第1話
第4章始まりましたー!!
楽しんでいってくださいー!!
盛大な結婚式から、三ヶ月が過ぎた。
季節は夏を迎えようとしている。
王都の陽射しは日に日に強くなり、じっとしていても汗ばむような陽気だ。
『月待ち食堂』のランチタイムは、今日も戦場のような熱気に包まれていた。
「いらっしゃいませ! 空いているカウンター席へどうぞ!」
「店主! こっちは『スタミナ定食』追加だ!」
「はい、ただいま!」
私は厨房の中を走り回っていた。
額に滲む汗を拭う暇もない。
目の前のコンロでは、ギュスターヴ料理長が中華鍋を振るい、豪快な炎を上げている。
隣のフライパンでは、弟子たちが分厚い豚肉を次々と油の中へ投入していた。
ジュワァァァァ……ッ!
激しい音と共に、香ばしい油の匂いが立ち昇る。
豚肉の脂と、ニンニク、そして醤油が焦げる匂い。
夏バテ防止にと考案した新メニュー『豚肉のスタミナ揚げ』が大ヒットし、注文が殺到していたのだ。
いつもなら、この匂いは私の食欲を刺激する最高のアロマだった。
お腹が空く。
ご飯が食べたくなる。
生きる活力が湧いてくる。
そう思っていたはずだった。
けれど。
今日は、何かが違った。
「……うっ」
不意に、胸の奥からこみ上げてくるものがあった。
胃袋がギュッと縮み上がるような不快感。
濃厚な油の匂いが鼻腔を通り抜けた瞬間、頭の芯がグラリと揺れた。
「師匠? どうされました?」
私の手が止まったことに気づき、ギュスターヴが心配そうに顔を覗き込んできた。
「い、いいえ。なんでもないわ。ちょっと目眩がしただけ」
私は強がって笑顔を作った。
気のせいだ。
きっと、この暑さのせいだろう。
ここ数日、なんとなく体がだるくて、朝起きるのが辛かった。
睡眠不足と夏バテが重なったに違いない。
「大丈夫よ。さあ、ジャンジャン揚げてちょうだい!」
私は気合を入れ直し、炊き上がったご飯をおひつに移そうとした。
土鍋の蓋を開ける。
――モワァッ。
熱気と共に、炊きたてのご飯特有の甘い湯気が顔にかかる。
普段なら、世界で一番幸せな香りだ。
なのに。
「……っ!!」
ダメだ。
気持ち悪い。
あんなに大好きだったお米の匂いが、今は耐え難い悪臭のように感じる。
吐き気が喉元までせり上がってくる。
視界が急速に狭まっていく。
「し、シェリル……!?」
遠くで、誰かが私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
低い、愛しい人の声。
でも、それに答える力は残っていなかった。
私の意識は、そこでプツリと途切れた。
◇ ◇ ◇
目が覚めると、見慣れた天井があった。
店の二階にある、私たちの寝室だ。
開け放たれた窓から、夕暮れの風が入ってきてカーテンを揺らしている。
「……気がついたか」
すぐ横から、押し殺したような声がした。
ベッドの脇に、ライオネル様が座っていた。
彼は私の手を両手で包み込み、祈るように握りしめていた。その顔色は蒼白で、まるで戦場で仲間を失った時のように悲痛な表情だ。
「ライオネル様……? 私、どうして……」
「倒れたんだ。厨房で」
彼は震える声で言った。
「肝が冷えた。……お前が床に崩れ落ちるのを見た時、心臓が止まるかと思った」
そうだった。
ランチタイムの最中に、意識を失ってしまったのだ。
なんてことだ。店はどうなったのだろう。ギュスターヴたちに迷惑をかけてしまった。
「すみません……。私、夏バテみたいで」
「夏バテではない」
ライオネル様が、私の言葉を遮った。
彼の瞳が、真剣な光を宿して私を見つめる。
「医者を呼んだ。……診断結果が出たぞ」
「どこか、悪いんですか?」
不安がよぎる。
もしかして、重い病気なのだろうか。
異世界特有の奇病とか、魔力欠乏症とか。
私が身構えていると、ライオネル様は深く息を吸い込み、そして――顔をくしゃくしゃに歪めて叫んだ。
「……子供だ!!」
「はい?」
「できたんだよ! 俺たちの子供が! お前のお腹の中に!」
一瞬、何を言われているのか理解できなかった。
子供?
お腹の中に?
「にん、しん……?」
「ああ! そうだ! 妊娠三ヶ月だと言われた!」
ライオネル様は感極まったように私を抱きしめた。
痛いほど強い力。でも、彼の腕が震えているのがわかる。
「ありがとう、シェリル……! ありがとう!」
彼の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
あの「鉄仮面」と呼ばれた最強の騎士団長が、子供のように泣いている。
「俺が、父親に……。お前が、母親になるんだ……!」
その瞬間。
彼の中から、制御しきれない歓喜の魔力が爆発した。
――ズドォォォォォォンッ!!
