第8話
レオンが生まれてから、一ヶ月が経った。
初夏の風が心地よい昼下がり。
『月待ち食堂』のランチタイムもひと段落し、私は厨房の指定席(司令塔用の椅子)で、ほっと息をついていた。
腕の中では、お乳を飲んで満腹になったレオンが、安心しきった顔で眠っている。
生まれた直後の猿のような顔から、少しずつ肉がつき、プニプニとした白い肌になってきた。
重みも増している。成長の証だ。
「……そろそろね」
私は壁掛け時計を見上げた。
数日前、北の辺境から一通の手紙が届いていた。
差出人は、かつて私を断罪した元聖女、リナ・バーンズ。
そして、元王太子ジュリアン様。
『出産祝いを持って駆けつけますわ!』というハイテンションな文面通りなら、今日あたり到着するはずだ。
ガタガタガタッ!
店の表から、馬車の止まる音と、何かが荷台から転がり落ちるような騒がしい音が聞こえた。
「着いたーっ! ここですわね、懐かしの『月待ち食堂』!」
「おいリナ、もっと丁寧に降ろせ! トマトが潰れるだろうが!」
聞き覚えのある、しかし以前よりずっと張りがある声。
私はレオンを抱き直し、入り口へと向かった。
店番をしていたギュスターヴや、非番で手伝いに来ていたライオネル様も、何事かと顔を出す。
扉を開けると、そこには衝撃的な光景が広がっていた。
「……え?」
店の前に横付けされていたのは、貴族用の優雅な馬車ではない。
泥だらけの、幌付きの荷馬車だった。
そして、そこから降りてきた二人の姿に、私は目を丸くした。
「シェリル様ー! 会いたかったですわー!」
日焼けした肌。
麦わら帽子。
そして、土汚れのついた作業着。
かつてピンク色のドレスを着ていた「聖女」の面影はどこにもない。
そこにいたのは、健康的で、生命力に溢れた「農家の娘」だった。
「リナ……さん?」
「はいっ! 北の大地から愛を込めて、爆走してきましたの!」
彼女は私の前に立つと、ニカっと白い歯を見せて笑った。
その笑顔は、以前のような作り物めいたものではなく、太陽のように眩しい。
「久しぶりだな、シェリル。……ライオネルも」
荷台からひょいと飛び降りてきたのは、ジュリアン様だ。
彼もまた、貴族服ではなく、袖をまくったシャツ姿。
細かった腕には筋肉がつき、精悍な顔つきになっている。
かつての「頼りない王太子」の雰囲気は消え失せ、一人の自立した青年の顔をしていた。
「ジュリアン殿下……いえ、ジュリアン様。お久しぶりです」
「ああ。……聞いたぞ。元気な男の子が生まれたそうだな」
彼は少し照れくさそうに鼻をこすり、私の腕の中を覗き込んだ。
「こいつか。……ふっ、随分と美味そうな顔で寝ているな」
「あら、失礼な。……でも、可愛いでしょう?」
「ああ。本当に」
ジュリアン様が目を細める。
すると、リナが「私にも見せて!」と割り込んできた。
「きゃあぁぁぁっ! なんですのこの生き物は! 天使!? 天使ですわよね!?」
彼女はレオンを見るなり、黄色い悲鳴を上げた。
その声に驚いて、レオンが「ふえっ」と目を覚ます。
青い瞳が、キョロキョロとリナを見つめる。
「目が合いましたわ! 今、私を見て微笑みましたわ!」
「いや、まだ表情筋が動いただけだと思うが……」
ライオネル様が冷静にツッコミを入れるが、リナには届かない。
彼女は泥を拭った手で、そっとレオンの頬をつついた。
「初めまして、レオン君。おばちゃ……お姉さんですわよ。貴方のために、とびきりのプレゼントを持ってきましたの」
彼女はジュリアン様に合図を送った。
ジュリアン様が荷台の覆いをバサッと取り払う。
そこに積まれていたのは、山のような野菜だった。
真っ赤に熟れたトマト。
太くて立派なキュウリ。
泥付きのニンジン。
そして、黄色く輝くトウモロコシ。
どれもが宝石のように輝き、濃厚な土と緑の香りを放っている。
「これは……すごい」
私は思わず息を飲んだ。
王都の市場でも、これほど生命力に満ちた野菜は見たことがない。
「北の農場で、私たちが手塩にかけて育てた最高傑作ですわ!」
リナが胸を張る。
「土作りからこだわりましたの。肥料の配合、水の管理、そして毎日の『美味しくなーれ』という魔法(物理的な魔力注入)。……この子たちは、私の子供同然ですのよ!」
彼女の野菜への愛が重い。
でも、それが確かな品質に繋がっているのは一目瞭然だ。
「ありがとう。最高の出産祝いよ」
「ふふん! 食べてみてくださいな。その辺の野菜とは格が違いますわよ」
私たちは店内に移動し、早速野菜を味わうことにした。
調理はいらない。
リナの自信作なら、そのまま食べるのが一番だ。
私はトマトとキュウリを冷水で洗い、適当な大きさに切った。
それだけ。
皿に盛り、以前私がリナに送った『マヨネーズ』と、少しの『味噌』を添える。
「いただきます」
ライオネル様が、キュウリを手に取り、味噌をつけて齧った。
――パリッ!
