第9話
その日の朝、『月待ち食堂』の空気は張り詰めていた。
定休日の札を出し、客足のない静かな店内。
けれど、カウンター席には父・ガラルド公爵が鎮座し、隣には夫のライオネル様が腕組みをして立っている。
二人とも、これからドラゴン討伐にでも向かうかのような険しい表情だ。
「……来るぞ」
父が低い声で呟いた。
窓の外、石畳を叩く規則正しい足音が近づいてくる。
カツ、カツ、カツ。
一歩の乱れもなく、時計の針のように正確なリズム。
私は抱っこ紐でレオンを抱き、背筋を伸ばした。
相手は王宮から派遣された筆頭教育係。
礼儀を欠くわけにはいかない。
ドアが開いた。
ベルが鳴るよりも早く、冷ややかな空気が流れ込む。
「ごきげんよう」
現れたのは、一人の老婦人だった。
喪服のように黒いドレス。
白髪は一本の乱れもなくひっつめられ、鼻には銀縁の眼鏡。
背筋は剣のように真っ直ぐで、手には太い教鞭のようなステッキを持っている。
マダム・ロッテンマイ。
王家の血筋に連なる子供たちの教育を一手に担ってきた、生ける伝説。
「お待ちしておりました、マダム」
私が頭を下げると、彼女は眼鏡の奥から冷徹な視線を私に向け、次に店内をゆっくりと見回した。
その視線が、壁のメニュー表や、厨房の調理器具を舐めるように動く。
「……油と、香辛料の匂い」
彼女はハンカチで鼻を覆った。
「公爵家の嫡男が育つ環境としては、あまりに劣悪。市井の食堂など、言語道断です」
「なっ……!」
挨拶もそこそこに、いきなりの先制攻撃。
父がテーブルを叩いて立ち上がった。
「失礼な! ここは私が認めた店だ! 衛生管理は王宮以上に行き届いている!」
「黙りなさい、ガラルド」
マダムの一喝。
父の肩がビクリと跳ねた。
「貴方が甘やかすから、娘がこのような……あのような奔放な生き方を選ぶのです。宰相ともあろう者が、孫の教育環境より情を優先するとは」
「ぐっ……」
父が押し黙る。
「氷の閣下」と呼ばれる父が、蛇に睨まれた蛙のように萎縮している。
この人、本当に何者なの?
マダムはカツカツと歩み寄り、私の目の前で止まった。
そして、胸元のレオンを覗き込む。
「……ほう。これが」
レオンは眠っていたが、気配を感じて目を開けた。
青い瞳が、マダムの眼鏡と交差する。
普通の赤ちゃんなら泣き出すような威圧感だ。
けれど、レオンは物怖じせず、じっとマダムを見つめ返した。
そして、あろうことか。
「あう!」
小さな手を伸ばし、マダムの眼鏡を掴もうとした。
「……ッ!」
マダムが素早く顔を引く。
「なんと無作法な。初対面の相手に手を伸ばすなど、慎みがありません」
「赤ちゃんなんですから、当然でしょう?」
私が反論すると、マダムは冷たく言い放った。
「三つ子の魂百まで。赤子のうちから律しなければ、将来はただの野蛮人になります」
彼女はステッキを床に突き、宣言した。
「本日より、私がこの子の教育を管理します。まずは生活環境の改善、そして……食事の管理からです」
「食事?」
私は眉をひそめた。
レオンはまだ生後一ヶ月半。食事といっても、まだ母乳だけだ。
「じきに離乳食が始まるでしょう。その時が重要なのです」
マダムは懐から一冊の分厚い本を取り出した。
『王家式・幼少期教育マニュアル』と書かれている。
「子供に与える食事は、栄養のみを考慮した『完全食』でなければなりません。味付けは不要。素材をドロドロに煮込み、食への執着を持たせぬよう、淡々と摂取させるのです」
「……味付けが、不要?」
「ええ。美食は人を堕落させます。幼い頃から濃い味を覚えれば、我慢のできない人間に育つでしょう。……ましてや」
彼女は厨房の方を侮蔑の目で見た。
「このような食堂の、油と砂糖にまみれた料理など論外。舌が腐ります」
カチン、と来た。
私の料理を馬鹿にされるのは慣れている。
でも、子供の未来の食卓まで「味気ないもの」にされようとしていることが許せない。
「反対です」
私はきっぱりと言った。
「食べることは、生きる喜びです。美味しいものを食べて笑顔になる。それが心の成長にも繋がるはずです」
「喜び? 甘い考えです」
マダムは鼻で笑った。
「貴族に必要なのは喜びではなく、規律と忍耐です。食事は楽しむものではなく、義務。……現に、私が育てたジュリアン殿下も、立派に育ちました」
(……あの味音痴の元凶、貴女だったんですか!)
心の中で叫ぶ。
ジュリアン様が「素材の味(無味)」にトラウマを持っていた理由が、今ようやく理解できた。
このままでは、レオンも同じ目に遭わされてしまう。
「お断りします。レオンの食事は、母親である私が作ります」
「貴女に拒否権はありません」
マダムは一枚の羊皮紙を取り出し、テーブルに叩きつけた。
王家の紋章が入った命令書だ。
「これは国王陛下の認可印です。『次期公爵当主の教育に関する全権を、マダム・ロッテンマイに委任する』とあります」
「なっ……陛下!?」
父が羊皮紙を奪い取り、目を通す。
その手が震えた。
「……本物だ。あの狸おやじ(国王)、面倒ごとは丸投げか……!」
国王陛下も、マダムには頭が上がらないらしい。
法的な効力を持ってこられては、正面から追い返すことはできない。
「明日から、離乳食の準備に入ります。貴女は厨房で自分の仕事でもしていなさい。……子供の口に入るものは、すべて私が検閲し、調理します」
マダムは一方的に告げると、セバスチャンに向かって指を鳴らした。
「そこの執事。二階に私の部屋を用意なさい。清潔で、静粛な部屋を」
「は、はい! ただちに!」
セバスチャンまでもが直立不動で従っている。
マダムは優雅に、しかし圧倒的な支配力を持って階段を上がっていった。
嵐が去ったような静寂。
ライオネル様が、ギリリと拳を握りしめた。
「……斬っていいか?」
「ダメです。犯罪者になります」
私は彼を止めつつ、抱いていたレオンを見た。
レオンは不思議そうに、マダムが消えた階段の方を見つめている。
まだ何もわかっていない無垢な瞳。
この子に、味のないペーストを無理やり食べさせるなんて。
食べる喜びを知らないまま育つなんて。
絶対に嫌だ。
「……負けません」
私は小さく、しかし力強く呟いた。
「権力がなんだっていうの。……レオンの舌は、私が守る」
私の料理で、帝も、式部卿も、隣国の王子も黙らせてきたのだ。
たかが教育係一人。
美味しいご飯の力で、陥落させてみせる。
「ライオネル様。お父様。……協力してくれますね?」
「当然だ。あの婆さんの思い通りにはさせん」
「うむ。私も、孫に不味い飯を食わせるつもりはない!」
家族の意見は一致した。
『月待ち食堂』を舞台にした、新たな戦争の幕開けだ。
テーマは「離乳食」。
最強の布陣で、お局様の古い価値観を打ち砕く準備を始めよう。
その時、私の腕の中でレオンが「まんま!」と声を上げた。
まるで「ボクも戦うぞ!」と言っているかのように。




