第13話
季節は巡り、春。
『月待ち食堂』の店先には、色とりどりの旗が風にたなびいていた。
ヤマト皇国から取り寄せた「鯉のぼり」だ。
青い空を泳ぐ魚たちの影が、石畳に落ちている。
今日は、息子レオンの「初節句」。
男の子の健やかな成長と、立身出世を願う祝いの日だ。
「……よし。油の温度、よし」
俺は厨房に立ち、鍋の中の油を睨みつけていた。
今日の俺は騎士団の鎧ではなく、白いエプロンを身につけている。
手には菜箸。
目の前には、下味に漬け込んだ大量の鶏肉。
本日のメインディッシュの一つ、『鶏の唐揚げ』。
これを作るのは、妻のシェリルではない。
俺だ。
「ライオネル様、調子はどうですか?」
隣で巨大な寿司桶を混ぜていたシェリルが、心配そうに顔を覗き込んでくる。
彼女が作っているのは、祝いの席に欠かせない『ちらし寿司』だ。
酢飯の甘酸っぱい香りが、厨房に満ちている。
「問題ない。……昨夜の最終調整で、味は決まったはずだ」
「ふふ。毎晩こっそり練習していた成果ですね」
「なっ、知っていたのか?」
「バレバレですよ。朝起きると、ニンニクと醤油のいい匂いが残っていましたから」
シェリルは悪戯っぽく笑った。
敵わん。
俺は咳払いをして、鶏肉に片栗粉をまぶした。
この半年、俺はシェリルから料理の基礎を叩き込まれてきた。
包丁の握り方、火加減、調味料の配合。
最初はキャベツの千切りすらまともにできなかったが、今ではどうにか形になるようになった。
特に、この唐揚げだけは譲れない。
俺とシェリルの出会いの味であり、俺が世界で一番好きな料理だからだ。
「行くぞ」
俺は粉を叩いた鶏肉を、油の中へ滑り込ませた。
ジュワァァァァ……ッ!
いい音だ。
細かい泡が立ち上り、香ばしい醤油の匂いが弾ける。
シェリルの唐揚げより、少しだけニンニクを多めにしてある。
ガツンとくる「男の味」。
レオンにも、いつかこの味を教えてやりたい。
二度揚げを経て、キツネ色に輝く唐揚げをバットに引き上げる。
カリッ、カラッ。
箸先に伝わる振動が、成功を告げている。
「お待たせしましたー! 開店です!」
表から、ギュスターヴ料理長の声が響いた。
ドアベルが鳴り響き、どっと人が流れ込んでくる気配がする。
「行きましょう、ライオネル様!」
「ああ。……出陣だ」
俺は大皿に山盛りの唐揚げを乗せ、ホールへと向かった。
◇ ◇ ◇
店内は、立錐の余地もないほどの人で溢れかえっていた。
「おめでとうございます、団長!」
「レオン君、大きくなったなー!」
非番の騎士たち、魔術師団の連中、近所の常連客。
そして、最前列の特等席には――。
「おお……レオン! じいじだぞ! こっちを向きなさい!」
満面の笑みで手招きしている、義父ガラルド公爵。
その隣には、すっかり「孫馬鹿」と化したマダム・ロッテンマイがいる。
「まあまあ、お行儀が良いこと。……ほらレオンちゃま、新しいお洋服ですよ」
二人の視線の先。
ベビーチェアに座らされているのは、主役のレオンだ。
生後八ヶ月。
ハイハイで家中を高速移動するようになり、最近はつかまり立ちも始めた。
今日は袴風の衣装を着せられ、キョトンとしている。
「あう! あぶー!」
レオンが俺の姿を見つけ、手を伸ばした。
その視線は、俺の顔ではなく、手元の唐揚げに釘付けだ。
「ははっ、目ざといな。……安心しろ、お前の分もあるぞ」
俺はテーブルに大皿を置いた。
どよめきが起こる。
「これが団長の唐揚げか!?」
「匂いがすげえ! シェリルさんのよりワイルドだ!」
客たちが次々と手を伸ばす。
ガリッ、サクッ。
咀嚼音と共に、「うめぇ!」「ビールだ、ビールを持ってこい!」と歓声が上がる。
「……合格点、か」
俺は安堵した。
シェリルが隣で、小さく拍手してくれている。
「レオンの分は、こちらですわ」
マダム・ロッテンマイが、小さな器を差し出した。
中には、細かく刻んだ唐揚げと、柔らかく煮た野菜、そしてお粥が入っている。
唐揚げは、衣を薄くして揚げ、油抜きをした特別製だ。
「私が監修し、ライオネル様が揚げた『初めてのお肉』です」
マダムがスプーンで運び、レオンの口へ。
レオンは大きな口を開けて待ち構えている。
パクッ。
モグモグ……。
レオンの動きが止まる。
そして。
