第4話
聖獣様(仮)がお帰りになった後、私は厨房で明日の仕込みを続けていた。
時刻は深夜。本来なら店じまいをして寝る時間だ。
けれど、私の手は止まらない。なぜなら、目の前には素晴らしい鶏肉があるからだ。
「やっぱり、お肉といえばこれよね」
ボウルの中には、一口大にカットした鶏もも肉。
そこに、すりおろしたニンニクと生姜、醤油、酒、そして隠し味の少しの砂糖を揉み込んでおく。
この世界には「醤油」に似た調味料が東方交易で入ってきているものの、使いこなせる料理人が少なく、ただの塩辛い黒い液体だと思われている。
だが、ニンニクや生姜と出会った時の爆発力を、彼らはまだ知らない。
「よし、いい感じに味が染みてる」
漬け込みは十分。
私は本来、これを明日のランチにするつもりだった。
だが、先ほどの焼き魚の匂いのせいで、完全に私の胃袋は「もっと濃いもの」を求めてしまっている。
――深夜の揚げ物。
それは、乙女(元悪役令嬢)にとって禁断の果実。背徳の味。
だからこそ、美味しいのだ。
私は片栗粉をたっぷりとまぶし、準備を整えた。
鍋の油が温まるのを待っている、その時だった。
カシャン、カシャン、カシャン。
路地裏の静寂を破り、重たい金属音が近づいてきた。
一定のリズムで刻まれるその音は、店の前でピタリと止まる。
ドンドンドン!
扉が叩かれた。控えめではない、切羽詰まったようなノックだ。
「……どちら様?」
まさか、さっきの猫ちゃんが友達を連れてきたわけではないだろう。
私は警戒しつつ、護身用の麺棒をカウンターの下に隠し持って扉を開けた。
そこに立っていたのは、巨大な鉄の塊――ではなく、全身を銀の鎧に包んだ騎士だった。
兜は小脇に抱えているが、その顔は恐ろしく険しい。
整った顔立ちではあるが、眉間の皺が深く、鋭い眼光は人を射殺せそうなほどだ。
私は彼の顔に見覚えがあった。
王宮騎士団長、ライオネル・バーンズ。
笑った顔を誰も見たことがないことから『鉄仮面』と恐れられ、その剣技は国内最強。
かつて私の婚約者だった王太子の剣術指南役でもあったはずだ。
(げっ……なんで騎士団長がこんなところに?)
私はとっさに扉を閉めようとしたが、ガシッと鉄の手甲で止められた。
「……店主、か」
声が低い。地を這うようなバリトンボイスだ。
「はい、そうですが。あいにく本日の営業は終了して……」
「この匂いは、なんだ」
ライオネル団長は、私の言葉を遮って鼻をひくつかせた。
その鋭い視線は、私ではなく、厨房の奥――油の入った鍋と、下味をつけた鶏肉に向けられている。
「……匂い、ですか?」
「任務の帰りだ。三日間、ロクなものを食っていない。王都に戻り、兵舎へ帰ろうとしたところ……この路地から、暴力的なまでに食欲をそそる香りが漂ってきた」
彼は一歩、ズイと踏み込んできた。
威圧感がすごい。けれど、よく見ると彼の顔色は青白く、目の下には隈ができている。
そして何より――。
グゥゥゥゥゥゥゥ……キュルルル……。
彼の重厚な鎧の中から、悲痛なほどの空腹音が鳴り響いたのだ。
「…………」
「…………」
沈黙が流れる。
最強の騎士団長の耳が、ほんのりと赤くなっているのを私は見逃さなかった。
「……金なら払う。言い値でいい。頼む、何か食わせてくれ」
その言葉は命令ではなく、懇願だった。
三日間絶食で激務をこなした男の、魂の叫び。
料理人として、いや、かつて同じ王宮の飯のマズさに絶望した同志として、これを見捨てるわけにはいかない。
「……はぁ。わかりました。どうぞ、お掛けください」
私が招き入れると、ライオネル団長はフラフラとカウンター席に倒れ込むように座った。
「メニューはありませんが、今から私が食べようとしていたもので良ければ」
「構わん。……早く、早くしてくれ」
禁断症状が出ている。
私は急いで厨房に戻り、調理を再開した。
油の温度は適温。
白い粉をまとった鶏肉を、一つずつ油の中へ滑り込ませる。
――ジュワァァァァ……ッ!
一気に大きな音が店内に響き渡った。
泡がぶくぶくと立ち上り、鶏肉を包み込む。
ニンニクと生姜、そして醤油が焦げる香ばしい匂いが、油の匂いと混ざり合って爆発的に拡散する。
「っ……!」
カウンターの方を見ると、ライオネル団長がカッと目を見開き、背筋を伸ばしてこちらを凝視していた。
その目はもはや獲物を狙う猛獣だ。
私は菜箸で肉を転がす。
衣が固まり、徐々に美味しそうな狐色へと変わっていく。
パチパチ、という音が軽くなってきた。中まで火が通ってきた証拠だ。
まだだ。ここで一度取り出し、数分休ませる。
そして高温の油で二度揚げする。
これこそが、カリッとジューシーな『唐揚げ』を作るための絶対の掟。
「……なぜ出した? まだか?」
一度バットに上げられた鶏肉を見て、団長が絶望的な声を上げた。
「美味しくするための魔法の時間です。あと二分、我慢してください」
「二分……永遠のように長いな……」
鉄の意志を持つ騎士団長が、唐揚げの前では駄々っ子同然になっている。
私は苦笑しながら、付け合わせの千切りキャベツを山盛りにし、櫛形に切ったレモンを添えた。
そして、冷えたエール(ビール)をジョッキに注ぐ。
「お待たせしました。仕上げ、いきます!」
温度を上げた油に、再び鶏肉を投入。
――カラカラッ! ジュワッ!
より高く、小気味よい音が響く。衣の水分が飛び、カリカリに仕上がっていく音だ。
黄金色に輝く肉の塊。
油を切って、キャベツの横にどさっ、どさっと積み上げる。
山盛りの『鶏の唐揚げ』の完成だ。
「どうぞ。揚げたてですので、火傷に気をつけて」
カウンターに皿を置いた瞬間、ライオネル団長の喉がゴクリと鳴った。




