第9話
帝による「無罪放免」の勅命が下ってから、数時間後。
私は王城の裏手にある、地下牢獄の出口で待っていた。
石造りの重厚な扉。
その向こうには、私のために自ら捕まった大切な人がいる。
「……遅いな」
隣で待つサクラ皇女が、そわそわと扇子を動かす。
東方商人ザオと聖獣シロも一緒だ。
ギギギ……と、錆びついた蝶番が鳴き、重い鉄扉がゆっくりと開いた。
暗い通路の奥から、足音が響く。
カツ、カツ、カツ。
力強く、迷いのない足音。
そして、陽の光の下に姿を現したのは――。
「……待たせたな、シェリル」
少し髭が伸び、浴衣がヨレてはいるものの、以前と変わらぬ精悍な表情のライオネル・バーンズ団長だった。
彼は眩しそうに目を細め、私を見つけると、優しく口角を上げた。
「ライオネル様……ッ!」
私は駆け出した。
公爵令嬢としての淑やかさなんて忘れて、彼の胸に飛び込んだ。
ガシッ。
彼がしっかりと受け止めてくれる。
その体温。匂い。硬い腕の感触。
ああ、無事だった。本当に帰ってきたんだ。
「無茶をしたな、シェリル。……帝に直談判とは、俺の想像を超えているぞ」
「だって……貴方がいないと、料理の味が決まらないんですもの」
私が涙声で訴えると、ライオネル様は愛おしそうに私の頭を撫で、そして力強く抱き締め返した。
「ありがとう。……お前が救ってくれた命、これからはお前のために使う」
「はい……!」
感動の再会。
二人の世界に入りかけていた私たちだが、背後から盛大な咳払いが聞こえた。
「ゴホン! ……熱いな。真昼間から当てられたわ」
サクラ皇女が扇子で顔を仰いでいる。
ザオはニヤニヤし、シロは「みゃう(我の活躍も忘れるなよ)」と足元で主張している。
ライオネル様は私を離すと、サクラ皇女に向き直り、騎士の礼をとった。
「皇女殿下。ご迷惑をおかけしました」
「よい。そなたが無事で何よりだ。……それに、父上(帝)も全快した。今夜は城で『快気祝い』と『食の解放』を祝う大宴会を開くそうだ」
サクラ皇女は、キラキラした目で私を見た。
「シェリル殿。……父上が、『どうしてもあの料理人の飯がもう一度食いたい』と申しておる。宴の料理、頼めるか?」
「もちろんです! ヤマトの皆さんに、本当の『美食』を教えて差し上げます!」
◇ ◇ ◇
その夜。
ヤマト王城の大広間は、かつてない熱気に包まれていた。
『清貧の令』が撤廃され、集められた貴族や官僚たちの前には、久しぶりのご馳走が並ぶ……はずだったが。
厨房に立った私は、ヤマトの宮廷料理人たちを指揮していた。
「いいですか! 今夜のテーマは『ガッツリ』です! 今まで我慢してきた分、カロリーで殴るような料理を出しますよ!」
「は、はいっ! シェリル様!」
かつて式部卿に従っていた料理人たちも、今では私の信者だ。彼らもまた、料理への情熱を抑圧されていたのだから。
私が選んだメインディッシュは――ライオネル様の大好物であり、ヤマトの調味料を最大限に活かした一品。
『味噌カツ』だ。
ヤマトの黒豚ロース肉を分厚くカットし、ラードでカラッと揚げる。
サクサクのトンカツ。これだけでも御馳走だが、今日はソースが違う。
鍋に、ザオが持ってきた『八丁味噌(に似た赤味噌)』、砂糖、酒、みりん、そして出汁を入れる。
弱火でじっくりと練り上げる。
黒く艶やかな、甘辛い味噌ダレ。
そこにすりごまをたっぷりと加え、風味を増す。
大皿に、千切りキャベツを山のように盛る。
その上に、揚げたてのトンカツをドーンと乗せる。
そして、熱々の味噌ダレを、惜しげもなくかける。
――トロ〜リ。
濃厚なタレが衣に染み込み、湯気と共に甘く香ばしい味噌の香りが広がる。
「さあ、運んで!」
大広間に料理が運ばれると、どよめきが起こった。
「な、なんだあの黒いタレは……?」
「揚げ物だ! おお、なんと芳しい!」
上座に座る帝は、すっかり顔色が良くなり、私の料理を待ち構えていた。
「シェリルよ。これが今夜の主菜か?」
「はい陛下。ヤマトの誇る『味噌』と、禁忌とされていた『揚げ物』の融合……『味噌カツ』でございます」
帝は箸を伸ばし、一切れを持ち上げた。
味噌ダレが滴るカツを、大きな口で頬張る。
――サクッ……ジュワッ!
帝の目がカッと見開かれた。
「ぬぉぉぉッ!? 濃い! 味が濃いぞ! だが、それがいい!」
帝が叫んだ。
「豚の脂の甘みを、この濃厚な味噌が受け止めている! 甘くて、辛くて、香ばしい! 白い飯だ! 誰か余に銀シャリを持て!」
その言葉を合図に、会場中の貴族たちがカツに食らいついた。
「うめぇぇぇ!」
「味噌って、こんなに美味しいものだったのか!?」
「ビール! いや、冷酒を持ってこい!」
そこはもう、厳粛な宮廷の宴ではなかった。
誰もが笑顔で、口の周りを味噌だらけにし、腹の底から笑い合っている。
これが、私が……私たちが作りたかった光景だ。
厨房の入り口でその様子を見ていた私は、ふっと息をついた。
すると、背後から温かい気配が近づいてきた。
「……お疲れ様、シェリル」
ライオネル様だ。
彼は私に、串に刺した味噌カツの一切れを差し出した。
「お前の分だ。厨房で忙しくて、食べてないだろう?」
「あ、ありがとうございます」
私が食べようと手を出そうとすると、彼はヒョイと手を引いた。
そして、自分の口元へ串を持っていくふりをして――私の口元へ突き出した。
「あーん」
「えっ、ここ、お城ですよ!?」
「関係ない。俺は今、猛烈にお前を甘やかしたい気分なんだ」
彼の瞳は、宴の熱気以上に熱く燃えている。
私は観念して、パクッとカツを食べた。
甘辛い味噌の味。サクサクの衣。そして、彼の優しさ。
噛みしめると、涙が出そうなくらい美味しかった。
「……美味しいか?」
「はい。とっても」
ライオネル様は満足げに笑い、私の唇についたタレを親指で拭った。
そして、誰にも聞こえない声で囁いた。
「この国での役目は終わったな。……そろそろ、帰ろうか。俺たちの『家』へ」
家。
『月待ち食堂』のことだ。
彼がそこを「俺たちの」と言ってくれたことが、何よりも嬉しかった。
「はい。……帰りましょう」
宴は夜更けまで続いた。
ヤマトの夜空には、復興を祝う花火が上がり、シロは帝の膝の上で最高級の刺身をねだっていた。
私たちの旅は、最高のフィナーレを迎えた。
あとは、帰りの船旅を残すのみ。
……そう、あの「二人きりの船旅」が、待っているのだ。




