスープにする文化はあるが、「昆布と鰹節の合わせ出汁」という概念はない。
昆布のグルタミン酸と、鰹節のイノシン酸。
この二つが出会うことで生まれる『旨味の相乗効果』は、魔法にも匹敵する破壊力を持つ。
「ただの塩水や肉汁ではない……。海藻の恵みと、魚の魂が、複雑怪奇に絡み合っている。口に入れた瞬間は優しく、喉を通ると力強い余韻を残す。これは……」
彼はスプーンを動かす手を止められなくなっていた。
一口、また一口。
分析すると言いながら、その目はすでに「研究者」のものではなく、「美食家」の色を帯び始めている。
「この茶色い液体……危険だ。精神への干渉力が高すぎる。飲むだけで、張り詰めた思考が強制的に弛緩させられていく……!」
「それは単に『ほっこりしてる』だけですよ」
「うるさい! ……おい、この黄色いペーストはなんだ? これも薬か?」
彼は皿の縁の辛子を指した。
「それは薬味です。少しだけつけて食べると、味が引き締まりますよ」
「ふん、味変というやつか。試してやろう」
彼はスプーンの先で辛子を溶き、つゆと一緒に口に運んだ。
――ビクッ!!
ルーカス様の肩が跳ねた。
「かはっ……! つぅぅぅ……!」
鼻を押さえ、涙目になっている。
だが、その顔は苦痛ではなく、どこか快感に満ちていた。
「鼻腔を突き抜ける鮮烈な刺激……! それが去った後に、出汁の甘みがより一層際立って感じられる……! 計算され尽くしている……これが、悪役令嬢の調合術か……!」
完全に誤解されているが、訂正するのも面倒だ。
彼はつゆを半分ほど飲み干すと、ギラリと光る目で具材たちを睨みつけた。
「液体だけでこの威力だ。ならば、この茶色く染まった固形物たちは、どれほどの魔力を秘めているというのだ……」
彼のスプーンが、最も味が染みていそうな『大根』へと伸びる。
さあ、魔術師様。
出汁の魔法をたっぷり吸い込んだ爆弾の味を、とくとご覧あれ。




