表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結!】断罪令嬢の飯テロ食堂  作者: 九葉(くずは)
第4章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

54/56

第12話

 カチャン。


 銀のスプーンが皿にぶつかる乾いた音が、静まり返ったリビングに響いた。

 私はその音を聞きながら、目の前の老婦人――マダム・ロッテンマイの表情を、逃さずに見つめていた。


 彼女の手から滑り落ちたスプーン。

 そして、時が止まったかのように硬直した背筋。

 先ほどまで氷のように冷たかった彼女の瞳が、今は信じられないものを見るように揺れている。


「……マダム?」


 私が声をかけると、彼女はハッとして我に返った。

 震える指先で、テーブルに落ちたスプーンを拾い上げる。

 その動作一つにも、いつもの洗練された優雅さがない。動揺が隠しきれていない。


「……何をしたのですか」


 彼女は掠れた声で問いかけた。


「塩は、使っていないと言いましたね。砂糖も、油も」

「ええ。一切使っていません」

「嘘をおっしゃい!」


 マダムが叫んだ。

 ステッキを握りしめる手に力がこもる。


「ならば、この味はなんなのですか! 口に含んだ瞬間に広がる、この豊かな香りは! 喉を通った後に残る、舌に絡みつくような深いコクは! ただ野菜を煮ただけで、これほど複雑な味が生まれるはずがありません!」


