第5話
目の前に置かれたのは、黄金色の山だった。
香ばしい醤油とニンニクの香り。揚げたての熱気。
ライオネル団長は震える手でフォークを……いや、それではまどろっこしいと言わんばかりに、手掴みで唐揚げの一つを掴み取った。
「……いただく」
彼は大きく口を開け、熱々の塊にかぶりついた。
――カリッ! サクッ!
店内に響いたのは、私がこれまでの人生で聞いた中で最も良い「咀嚼音」だったかもしれない。
サクサクとした衣が砕け、その奥から弾力のある肉の繊維がブチリと噛み切られる音。
その瞬間、ライオネル団長の動きが止まった。
「ッ……!?」
目が見開かれ、次に眉間にシワが寄る。
熱いのか? それとも口に合わなかったか?
いや、違う。
――ジュワァァァ……。
口の中で、閉じ込められていた肉汁のダムが決壊したのだ。
私は見ていた。彼の喉仏が大きく動き、熱々の肉汁と肉を飲み込む様を。
「なんだ……これは……」
ライオネル団長が呆然と呟く。
「外は、まるで薄氷のように脆く、軽やかだ。だが中は……なんだこの柔らかさは! 噛んだ瞬間に溢れ出る、濃厚な旨味の奔流! ニンニクの風味が鼻を突き抜け、醤油の塩気が暴力的に脳を揺さぶる!」
鉄仮面が、喋る喋る。
彼はまだ口の中に余韻が残っているうちに、ジョッキのエールを煽った。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ、プハァーーッ!
冷たい炭酸が、脂の乗った口内を洗い流していく。
その爽快感たるや、砂漠でオアシスを見つけたなんてものではないだろう。
「うまい……っ! こんな、こんな美味い鶏料理が、この世にあったのか!」
「ふふ、気に入っていただけたようで」
私が微笑むと、彼はもう私の言葉など耳に入っていない様子で、二個、三個と唐揚げを口に放り込んでいく。
熱さをものともしない、凄まじいスピードだ。
山盛りにしたはずの唐揚げが、魔法のように消えていく。
「店主! 頼む、白飯はないか!? この味は、穀物を猛烈に欲する!」
「ご用意してありますよ。むしろ、ここからが本番です」
私は炊飯用の土鍋から、炊きたての銀シャリを茶碗によそった。
ついでに、昨日の残りの具材で作った即席の味噌汁も添える。
ドン、と置かれた白米を見て、ライオネル団長の目が輝いた。
「おお……なんと美しい……」
彼は左手に茶碗を持ち、右手の唐揚げを一口かじる。
口内が肉の脂と醤油味で満たされたところに、すかさず白米をかきこむ。
モグモグ、モグモグ。
濃い味付けの唐揚げを、甘みのある白米が優しく受け止める。
口の中で完成する、味の黄金比。
これぞ「唐揚げ定食」の真髄だ。
「止まらん……手が、止まらんぞ……!」
かつて戦場で「鉄壁の要塞」と呼ばれた男の理性が、完全に崩壊していた。
頬を膨らませ、口の端に米粒をつけ、幸せそうに咀嚼するその顔は、もはや「鉄仮面」ではなく「食いしん坊の少年」のそれだ。
「おかわりだ! 肉も、飯も、あるだけくれ!」
「はいはい、ただいま」
私は追加で揚げておいた唐揚げを皿に盛る。
彼が食べている間に、私はこっそりと彼を観察した。
(……この人、確か私を断罪した王太子の側近よね?)
本来なら、追放された悪役令嬢だと気づかれれば、その場で捕縛されてもおかしくない。
だが、今の彼にそんな気配は微塵もなかった。
目の前の唐揚げに対して、あまりにも真摯で、純粋だ。
(ま、いっか。美味しいって言ってくれる人に、悪い人はいないわ)
結局、ライオネル団長は四人前ほどの唐揚げと、三杯の大盛りご飯、そしてジョッキ三杯のエールを綺麗に平らげた。
最後に味噌汁をズズッと飲み干し、彼は「ふぅぅぅ……」と長く、深く息を吐いた。
その顔は、憑き物が落ちたように穏やかで、血色が戻っている。
「……生き返った」
彼はナプキンで口元を拭うと、スッと居住まいを正した。
その途端、先ほどまでの「食いしん坊」の顔が消え、威厳ある騎士団長の顔に戻る。
「店主。礼を言う。これほど心が満たされた食事は、生まれて初めてだ」
「お粗末様でした」
「王宮の料理人は、見た目ばかり気にして味の深みを知らん。だが、貴殿の料理には『魂』があった」
彼は懐から革袋を取り出し、カウンターに置いた。
ジャラッ、と重たい音がする。どう見ても、定食の代金としては多すぎる。金貨が入っている音だ。
「団長様、これは多すぎます」
「取っておいてくれ。……その代わり、明日も来ていいか?」
あの鋭い眼光が、少しだけ不安げに揺れている。
餌付けされた大型犬のようだ。
「ええ、もちろんです。明日はまた、違うメニューをご用意してお待ちしています」
「違うメニュー……だと? ゴクリ……」
彼は喉を鳴らし、立ち上がった。
「私はライオネル・バーンズだ。……貴殿の名は?」
一瞬、躊躇った。
けれど、私は堂々と名乗ることにした。私の料理を愛してくれた客に対して、嘘はつきたくない。
「シェリルです。シェリル・ウォルター」
「……シェリル嬢、か。どこかで聞いたような気もするが……まあいい」
彼は私の顔をじっと見たが、すぐに興味なさげに首を振った。
どうやら「悪役令嬢シェリル」の名前よりも、「激ウマ定食屋の店主シェリル」としての認識が上書き保存されたらしい。
「では、また明日」
ライオネル団長は兜を抱え、足取り軽く店を出て行った。
――ガチャン、と扉が閉まる。
私はカウンターに残された、空っぽの皿を見つめてニヤリと笑った。
騎士団長、陥落。
こうして『月待ち食堂』は、人間のお客様第一号にして、国内最強の常連客(用心棒候補)を手に入れたのだった。
しかし、この「唐揚げ」の噂は、翌日さらに予期せぬ広がりを見せることになる。




