第11話
決戦の時が来た。
『月待ち食堂』の厨房は、いつものランチ営業とは違う、静謐な空気に包まれていた。
私は髪をキッチリと結び直し、手を洗う。
目の前の調理台には、今日の武器となる食材たちが並んでいる。
ヤマト皇国から持ち帰った、表面に白い粉を吹いた『利尻昆布』。
血合いを取り除き、薄く削り出した『本枯れ節』。
そして、リナが北の農場から送ってくれた、泥付きの『カブ』と『人参』。
「……始めます」
私は誰にともなく呟き、鍋に水を張った。
背後には、審査員兼監視役のマダム・ロッテンマイが、仁王立ちで目を光らせている。
「いいですか。塩、砂糖、その他一切の調味料の使用は禁止です。素材の味だけで勝負すると言ったのは貴女ですからね」
マダムの声は冷たい。
昨日の「泥ペースト事件」でレオンに拒絶された屈辱を、今日ここで晴らすつもりなのだろう。
私が失敗し、レオンが再び泣き叫ぶのを待っている。
「ええ、わかっています。調味料は使いません」
私は鍋に昆布を入れ、弱火にかけた。
離乳食の基本は「薄味」だ。
大人の味覚に合わせれば、赤ちゃんの未発達な腎臓に負担をかけてしまう。
だからこそ、マダムは「味のない煮込み」こそが正義だと信じている。
でも、それは違う。
「薄味」と「味がしない」は、似て非なるものだ。
鍋の水面が揺らぎ、細かい気泡が立ってくる。
沸騰直前。
昆布を取り出し、一度火を止める。
そして、削りたての鰹節を一気に投入する。
――フワァッ……。
厨房の空気が変わった。
立ち上る湯気に乗って、上品で、それでいて力強い香りが広がる。
魚の生臭さなど微塵もない。燻された香ばしさと、凝縮された海の恵みの香り。
「……ッ」
マダムが鼻を動かした。
ハンカチで口元を覆っているが、その目が驚きに見開かれているのがわかる。
この国には、まだ「合わせ出汁」の概念が浸透していない。
彼女にとって、これは未知の香水のようなものだろう。
鰹節が鍋底に沈むのを待って、静かに濾す。
現れたのは、黄金色に輝く液体。
『一番出汁』だ。
「……ただのお湯が、金色に?」
マダムが怪訝そうに呟く。
私は答えず、次の工程に移った。
リナの野菜だ。
カブと人参の皮をむき、サイコロ状に細かく刻む。
包丁を入れるだけで、水分が滲み出してくる。新鮮な証拠だ。
別の小鍋に野菜を入れ、ひたひたになるまで一番出汁を注ぐ。
火にかける。
コトコト、コトコト。
優しい音が厨房に響く。
野菜が柔らかくなったら、炊いておいた『お粥』を加える。
米粒が崩れ、出汁を吸ってふっくらと膨らんでいく。
ここが勝負どころだ。
私は木べらで鍋の中をゆっくりと混ぜながら、火加減を微調整する。
強すぎれば香りが飛び、弱すぎれば味が馴染まない。
野菜の甘みと、出汁の旨味。
その二つが完全に融合し、お米一粒一粒に行き渡る瞬間を見極める。
「……ふん。所詮は煮込み料理」
マダムが冷笑した。
「私が作ったものと大差ありません。塩気のない野菜の煮込みなど、あの我儘な子供が口にするはずがない」
彼女はまだ気づいていない。
彼女の料理が拒絶されたのは、味がないからではない。
長時間煮込みすぎて野菜のエグみが出ていたこと、そして何より「美味しくなぁれ」という愛情が欠けていたからだ。
鍋の中身が、とろりとしたクリーム状になる。
リゾットのような粘度。
最後に、香り付けの『かつお節粉』をほんの少しだけ振る。
「完成です」
私は火を止めた。
『お野菜と出汁のリゾット』。
見た目は、淡いオレンジ色と白が混ざり合った、優しい色合い。
昨日のマダムの「灰色ペースト」とは雲泥の差だ。
「……では、参りましょうか」
私はお盆にボウルを乗せ、二階のリビングへと向かった。
マダムが背後をついてくる。その足音は、断罪を下す裁判官のように重々しい。
リビングでは、ライオネル様がレオンを抱っこしてあやしていた。
