第10話
ヤマト皇国での滞在最終日。
港には、私たちを見送るために、信じられないほどの人が集まっていた。
「シェリル殿! 行かないでくれぇぇ!」
「もっと天丼を食わせてくれ!」
「味噌カツのタレだけでも置いてって!」
下町の民衆たちが涙ながらに叫んでいる。
そして、その最前列には、すっかり元気になった帝と、サクラ皇女の姿があった。
「……名残惜しいが、引き止めはせぬ」
帝は穏やかな笑顔で頷いた。
「そなたが蒔いた種は、すでに芽吹いておる。式部卿が失脚し、料理人たちが自由な発想で腕を振るい始めた。……ヤマトの食は、これからもっと豊かになるだろう」
「はい。楽しみにしています。いつかまた、食べに来ますね」
「うむ。……その時は、またあの『卵かけご飯』を頼むぞ」
帝は笑い、背後の近衛兵に合図をした。
ドサッ、ドサッ、と積み上げられたのは、麻袋の山だ。
「これは餞別だ。我が国で採れた最高級の『新米』と、献上品の『海苔』、そして『酒』だ。好きなだけ持っていくがよい」
「こんなに!? ありがとうございます!」
米俵十俵分はある。これなら当分、店での銀シャリ提供には困らない。
サクラ皇女が、私の手を握りしめた。
「シェリル殿。……余もいつか、必ずそちらへ行く。その時は、あの『三色おにぎり』の作り方を教えてくれ」
「ええ、待っていますわ。サクラ様」
そして、最後のお別れは――この国で神と崇められた、聖獣シロだ。
神官たちが、必死の形相でシロにすがりついている。
「白虎様! お戯れはおやめください! 貴方様がいなくなったら、誰がこの国の結界を維持するのですか!」
「どうか、神殿にお戻りを!」
しかし、シロは私の肩の上にひょいと飛び乗り、ふんと鼻を鳴らした。
『断る。神殿の飯は硬いし、冷たいし、愛がない』
「び、白虎様……!?」
『我は決めたのだ。この娘の作る飯こそが、我への最高の供物であると。……それに、結界ならば心配するな。我が「分霊」を置いていく』
シロが尻尾を振ると、ポロンと小さな光の玉が落ち、それが小さな白猫の姿に変わった。
分身だ。便利な神様である。
『本体はこやつについていく。……文句があるなら、こやつより美味い飯を作れるようになってから言え』
シロの宣言に、神官たちはぐうの音も出ないようだった。
こうして、私たちは盛大な見送りを受けながら、再び東方商人ザオの船『黒亀号』に乗り込んだ。
◇ ◇ ◇
銅鑼が鳴り、船が港を離れていく。
遠ざかるヤマトの街並み。
私は甲板の手すりに寄りかかり、少しだけ寂しい気持ちでそれを見つめていた。
「……寂しいか?」
背後から、温かい声がかかった。
振り返ると、潮風に銀髪を揺らすライオネル様が立っていた。
彼は私の隣に並び、同じように海を見つめる。
「少しだけ。……でも、満足です。ヤマトの人たちが、美味しそうにご飯を食べる顔を見られましたから」
「ああ。お前は本当に、料理で世界を変えてしまったな」
ライオネル様は優しく微笑み、私の腰に手を回した。
自然な動作。
ヤマトでの激動の日々を経て、私たち(というか彼)の距離感は、以前よりもずっと近くなっていた。
「さて、シェリル。……覚えているか?」
「え?」
「出発前に言ったはずだ。『船の上は二人きりだ』とな」
ドキリ、と心臓が跳ねる。
彼は私の顔を覗き込み、少し悪戯っぽく、でも真剣な瞳で言った。
「行きは船酔いでダウンしていたが……帰りは元気そうだな?」
「は、はい。もう慣れましたから」
「なら、いいな。……たっぷりと、俺の相手をしてもらおうか」
その言葉の意味を深読みしてしまい、私は顔を赤くした。
逃げ場のない船の上。
これから王都に着くまでの数週間、私たちは正真正銘、二人きり(+猫と商人)の時間を過ごすことになるのだ。
◇ ◇ ◇
その日の夕暮れ。
水平線に太陽が沈み、空が茜色から深い藍色へと変わる頃。
私たちは甲板で夕食をとることにした。
「へい! とびきり新鮮な魚が釣れたぜ!」
ザオが釣り上げたばかりの魚を捌いて持ってきてくれた。
透き通るような白身のタイに、脂の乗ったハマチ、そして赤いマグロ。
さらに、ヤマトで貰った大量の『海苔』と『新米』がある。
メニューは決まりだ。
船旅の締めくくりは、みんなでワイワイ楽しめる『手巻き寿司』パーティー!