 彼女は混乱している。

 無理もない。

 彼女が知っている「煮込み料理」とは、食材をただ水で柔らかくなるまで加熱し、栄養素だけを抽出した「餌」のようなものだったはずだ。

 素材の味を引き出すための「引き算」と、旨味を重ねる「掛け算」の魔法を知らないのだから。


「イカサマではありません。……もう一口、食べてみてください」


 私は静かに促した。

 彼女は疑わしげに私を睨み、それから皿の中のリゾットに視線を落とした。

 黄金色の出汁を吸って、艶やかに輝くお米と野菜たち。

 抗いがたい香りが、彼女の鼻腔をくすぐっているはずだ。


 彼女は意を決したように、再びスプーンを動かした。

 今度はこぼさないように、慎重に口へ運ぶ。


 パクッ。


 咀嚼する。

 ゆっくりと、確かめるように。


「…………」


 マダムの眉間の皺が、少しずつほどけていく。

 強張っていた肩の力が抜け、閉じていた瞼が震える。


 美味しいものを食べた時、人は怒れない。

 脳が快楽物質で満たされ、警戒心が溶かされていく。

 その生理現象には、どんな鉄の女も抗えない。


「……甘い」


 彼女がポツリと漏らした。


「砂糖の甘さではない。……野菜、そのものの甘さですか」

「はい。リナさんが育てた野菜は、寒さに耐えて糖分を蓄えています。それを弱火でじっくり加熱することで、甘みを最大限に引き出しました」


 私は説明を加えた。


「そして、その甘みを支えているのが『出汁』です。昆布と鰹節。海の恵みが持つ力が、野菜の味を下から持ち上げているんです」


「出汁……。あの、黄金色の水ですか」


 マダムは三口目を運んだ。

 もう止まらない。

 スプーンを動かす速度が上がっていく。

 「毒見」のつもりが、いつの間にか「食事」になっている。


 隣で見ていたライオネル様が、ニヤリと笑って私に耳打ちした。


「……勝負ありだな」

「ええ。やっぱり、美味しいは最強です」


 完食。

 マダムは最後の一粒まで綺麗にすくい取り、皿を置いた。

 そして、懐からハンカチを取り出し、口元を拭った。

 その動作は、最初のような威圧的なものではなく、どこか恥じらうような、淑やかなものに戻っていた。


「……認めましょう」


 彼女は顔を上げ、私を真っ直ぐに見た。

 眼鏡の奥の瞳には、もう侮蔑の色はない。


「私が間違っていました。……これは、『餌』ではありません。立派な『料理』です」


「わかっていただけて嬉しいです」


「悔しいですが……私が作ったものとは、次元が違いました。同じ野菜、同じ鍋を使っても、これほどの差が出るとは」


 マダムは深いため息をついた。

 それは、長年信じてきた価値観が崩れ去ったことへの喪失感と、新しい発見への驚きが入り混じったものだった。


「私は……教育とは、厳しく律することだと信じてきました。欲を抑え、快楽を遠ざけることこそが、高貴な精神を育むと」


 彼女の視線が、ベビーチェアに座るレオンに向けられる。

 レオンは満腹になり、ご機嫌で足をバタつかせている。

 その顔は、幸福そのものだ。


「ですが、あの子の笑顔を見て……考えが揺らぎました。食べる喜びを知った子の瞳は、あんなにも輝くものなのですね」


 マダムはステッキを置き、レオンに近づいた。

 警戒するようにライオネル様が一歩前に出ようとするのを、私は手で制した。

 今の彼女に、敵意はない。


「レオン様」


 マダムが呼びかけると、レオンは「あうー」と返事をした。

 昨日あれほど泣き叫んで拒絶した相手に、今は無邪気な笑顔を向けている。

 美味しいご飯をくれた人(の仲間)だと認識したのかもしれない。


「……不束者ふつつかものの教育係で、申し訳ありませんでした」


 マダムは、赤ん坊相手に深々と頭を下げた。

 王宮の筆頭教育係が、プライドを捨てて謝罪したのだ。


「貴方様の舌は、私よりも正直で、そして正しかったようです」


 彼女は顔を上げ、私に向き直った。


「シェリル殿。……約束通り、食事の管理については貴女の方針に従います。いえ、むしろご教授願いたい」


「えっ?」


「この『出汁』という技術。そして、野菜の甘みを引き出す火加減。……王宮の次世代を育てるためにも、私が学ばねばなりません」


 マダムの目に、教育者としての情熱の炎が灯った。

 彼女はただの頑固者ではなかった。

 良いものは良いと認め、取り入れようとする柔軟さを持っていたのだ。

 だからこそ、長年王宮で重用されてきたのだろう。


「もちろんです、マダム。私の知っていることなら、いくらでもお教えします」

「感謝します。……では、早速ですが」


 彼女は懐から手帳を取り出し、ペンを構えた。


「先ほどの昆布の浸水時間と、鰹節を投入するタイミング。秒単位で教えていただけますか?」

「え、ええと……だいたいの感覚で……」

「感覚では困ります! 再現性がありません! すべて数値化し、マニュアルに落とし込みます!」


 ……あ、この性格は変わらないのね。

 私は苦笑しつつ、彼女の熱意に押され、レシピの詳細を語り始めた。


 その様子を、父・ガラルド公爵が感慨深げに眺めていた。


「あの『氷河』のようなマダムが、メモを取っている……。信じられん光景だ」

「ふん。シェリルの料理には、人の心を変える魔法がかかっているからな」


 ライオネル様が誇らしげに胸を張る。

 

 部屋の空気が、柔らかく解けていく。

 離乳食対決は、私の完全勝利で幕を閉じた。

 けれど、敗者はいない。

 レオンは美味しいご飯を手に入れ、マダムは新しい知識を手に入れた。

 そして私は、最強の理解者(になりそうな人)を手に入れた。


 その時。

 レオンが「まんま!」と叫び、テーブルに残っていた私の分のリゾットに手を伸ばした。

 

「ああっ、ダメよレオン! 食べすぎはお腹を壊すわ!」


 私が止めようとすると、マダムが素早く動いた。

 彼女はハンカチでレオンの手を優しく拭き、ニッコリと微笑んだ。


「まあまあ。育ち盛りなのですから、欲しがるだけあげましょう。……おばあちゃまが、食べさせてあげますよ〜」


「……はい?」


 今、なんと?

 おばあちゃま?

 あの厳格なマダムが、猫撫で声で?


「ほーら、レオンちゃん。あーん。……おいちいねぇ〜」


 マダムは完全にキャラ崩壊を起こしていた。

 レオンのプニプニの頬を指でつつき、デレデレの笑顔を向けている。

 どうやら、「孫(のような存在)を甘やかす喜び」にも目覚めてしまったらしい。


「……前言撤回だ」

 父が頭を抱えた。

「新たなライバルが誕生してしまったかもしれん。私の孫を独占する気か、あの婆……」


 父とマダムの間で、レオンを巡る新たな冷戦が勃発しそうな予感がする。

 まあ、不味いご飯を食べさせられるよりは、百倍マシだ。


 私はライオネル様と顔を見合わせ、肩をすくめた。

 とりあえず、一件落着。

 これでレオンの食卓は守られた。


 これからは、マダムの厳しいチェック(栄養管理)と、私の美味しい味付けが融合した、最強の離乳食が作れるだろう。

 レオン、幸せ者ね。


 私は窓の外を見た。

 夏の日差しが、店先の看板を照らしている。

 『月待ち食堂』。

 ここは、大人も子供も、そして頑固なお局様さえも笑顔にする場所。


 さて、明日のメニューは何にしようか。

 リナの野菜はまだたくさんある。

 レオンも食べられて、大人も満足できる料理。

 例えば――野菜たっぷりの『ポトフ』なんてどうだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
ポトフ良いですねー! 寒い日には、ポトフです!! 私は断然豚肉派。 と、ソーセージ。 つけるのは、マスタードorサワークリームが我が家ではデフォ。 最もサワークリームは私だけですけど(笑) サワー…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