レオンは不機嫌そうだ。
昨日のトラウマがあるのだろう。空腹なのに、口を真一文字に結んで警戒している。
「あーあー(メシはまだか)」
「よしよし、もうすぐママが来るからな」
私が部屋に入ると、レオンの鼻がピクリと動いた。
青い瞳が私――正確には、私の手元にあるボウルを捉える。
「……まんま?」
レオンの声色が、期待を含んだものに変わる。
わかるのね。
この香りには、嫌なものが一切入っていないってことが。
「お待たせ、レオン。ご飯よ」
私はテーブルにボウルを置いた。
湯気と共に、出汁の芳醇な香りと、野菜の甘い匂いが広がる。
ライオネル様がゴクリと喉を鳴らした。
「……いい匂いだ。俺が食いたいくらいだ」
「ダメですよ。これはレオンのです」
私はレオンをベビーチェアに座らせた。
マダムが腕組みをして、私の手元を凝視している。
「お手並み拝見といきましょう。……もし一口でも吐き出したら、即座に没収します」
「ええ。構いません」
私はスプーンでリゾットをすくい、ふうふうと息を吹きかけて冷ました。
人肌の温度。
これが一番、味を感じやすい温度だ。
「はい、あーん」
スプーンをレオンの口元へ運ぶ。
レオンは一瞬、ためらった。
昨日の苦い泥の記憶が蘇ったのかもしれない。
小さな眉をひそめ、疑り深い目でスプーンを見つめる。
でも。
鼻をくすぐる出汁の香りが、彼の本能を刺激した。
意を決したように、レオンが小さな口を開ける。
パクッ。
スプーンが口の中へ。
私は祈るような気持ちで、その瞬間を見守った。
モグ……モグ……。
レオンの口が動く。
マダムが勝利を確信したように口角を上げる。
「ほら見なさい、味のないものなど――」と言いかけた、その時だった。
カッ!
レオンの目が、信じられないほど大きく見開かれた。
そして、パァァァァッ! と、まるで花が咲いたような満面の笑みを浮かべた。
「んマンマァァァァッ!!」
歓喜の叫び。
彼は小さな手でテーブルをバンバンと叩き、「もっと!」と催促するように口を大きく開けた。
「なっ……!?」
マダムの眼鏡がずり落ちた。
彼女は信じられないものを見る目で、レオンを凝視した。
「食べた……? しかも、笑った……?」
私は二口目を運ぶ。
レオンは待ちきれない様子で、自分からスプーンに食いついてきた。
モグモグ、ゴックン。
ニコニコしながら、体を揺らして喜んでいる。
「美味しいのね。よかった」
私も思わず涙ぐんでしまう。
食べてくれる。
私が作ったものを、笑顔で食べてくれる。
料理人として、そして母親として、これ以上の幸せがあるだろうか。
ライオネル様が、安堵のため息をついて私の肩に手を置いた。
「さすがだな、シェリル。……レオンも、正直なやつだ」
一方、マダムは呆然と立ち尽くしていたが、やがて我に返り、叫んだ。
「い、イカサマです! 何か入れたのでしょう! 甘味料か、あるいは中毒性のある薬物を!」
「失礼なことを言わないでください」
私は毅然と言い返した。
「疑うなら、貴女も食べてみますか? ……まだ鍋に残っていますよ」
私は予備の皿にリゾットを盛り、スプーンを添えてマダムに差し出した。
「これが『本物の素材の味』です。……貴女が信じてきたものと、何が違うのか。その舌で確かめてください」
マダムは屈辱に顔を歪めたが、ここで逃げるわけにはいかないと思ったのか、ひったくるように皿を受け取った。
「ふん。いいでしょう。化けの皮を剥いで差し上げます」
彼女は乱暴にスプーンを口に運んだ。
塩も砂糖も入っていない、ただの煮込み。
不味いに決まっている。
そう確信して、飲み込もうとした瞬間。
彼女の動きが、ピタリと止まった。
「…………」
時が止まったかのような静寂。
マダムの手から、スプーンがカチャンと滑り落ちた。
次回最終話になります!
最後まで楽しんでいってくださいー!!




