第6話
小鳥のさえずりで目が覚めた。
まぶたを持ち上げると、窓から柔らかな昼前の日差しが差し込んでいる。
嵐のようだった昨夜が嘘のような、穏やかな天気だ。
「……いたた」
身じろぎした瞬間、全身に鈍い痛みが走った。
腰も、背中も、腕も。
まるでフルマラソンを完走した直後のように体が重い。
これが「産後の肥立ち」というやつか。
私はゆっくりと首を横に向けた。
すぐ隣、白木のベビーベッド。
その中で、小さな生き物が規則正しい寝息を立てている。
レオン。
私とライオネル様の子供。
昨晩の野太い産声とは打って変わって、今は天使のように静かだ。
金色の産毛が光に透けて輝いている。
「……本当に、産んだのね」
指先でそっと、彼の柔らかな頬に触れる。
温かい。
この温もりが、私の中から出てきたなんて信じられない。
愛おしさが胸いっぱいに広がるのと同時に――。
グゥゥゥゥ……。
私のお腹が、とてつもなく大きな音を立てた。
感動的な空気が一瞬で霧散する。
そういえば、昨日の夕食から何も食べていない。出産という大仕事を終え、私の体は枯渇したエネルギーを猛烈に求めていた。
「お腹……空いた」
起き上がろうとするが、力が入らない。
ライオネル様はどこだろう。
部屋にはいない。買い物だろうか。
クンクン。
鼻を動かす。
ドアの隙間から、何とも言えない良い匂いが漂ってきていた。
出汁の香り。
お米が炊ける甘い匂い。
そして、少し焦げたような、香ばしい醤油の匂い。
「……ご飯?」
ギュスターヴたちが店を開けているのだろうか。
いや、今日は臨時休業のはずだ。
それに、この匂いは店のメニューにはない。もっと繊細で、優しい魚の香り。
ガチャリ。
ドアノブが回り、ライオネル様が入ってきた。
その姿を見て、私は目を丸くした。
彼は、私のエプロンをつけていた。
大柄な彼には少しサイズが小さく、紐がピチピチになっている。
顔の端には煤がつき、前髪が少し焦げているようにも見える。
そして手には、湯気を立てる土鍋が乗ったお盆を慎重に抱えていた。
「……起きたか、シェリル」
彼は私を見ると、ホッとしたように表情を緩めた。
「ライオネル様、その格好……」
「ああ。……腹が減っているだろうと思ってな」
彼はベッドの脇のサイドテーブルにお盆を置いた。
土鍋。茶碗。お箸。
そして、急須に入ったお茶。
「俺が作った。……毒見はシロにさせたから、味は保証する」
「貴方が? 料理を?」
驚いた。
彼は最近、手伝いはしてくれるものの、一から十まで一人で作ったことはないはずだ。
しかも、この香りはただの男料理ではない。本格的な和食の香りだ。
「開けてみてくれ」
促され、私は身を起こして土鍋の蓋に手をかけた。
まだ熱い。
重たい蓋を持ち上げる。
――フワァァッ……!
