第12話
カチャン。
銀のスプーンが皿にぶつかる乾いた音が、静まり返ったリビングに響いた。
私はその音を聞きながら、目の前の老婦人――マダム・ロッテンマイの表情を、逃さずに見つめていた。
彼女の手から滑り落ちたスプーン。
そして、時が止まったかのように硬直した背筋。
先ほどまで氷のように冷たかった彼女の瞳が、今は信じられないものを見るように揺れている。
「……マダム?」
私が声をかけると、彼女はハッとして我に返った。
震える指先で、テーブルに落ちたスプーンを拾い上げる。
その動作一つにも、いつもの洗練された優雅さがない。動揺が隠しきれていない。
「……何をしたのですか」
彼女は掠れた声で問いかけた。
「塩は、使っていないと言いましたね。砂糖も、油も」
「ええ。一切使っていません」
「嘘をおっしゃい!」
マダムが叫んだ。
ステッキを握りしめる手に力がこもる。
「ならば、この味はなんなのですか! 口に含んだ瞬間に広がる、この豊かな香りは! 喉を通った後に残る、舌に絡みつくような深いコクは! ただ野菜を煮ただけで、これほど複雑な味が生まれるはずがありません!」
彼女は混乱している。
無理もない。
彼女が知っている「煮込み料理」とは、食材をただ水で柔らかくなるまで加熱し、栄養素だけを抽出した「餌」のようなものだったはずだ。
素材の味を引き出すための「引き算」と、旨味を重ねる「掛け算」の魔法を知らないのだから。
「イカサマではありません。……もう一口、食べてみてください」
私は静かに促した。
彼女は疑わしげに私を睨み、それから皿の中のリゾットに視線を落とした。
黄金色の出汁を吸って、艶やかに輝くお米と野菜たち。
抗いがたい香りが、彼女の鼻腔をくすぐっているはずだ。
彼女は意を決したように、再びスプーンを動かした。
今度はこぼさないように、慎重に口へ運ぶ。
パクッ。
咀嚼する。
ゆっくりと、確かめるように。
「…………」
マダムの眉間の皺が、少しずつほどけていく。
強張っていた肩の力が抜け、閉じていた瞼が震える。
美味しいものを食べた時、人は怒れない。
脳が快楽物質で満たされ、警戒心が溶かされていく。
その生理現象には、どんな鉄の女も抗えない。
「……甘い」
彼女がポツリと漏らした。
「砂糖の甘さではない。……野菜、そのものの甘さですか」
「はい。リナさんが育てた野菜は、寒さに耐えて糖分を蓄えています。それを弱火でじっくり加熱することで、甘みを最大限に引き出しました」
私は説明を加えた。
「そして、その甘みを支えているのが『出汁』です。昆布と鰹節。海の恵みが持つ力が、野菜の味を下から持ち上げているんです」
「出汁……。あの、黄金色の水ですか」
マダムは三口目を運んだ。
もう止まらない。
スプーンを動かす速度が上がっていく。
「毒見」のつもりが、いつの間にか「食事」になっている。
隣で見ていたライオネル様が、ニヤリと笑って私に耳打ちした。
「……勝負ありだな」
「ええ。やっぱり、美味しいは最強です」
完食。
マダムは最後の一粒まで綺麗にすくい取り、皿を置いた。
そして、懐からハンカチを取り出し、口元を拭った。
その動作は、最初のような威圧的なものではなく、どこか恥じらうような、淑やかなものに戻っていた。
「……認めましょう」
彼女は顔を上げ、私を真っ直ぐに見た。
眼鏡の奥の瞳には、もう侮蔑の色はない。
「私が間違っていました。……これは、『餌』ではありません。立派な『料理』です」
「わかっていただけて嬉しいです」
「悔しいですが……私が作ったものとは、次元が違いました。同じ野菜、同じ鍋を使っても、これほどの差が出るとは」
マダムは深いため息をついた。
それは、長年信じてきた価値観が崩れ去ったことへの喪失感と、新しい発見への驚きが入り混じったものだった。
「私は……教育とは、厳しく律することだと信じてきました。欲を抑え、快楽を遠ざけることこそが、高貴な精神を育むと」
彼女の視線が、ベビーチェアに座るレオンに向けられる。
レオンは満腹になり、ご機嫌で足をバタつかせている。
その顔は、幸福そのものだ。
