第10話
翌日の昼。
『月待ち食堂』の二階にあるリビングは、法廷のような重苦しい空気に包まれていた。
「……準備が整いました」
マダム・ロッテンマイが、銀のトレイを持って現れた。
彼女は朝から厨房を封鎖し、私やギュスターヴ料理長さえも追い出して、一人で「調理」を行っていたのだ。
王宮式・英才教育に基づく、完璧な離乳食を作るために。
「さあ、レオン様。お食事の時間です」
マダムは私の腕からレオンを取り上げようとはせず、ベビーチェアに座らせるよう指示した。
私は渋々、レオンを椅子に座らせる。
レオンは「まんま? まんま!」と足をバタつかせ、期待に目を輝かせていた。
可哀想に。
これから出てくるのが、ママの料理ではないとも知らずに。
トン。
マダムがテーブルに皿を置いた。
「……これは」
私は絶句した。
白い磁器のボウルに入っていたのは、料理と呼ぶにはあまりに無残な物体だった。
灰色。
あるいは、くすんだ深緑色。
粘土を水で溶いたような、ドロリとしたペースト状の何か。
湯気は出ているが、香りが全くしない。
いや、微かに青臭いような、土っぽい匂いが漂ってくる。
「……マダム。これは何ですか?」
「『完全栄養野菜ペースト』です」
マダムは胸を張って答えた。
「ほうれん草、人参、ブロッコリー、そして白身魚。これらをすり潰し、裏ごしして煮詰めました。成長に必要な栄養素がすべて含まれています」
「味付けは?」
「一切しておりません。素材の滋養をそのまま摂取させるのが目的ですから」
塩も、出汁もなし。
ただ野菜をごった煮にして潰しただけの物体。
色が濁っているのは、別々に調理せず、全て一緒に長時間煮込んだせいだろう。
「さあ、口を開けなさい」
マダムが銀のスプーンで、灰色のペーストをすくい上げた。
レオンは口を開けた。
彼はまだ知らないのだ。世の中には「不味い食べ物」が存在するということを。
スプーンが、小さな口へと運ばれる。
パクッ。
レオンが口を閉じた。
ゴックン。
飲み込んだ。
一瞬の静寂。
「…………」
レオンの動きが止まった。
ぱっちりとした青い瞳が、驚愕に見開かれる。
そして、みるみるうちに顔が歪み、眉間に深い皺が刻まれた。
「……べぇぇぇぇぇっ!!」
レオンは舌を突き出し、盛大に吐き出した。
そして、顔を真っ赤にして泣き叫んだ。
「ギャアアアアアアッ!! まずいぃぃぃぃぃッ!!(意訳)」
凄まじい咆哮。
窓ガラスがビリビリと震える。
彼は手足をバタつかせ、テーブルの上のボウルを小さな手で薙ぎ払った。
ガシャンッ!!
ボウルが床に落ち、灰色のペーストが絨毯にぶちまけられる。
「なっ……!?」
マダムが凍りついた。
彼女の完璧な計算で作られた食事が、赤ん坊によって拒絶されたのだ。
彼女の顔色が、驚きから怒りへと変わっていく。
「……なんと、浅ましい」
彼女は震える声で言った。
「食べ物を粗末にするなど、言語道断! これが公爵家の嫡男の振る舞いですか!」
マダムはステッキを振り上げ、床をドンと叩いた。
「拾いなさい! そして食べるのです! これは貴方の血肉となる尊い糧なのですよ!」
「嫌だぁぁぁ! こんなの泥だぁぁぁ!(意訳)」
レオンは泣き叫び、私の方へ手を伸ばして助けを求めている。
私は耐えきれず、レオンを抱き上げた。
「やめてください! 泣いているじゃありませんか!」
「甘やかすなと言ったはずです! 泣けば許されると思っている。その傲慢な精神を叩き直さねばなりません!」
マダムは私からレオンを引き剥がそうと手を伸ばした。
その時。
ドォォォォォン……!