私は酢飯を作った。
炊きたてのご飯に、酢と砂糖、塩を合わせた合わせ酢を回しかけ、うちわで扇ぎながら切るように混ぜる。
ツヤツヤと輝くシャリ。
それを大皿に盛り、ネタ(刺身)と、短冊状に切った海苔、そして薬味(わさび、大葉、卵焼き、きゅうり)を並べる。
「わぁ……豪華だな!」
ライオネル様が目を輝かせる。
ヤマト風の着流しから、いつもの騎士の軽装に戻った彼は、リラックスした様子で胡座をかいた。
「食べ方は簡単です。海苔にご飯と好きな具を乗せて、巻いて食べるだけ。……はい、どうぞ」
私は手本を見せるように、海苔にシャリを広げ、マグロと大葉を乗せてくるりと巻いた。
それをライオネル様の口元へ差し出す。
「あーん」
「……お前、最近俺の扱いが手慣れてきたな」
彼は苦笑しながらも、素直にパクッと食べた。
「ん……美味い! 酢飯のさっぱり感と、魚の脂が最高だ。海苔のパリパリした食感も楽しいな」
「でしょう? 自分好みにカスタマイズできるのが魅力なんです」
シロも負けじと、器用に魔力で海苔を操り、鰹節とタイの刺身を巻いて食べている。
ザオは酒を片手に、ハマチを肴にしている。
賑やかで、美味しい時間。
けれど、夜が更けてザオが酔い潰れ、シロが満腹で丸くなって寝始めると……甲板には静寂が訪れた。
満点の星空。
波の音だけが聞こえる世界。
私とライオネル様は、並んで座り、夜風に当たっていた。
「……夢みたいです」
私は膝を抱えて呟いた。
「追放された時は、こんな日が来るなんて思っていませんでした。異国の海の上で、こんなに美味しいものを食べて、大切な人と笑い合えるなんて」
「シェリル」
ライオネル様が、私の肩を抱き寄せた。
彼の体温が、夜風で冷えた肌に心地よい。
「俺もだ。剣だけが人生だと思っていた。……だが、お前が教えてくれたんだ。戦いの後には安らぎがあること。食事はただの補給ではなく、幸せを分かち合う行為だということを」
彼は私の手を握り、その指に口づけを落とした。
騎士の誓いのような、恭しく、熱のこもった口づけ。
「俺は、お前無しの人生にはもう戻れない。……王都に着いたら、正式に申し込むつもりだ」
「え……?」
「だが、今は待てない」
彼は私の顎に手を添え、顔を上げさせた。
月明かりに照らされた彼の瞳が、私を射抜く。
逃げられない。逃げたくない。
「……好きだ、シェリル」
囁きと共に、彼の唇が重なった。
優しく、触れるだけのキス。
潮風の味と、ほんの少しの酢飯の香り。
それが、どうしようもなく愛おしい。
一度離れて、目が合う。
彼はもう一度、今度は深く、情熱的に私を求めた。
体が熱い。
彼の腕の中に溶けてしまいそうで、私は彼のシャツをギュッと握りしめた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
唇が離れると、私たちは額を合わせ、互いの荒い息を感じ合った。
「……責任、取ってくれますよね? ライオネル様」
「ああ。一生かけてな」
彼は満足げに笑い、私を強く抱きしめた。
頭上には満天の星。
海の上、二人だけの世界。
ヤマトでの冒険は終わったけれど、私たちの本当の物語――「家族」になるための物語は、ここから始まるのだ。
◇ ◇ ◇
翌朝。
水平線の彼方に、懐かしい大陸の影が見えてきた。
「見えたぞ! 俺たちの国だ!」
ザオがマストの上で叫ぶ。
私はライオネル様と並んで、近づいてくる港を見つめた。
そこには、きっと大勢の人が待っている。
首を長くして待っている常連さんたち。
店を守ってくれている父やギュスターヴたち。
そして、私の帰る場所――『月待ち食堂』。
「帰りましょう、ライオネル様」
「ああ。……腹を空かせた連中が、待ち構えているぞ」
私たちは顔を見合わせて笑った。
最高のお土産を持って、いざ、王都へ。