衝撃波が部屋を突き抜け、王都中に拡散した。
窓ガラスがビリビリと震え、棚の上の花瓶がカタカタと踊る。
屋根の上で寝ていたらしい聖獣シロが、「にゃんだ!?」と悲鳴を上げて落ちてくる音がした。
「ら、ライオネル様! 落ち着いて! 家が壊れます!」
「す、すまん! 嬉しすぎて魔力が暴走した!」
彼は慌てて魔力を収めたが、その顔はニヤけっぱなしだ。
私はそっと自分のお腹に手を当てた。
まだ平らだ。何も変わっていないように見える。
でも、ここに新しい命がいる。
ライオネル様との愛の結晶が。
じわりと、実感が湧いてきた。
嬉しさと、愛おしさと、少しの不安が入り混じった、不思議な感覚。
「……私、ママになるんですね」
「ああ。世界一可愛いママにな」
私たちは額を合わせて笑い合った。
幸せだった。
この上ない幸福が、この部屋に満ちていた。
……しかし。
現実は、そんなに甘くはなかった。
◇ ◇ ◇
「うっ……おぇぇ……」
翌日から、地獄が始まった。
つわりだ。
医者の説明によると、私のつわりは「匂いつわり」と呼ばれるタイプらしい。
特定の匂いを嗅ぐと、猛烈な吐き気に襲われるのだ。
そして最悪なことに、私がダメになった匂いとは――。
「炊きたてのご飯」の匂い。
「出汁」の匂い。
そして「揚げ油」の匂い。
つまり、『月待ち食堂』のメインとなる香りのすべてが、今の私にとっては猛毒となっていた。
「……無理です。厨房に入れません」
私は二階の寝室で、布団にくるまって呻いた。
一階から漂ってくる美味しそうな匂いが、換気扇を通して部屋に入ってくるだけで、胃が裏返りそうになる。
「シェリル、大丈夫か? 水なら飲めるか?」
ライオネル様が、甲斐甲斐しく看病してくれる。
彼は騎士団に長期休暇を申請したらしい。「妻の一大事だ、国より優先する」と言い放って。
「すみません……。お腹は空いているのに、何も食べたくないんです……」
お腹がグゥと鳴る。
赤ちゃんのためにも栄養を摂らなければいけないのに、食べ物を想像するだけで気持ち悪くなる。
このままでは、私が干からびてしまう。
「何か……さっぱりしたもので、匂いのしないものなら……」
「さっぱりしたものか。果物か?」
「果物もいいですけど……もう少し、お腹に溜まるものがいいです。……つるっとしていて、冷たくて、喉越しのいいもの」
私のわがままな注文に、ライオネル様は腕組みをして考え込んだ。
そして、ポンと手を叩いた。
「よし。俺に任せろ」
「え? ライオネル様が作るんですか?」
「ああ。お前が厨房に立てないなら、俺がやるしかないだろう。ギュスターヴたちには、お前専用の食事を作る許可は出せないからな」
彼は妙なところで独占欲を発揮し、腕まくりをして部屋を出て行った。
大丈夫だろうか。
彼は最近、少しずつ料理を覚えているとはいえ、まだ包丁使いは危なっかしい。
一時間後。
ドタバタという音と、何かを叩きつけるような音が下から響いてきた後、ライオネル様がお盆を持って戻ってきた。
彼の顔や服は、なぜか真っ白な粉まみれになっていた。
「……待たせたな。特製『冷やしうどん』だ」
彼が差し出した器を見て、私は目を見開いた。
そこには、不揃いながらも白く輝く麺が、氷水の中に浮かんでいた。
「うどん……? これ、麺から打ったんですか?」
「ああ。ザオから仕入れた小麦粉があっただろう? 見よう見まねだが、捏ねて、足で踏んで、切ってみた」
彼は照れくさそうに鼻の下を擦った。白い粉がついている。
騎士団長の剛腕で捏ねられたうどん。コシが凄そうだ。
具材はない。
ただ、麺の上に、たっぷりの『大根おろし』と、種を抜いて叩いた『梅干し』が乗っているだけ。
つゆは、冷やした薄味の出汁醤油。
「匂いはどうだ?」
「……大丈夫です。むしろ、梅の香りが……美味しそう」
酸っぱい香り。
それが、私の麻痺していた食欲中枢を刺激した。
私は起き上がり、箸を手にした。
麺を持ち上げる。
太いところや細いところがある、不恰好な麺。
それを、つゆに浸して口へ運ぶ。
チュルッ。
冷たい。
滑らかな舌触り。
噛むと、強烈な弾力が歯を押し返してくる。
「……んッ!」
美味しい。
小麦の素朴な甘み。
大根おろしの辛味と、梅干しの酸味が口いっぱいに広がり、胃のムカムカを洗い流してくれるようだ。
出汁の匂いも、冷たいせいか気にならない。
「どうだ? 食えるか?」
「はい……! すごく、美味しいです……!」
私は夢中で食べた。
喉を通る時の冷たさが心地よい。
一本、また一本。
止まっていた胃袋が動き出し、全身に染み渡っていくのを感じる。
完食して、器を置くと、ライオネル様がホッとしたように息を吐いた。
「良かった……。食わなきゃ、治るものも治らないからな」
「ありがとうございます。麺を打つの、大変でしたよね?」
「いや。敵を斬るよりは繊細な作業だったが……お前が食べると思えば、苦痛じゃない」
彼は私の手を取り、優しく握った。
「これからは、俺が作る。お前が食べたいものを、食べられる時に、俺が用意する。……だから、安心して休め」
その言葉が、どんな薬よりも効いた気がした。
頼もしいパパだ。
お腹の中の赤ちゃんも、きっと喜んでいる。
こうして、私の妊娠生活は幕を開けた。
つわりとの戦い。そして、過保護すぎる夫との、甘くて騒がしい日々の始まり。
翌日には、噂を聞きつけた父・ガラルド公爵が「孫のための部屋を作る!」と大工を引き連れて押しかけ、魔術師ルーカス様が「英才教育用の魔導書だ」と難解な本を山積みにしていくことになるのだが……それはまた、別のお話。
まずは、この命を無事に育むこと。
それが、私の新しいミッションだ。