部屋の温度が、氷点下まで下がったような錯覚。
背後のドアが軋み、圧倒的な殺気が流れ込んできた。
「……俺の息子に、その汚い手を伸ばすな」
低い、地を這うような声。
振り返ると、そこには鬼神の如き形相のライオネル様が立っていた。
剣こそ抜いていないが、全身から立ち昇る闘気は、ドラゴンと対峙した時以上のものだ。
後ろには、真っ青な顔の父・ガラルド公爵もいる。
「ラ、ライオネル……」
「マダム・ロッテンマイ。貴様、今なんと抜かした? 『拾って食え』だと?」
ライオネル様が一歩踏み出す。
床板がミシリと悲鳴を上げた。
「俺は戦場で泥水を啜ったこともある。だがな……生まれたばかりの我が子に、床に落ちたものを食わせる趣味はない」
「ひっ……!」
さすがのマダムも、国最強の騎士の本気の殺気に圧され、たじろいだ。
しかし、彼女はすぐに気丈に言い返した。
「野蛮な……! これは教育です! 好き嫌いを許せば、将来わがままな人間に育つと言っているのです!」
「好き嫌い以前の問題だ」
私が口を挟んだ。
私は床に落ちたスプーンを拾い、残っていたペーストを舐めた。
「……っ」
吐き気を催すほどの不味さ。
野菜のえぐみと、魚の生臭さが濃縮されている。
長時間煮込みすぎて素材の良さが死に絶え、ただの「苦い泥」になっていた。
「マダム。貴女、これを味見しましたか?」
「味見? 必要ありません。栄養価は計算されています」
「食べてみてください」
私はスプーンを突き出した。
「貴女が『尊い糧』だと言うなら、ご自身で食べて証明してください。これが本当に、美味しいものなのかどうか」
マダムは顔をしかめ、スプーンを払いのけた。
「……私は大人です。幼児食など口にしません」
「食べられないものを、子供に強要するんですか?」
私はレオンを強く抱きしめた。
レオンは私の服にしがみつき、まだヒックヒックと泣いている。
「子供の味覚は敏感なんです。大人が我慢して食べるようなものは、彼らにとっては毒と同じです!」
「黙りなさい! 素人が口を出すな!」
マダムはヒステリックに叫んだ。
「栄養さえあればいいのです! 『美味しい』などという快楽は、堕落への入り口! 私は王命を受けてここに来ているのです。私のやり方に従いなさい!」
平行線だ。
彼女の辞書に「食の喜び」という言葉はない。
このままでは、レオンは食事を嫌いになり、心まで痩せ細ってしまう。
なら、証明するしかない。
私のやり方が正しいと。
「……賭けをしましょう、マダム」
私は静かに告げた。
「明日、私が離乳食を作ります。……もしレオンがそれを食べなかったら、私は今後一切、貴女の教育方針に口を出しません」
「ほう?」
「でも、もしレオンが笑顔で完食したら……今後、食事に関しては私のやり方に従ってください」
マダムは鼻で笑った。
「無駄なことを。一度あの味を拒絶した赤子が、すぐに他のものを食べるはずがありません。食事そのものを警戒していますよ」
「それでも、やります」
「よろしい。その愚かな自信、へし折って差し上げましょう」
マダムはドレスの裾を翻し、部屋を出て行った。
部屋に残されたのは、散らばった灰色の泥と、泣き疲れたレオン。そして怒りに震える家族たち。
「……許さんぞ、あの婆」
ライオネル様がギリリと歯噛みする。
「俺の息子にあんな残飯を……」
「大丈夫です、ライオネル様」
私はレオンの頭を撫でながら、力強く言った。
「明日は、最高のご飯を作ります。……レオンが、『生まれてきて良かった』って思えるくらいの、とびきりの離乳食を」
私の頭の中には、すでにレシピが浮かんでいた。
リナが届けてくれた最高の野菜。
ヤマトで手に入れた極上の昆布と鰹節。
それらを使い、素材の命を最大限に引き出した「あの一皿」を。
レオン。
パパとママの子だもの。
美味しいものは、ちゃんとわかるよね?
私は泣き止んだ息子の頬にキスをした。
戦いのゴングは鳴った。
明日のランチタイム、この部屋が決戦の場となる。