真っ白な湯気と共に、磯の香りが爆発した。
現れたのは、淡い桜色のご飯。
その中央には、立派な鯛の切り身が鎮座している。
周りには鮮やかな緑色の三つ葉が散らされ、針生姜が添えられている。
「これは……『鯛めし』?」
「ああ。……お前が前に、『出産祝いといえば鯛よね』と言っていただろう?」
言ったかもしれない。
ヤマトからの帰りの船で、そんな雑談をした記憶がある。
彼はそれを覚えていてくれたのだ。
「魚を捌くのに苦労した。鱗が硬くてな……」
彼が照れ隠しに頬を搔く。
その指先には、いくつもの新しい絆創膏が貼られていた。
包丁で切ったのだろうか。それとも、硬い鯛の骨と格闘したのか。
不器用な彼が、私のために必死で魚と向き合っている姿が目に浮かぶ。
「……よそいますね」
私はしゃもじを手に取った。
鯛の身をほぐし、ご飯と混ぜ合わせる。
ふっくらと炊けたご飯。昆布と鯛の出汁を吸って、艶やかに輝いている。
鍋底をこそげると、カリッとしたお焦げが現れた。
「あ、すまん。火加減が強すぎたか」
「いいえ。このお焦げが美味しいんですよ」
茶碗によそい、彼に渡す。そして自分の分も。
二人で手を合わせる。
「いただきます」
私は箸で一口分をすくい、口へ運んだ。
ハフッ。
熱い。
そして、優しい。
「……っ」
噛みしめるたびに、鯛の上品な旨味と、昆布出汁の風味が口いっぱいに広がる。
塩加減は絶妙だ。薄すぎず、濃すぎず、体に染み渡る塩梅。
生姜の爽やかな辛味が、魚の臭みを完全に消している。
そしてお焦げ。
醤油と出汁が焦げた香ばしさが、ふっくらしたご飯のアクセントになり、食欲を加速させる。
「……どうだ?」
ライオネル様が、心配そうに私の顔を覗き込む。
最強の騎士団長が、まるで試験結果を待つ子供のような顔をしている。
「……美味しいです」
私は心からの言葉を伝えた。
「すごく、美味しい。……今まで食べたどんな料理よりも、優しい味がします」
「そうか。……よかった」
彼は安堵の息を吐き、自分もご飯をかきこんだ。
「うん、悪くない。……だが、やっぱりお前の料理には勝てんな」
「そんなことありません。このお焦げの加減、プロ顔負けですよ」
私たちは向かい合って、土鍋いっぱいの鯛めしを食べた。
箸が止まらない。
産後の疲れた体に、栄養と愛情が満ちていく。
半分ほど食べたところで、ふと視線を感じた。
ベビーベッドの方を見る。
レオンが目を覚ましていた。
泣きもせず、ぱっちりと開いた青い瞳で、こちらをじっと見つめている。
その小さな鼻が、ヒクヒクと動いている。
「あら。……匂いがわかるのかしら」
「まさか。生まれて半日だぞ?」
ライオネル様が笑う。
だが、レオンは明らかに興味深そうに、私たちが食べている茶碗を目で追っていた。
そして、小さな口をもごもごと動かし、舌なめずりをした。
「……将来有望だな」
「ええ。きっと、パパに似て食いしん坊になりますよ」
シロが窓から入ってきて、レオンの枕元に座った。
口元に魚の食べカスがついている。どうやら「毒見」と称して、失敗作の鯛をたっぷり頂いたらしい。
『みゃう(安心しろ、小僧。お前の分は、母の乳となって届く)』
シロの言葉通りだ。
私が食べたこの美味しいご飯は、栄養となってレオンを育てる。
食べることは、生きること。
そして、命を繋ぐこと。
完食して、お茶をすすると、ライオネル様が私の手から食器を受け取った。
「そのまま休んでろ。片付けも俺がやる」
「でも……」
「これからは、俺も厨房に立つ」
彼は真剣な眼差しで言った。
「お前が育児で忙しい時、俺が代わりにお前の味を守る。……そしていつか、レオンにも俺の飯を食わせてやるんだ」
「ライオネル様……」
「『お父さんの唐揚げ』とか、悪くないだろう?」
彼はニカっと笑い、お盆を持って部屋を出て行った。
その背中は、騎士団長の時よりも、ずっと大きく、頼もしく見えた。
私はベッドに身を沈め、レオンの寝顔を見つめた。
満たされたお腹と心。
窓の外からは、賑やかな街の音が聞こえてくる。
そして、店の下からは微かに、父・ガラルド公爵の「通せ! 孫に会わせろ!」という怒鳴り声と、セバスチャンの「旦那様、まだ早朝でございます!」という制止の声が聞こえてくる。
平和だ。
騒がしくて、美味しくて、愛おしい日常が、また始まる。
私は目を閉じ、幸せな眠りについた。
次は、何を食べようか。
そんなことを考えながら。