「ですが、あの子の笑顔を見て……考えが揺らぎました。食べる喜びを知った子の瞳は、あんなにも輝くものなのですね」
マダムはステッキを置き、レオンに近づいた。
警戒するようにライオネル様が一歩前に出ようとするのを、私は手で制した。
今の彼女に、敵意はない。
「レオン様」
マダムが呼びかけると、レオンは「あうー」と返事をした。
昨日あれほど泣き叫んで拒絶した相手に、今は無邪気な笑顔を向けている。
美味しいご飯をくれた人(の仲間)だと認識したのかもしれない。
「……不束者の教育係で、申し訳ありませんでした」
マダムは、赤ん坊相手に深々と頭を下げた。
王宮の筆頭教育係が、プライドを捨てて謝罪したのだ。
「貴方様の舌は、私よりも正直で、そして正しかったようです」
彼女は顔を上げ、私に向き直った。
「シェリル殿。……約束通り、食事の管理については貴女の方針に従います。いえ、むしろご教授願いたい」
「えっ?」
「この『出汁』という技術。そして、野菜の甘みを引き出す火加減。……王宮の次世代を育てるためにも、私が学ばねばなりません」
マダムの目に、教育者としての情熱の炎が灯った。
彼女はただの頑固者ではなかった。
良いものは良いと認め、取り入れようとする柔軟さを持っていたのだ。
だからこそ、長年王宮で重用されてきたのだろう。
「もちろんです、マダム。私の知っていることなら、いくらでもお教えします」
「感謝します。……では、早速ですが」
彼女は懐から手帳を取り出し、ペンを構えた。
「先ほどの昆布の浸水時間と、鰹節を投入するタイミング。秒単位で教えていただけますか?」
「え、ええと……だいたいの感覚で……」
「感覚では困ります! 再現性がありません! すべて数値化し、マニュアルに落とし込みます!」
……あ、この性格は変わらないのね。
私は苦笑しつつ、彼女の熱意に押され、レシピの詳細を語り始めた。
その様子を、父・ガラルド公爵が感慨深げに眺めていた。
「あの『氷河』のようなマダムが、メモを取っている……。信じられん光景だ」
「ふん。シェリルの料理には、人の心を変える魔法がかかっているからな」
ライオネル様が誇らしげに胸を張る。
部屋の空気が、柔らかく解けていく。
離乳食対決は、私の完全勝利で幕を閉じた。
けれど、敗者はいない。
レオンは美味しいご飯を手に入れ、マダムは新しい知識を手に入れた。
そして私は、最強の理解者(になりそうな人)を手に入れた。
その時。
レオンが「まんま!」と叫び、テーブルに残っていた私の分のリゾットに手を伸ばした。
「ああっ、ダメよレオン! 食べすぎはお腹を壊すわ!」
私が止めようとすると、マダムが素早く動いた。
彼女はハンカチでレオンの手を優しく拭き、ニッコリと微笑んだ。
「まあまあ。育ち盛りなのですから、欲しがるだけあげましょう。……おばあちゃまが、食べさせてあげますよ〜」
「……はい?」
今、なんと?
おばあちゃま?
あの厳格なマダムが、猫撫で声で?
「ほーら、レオンちゃん。あーん。……おいちいねぇ〜」
マダムは完全にキャラ崩壊を起こしていた。
レオンのプニプニの頬を指でつつき、デレデレの笑顔を向けている。
どうやら、「孫(のような存在)を甘やかす喜び」にも目覚めてしまったらしい。
「……前言撤回だ」
父が頭を抱えた。
「新たな敵が誕生してしまったかもしれん。私の孫を独占する気か、あの婆……」
父とマダムの間で、レオンを巡る新たな冷戦が勃発しそうな予感がする。
まあ、不味いご飯を食べさせられるよりは、百倍マシだ。
私はライオネル様と顔を見合わせ、肩をすくめた。
とりあえず、一件落着。
これでレオンの食卓は守られた。
これからは、マダムの厳しいチェック(栄養管理)と、私の美味しい味付けが融合した、最強の離乳食が作れるだろう。
レオン、幸せ者ね。
私は窓の外を見た。
夏の日差しが、店先の看板を照らしている。
『月待ち食堂』。
ここは、大人も子供も、そして頑固なお局様さえも笑顔にする場所。
さて、明日のメニューは何にしようか。
リナの野菜はまだたくさんある。
レオンも食べられて、大人も満足できる料理。
例えば――野菜たっぷりの『ポトフ』なんてどうだろう。