「んマンマァァァッ!!」
テーブルをバンバン叩いて大喜びした。
肉の旨味。ニンニクの微かな香り。
初めて知る「力強い味」に、興奮しているようだ。
「食べた! 俺の唐揚げを食べたぞ!」
俺は思わずガッツポーズをした。
ドラゴンの首を落とした時より嬉しいかもしれない。
「ふん、悪くない味だ。……これなら公爵家の食卓に出しても恥ずかしくない」
義父ガラルドも、唐揚げを齧りながらニヤリと笑った。
彼の手元には、プレゼントの箱が置かれている。
「さあレオン、じいじからの贈り物だ。……開けてみろ」
箱から出てきたのは、銀色に輝く小さな物体。
ミスリル製の、赤ちゃん用兜だった。
しかも、獅子の彫刻入り。
「……親父殿。重くないですか、それ」
「何を言う! 軽量化の魔法がかかっている! これを被れば、転んでも頭は無傷だ!」
過保護にも程があるが、レオンはキラキラしたものが気に入ったのか、きゃっきゃと喜んで被っている。
まあ、似合っているから良しとしよう。
宴は続く。
シェリルの作った、宝石箱のような『ちらし寿司』。
酢飯の上に、マグロ、サーモン、いくら、卵焼きが散りばめられ、見た目も鮮やかだ。
リナが送ってくれた野菜を使った『煮しめ』もある。
皆が笑い、食べ、飲んでいる。
かつて孤独だった俺が、こんなにも多くの人と食卓を囲んでいる。
その中心に、愛する妻と子がいて。
「……幸せだな」
俺は呟いた。
シェリルが、俺の袖を引いた。
「ライオネル様。……見てください」
彼女が指差した先。
レオンが、椅子から降りようと身をよじっていた。
俺は慌てて支えようとしたが、シェリルが止めた。
「自分で降りたいみたいです。……見守りましょう」
レオンは床に降り立つと、近くにあった椅子の脚を掴んだ。
小さな手に力がこもる。
プルプルと足が震える。
お尻が上がり、背筋が伸びる。
そして。
「た、立った……!」
会場が静まり返る。
レオンが、自分の足でしっかりと地面を踏みしめ、立ち上がったのだ。
彼は誇らしげに顔を上げ、俺とシェリルを見た。
「あーう!(見たか!)」
わぁぁぁぁっ!
爆発的な拍手が巻き起こった。
「すげえ! 立ったぞ!」
「さすが団長の息子だ! 足腰が強い!」
「クララが……じゃなくてレオンが立った!」
俺は駆け寄り、レオンを高く抱き上げた。
「よくやった! すごいぞレオン!」
高い高い。
レオンはキャッキャと笑い、俺の頬をペチペチと叩く。
その小さな手の中に、無限の未来が詰まっている気がした。
窓の外。
空を見上げると、雲ひとつない青空に、七色の虹がかかっていた。
屋根の上で、聖獣シロが「みゃう(祝いだ)」と尻尾を振っているのが見えた。
◇ ◇ ◇
宴の後。
客たちが帰り、静けさを取り戻した店内で、俺たちは家族水入らずの夕食をとっていた。
残り物の唐揚げと、ちらし寿司。
冷めても美味い。
「……今日は、いい日でしたね」
シェリルが、眠ってしまったレオンを膝に乗せて微笑む。
「ああ。……俺の作った唐揚げ、みんな美味いと言ってくれた」
「ふふ。私の唐揚げより人気があったみたいで、少し悔しいです」
「まさか。お前の味には一生勝てんよ」
俺は唐揚げを一つ口に放り込み、噛み締めた。
ニンニクの風味が広がる。
これが、我が家の味だ。
「シェリル」
「はい」
「ありがとう。……俺を、父親にしてくれて」
俺は彼女の肩を抱いた。
彼女は俺の肩に頭を預け、幸せそうに目を閉じた。
「私こそ。……私たちを、守ってくれてありがとうございます」
レオンが寝言で「むにゃ……まんま……」と呟く。
俺たちは顔を見合わせて笑った。
剣を置くつもりはない。
だが、俺が守るべき戦場は、ここにある。
この温かい食卓と、笑顔を守るために、俺はこれからも戦い続けるだろう。
そして、たまにはエプロンをつけて、家族のために鍋を振るうのも悪くない。
俺たちの物語は、まだまだ続く。
レオンが大きくなり、いつかこの店を継ぐ日が来るかもしれない。
あるいは、俺のように剣の道へ進むかもしれない。
どちらにせよ、こいつの人生は、きっと美味しいもので満たされているはずだ。
俺は眠る息子の頬を指でつつき、誓った。
お前が腹一杯食べて、笑って暮らせる世界を、父さんが作ってやるからな。