小気味よい音が響く。
瑞々しい断面から、水分が溢れ出す。
「……!」
ライオネル様の動きが止まった。
「甘い。……なんだこのキュウリは? 青臭さが全くない。まるで果物のように甘くて、それでいて爽やかだ」
「でしょう! 朝採れですもの!」
リナが得意げに言う。
私もトマトを口に放り込んだ。
ジュワッ。
噛んだ瞬間、濃厚なジュースが口いっぱいに広がる。
酸味は控えめで、とにかく味が濃い。旨味が凝縮されている。
「美味しい……。野菜って、こんなに美味しかったかしら」
「ええ。貴女が教えてくれましたもの。『素材の味』というのは、薄味のことじゃなくて、こういう力強さのことだって」
リナは優しく微笑んだ。
かつて「味のしない健康食」を強要していた彼女が、今では誰よりも「本物の味」を知っている。
なんだか胸が熱くなった。
ジュリアン様も、トウモロコシをかじりながら言った。
「俺たちは、国を追われて初めて、土の温かさを知った。……王宮にいた頃より、今のほうがずっと充実しているよ」
「そうだな。……いい顔をしている」
ライオネル様が、かつての主君(教え子)に言葉をかけた。
ジュリアン様は照れくさそうに笑い、レオンに視線を移した。
「こいつが大きくなったら、北へ遊びに来いよ。農業体験させてやる。……泥んこになって遊ぶのも、悪くないぞ」
「ええ。ぜひお願いします」
和やかな時間。
美味しい野菜と、昔話に花が咲く。
リナはレオンを抱っこさせてもらい、「きゃー! 重い! いい匂い!」と大はしゃぎしている。
ふと、リナが真剣な顔で私を見た。
「シェリル様。この野菜、ただのお土産じゃありませんのよ」
「え?」
「レオン君のためですわ」
彼女は人差し指を立てた。
「今はまだお乳でしょうけど、数ヶ月もすれば『離乳食』が始まりますわよね? その時……最初に口にするものが、その子の味覚を決めると言いますわ」
彼女の目は、プロの料理人(生産者)のそれだった。
「不味い野菜を食べさせて、野菜嫌いになったら大変ですもの。……最初の一口には、最高に甘くて美味しい野菜を使ってあげてくださいな」
「リナさん……」
「これは、私からの『食育』のプレゼントですわ!」
彼女はウィンクした。
なんて頼もしいんだろう。
かつての敵が、今では息子の未来の食卓を守る、最強の味方になってくれている。
「ありがとう。……約束するわ。この子には、貴女の野菜で最高の離乳食を作ってあげる」
レオンが、リナの腕の中で「あうー」と声を上げた。
まるで「楽しみにしてる!」と言っているようだ。
こうして、再会のお祝いは賑やかに過ぎていった。
リナたちは「収穫が忙しいから」と、夕方には嵐のように帰っていった。
残されたのは、山のような野菜と、温かい気持ち。
私はキッチンに立ち、夕食の献立を考えた。
この野菜たちを使えば、どんな料理だってご馳走になる。
レオンが大きくなるのが、今から楽しみだ。
――だが。
私たちはまだ知らなかった。
この幸せな時間に、王宮からの「黒い影」が忍び寄っていることを。
その日の夜。
店じまいをした『月待ち食堂』に、一通の封書が届いた。
差出人は王宮筆頭女官長。
中には、一枚の辞令が入っていた。
『次期公爵家当主の教育係として、マダム・ロッテンマイを派遣する』
厳格で、古風で、そして「美食」を敵視するお局様。
彼女の足音が、すぐそこまで迫っていた。




