第8話
王城の中庭に設置された特設会場。
早朝の冷たく澄んだ空気の中に、パチパチと薪が爆ぜる音が響いていた。
「……ふん。相変わらず貧相な支度だ」
対戦相手である式部卿が、鼻で笑いながらこちらを一瞥した。
彼の調理台には、金箔を施した漆器や、氷で冷やされた水晶の器が並んでいる。
彼に従う数十人の宮廷料理人たちは、音もなく繊細な包丁さばきで野菜を飾り切りし、透明な出汁を引いている。
それはまるで、神に捧げる儀式のように厳かで、そして冷たかった。
「陛下は病み上がりであらせられる。脂ぎった下品な料理など、一口たりとも喉を通らぬわ」
式部卿の言葉に、私は薪の火加減を調整しながら静かに答えた。
「下品かどうかは、食べてみてから判断してください。……それに、料理は神様に捧げるものではなく、人が食べるものです」
私は羽釜の蓋に手を置いた。
中では、今まさに新米が踊っている。
コトコト、チリチリ……。
水分が飛び、お米が炊き上がる直前の、あの微かな音が聞こえる。
(大丈夫。お米は完璧)
私は次なる工程に移った。
TKG(卵かけご飯)は、究極にシンプルな料理だ。だからこそ、それを支える「汁物」と「副菜」には、最強の布陣を敷く必要がある。
私が取り出したのは、豚肉の薄切りと、ごぼう、大根、人参、こんにゃく。
そして、ヤマトでは禁忌とされる『胡麻油』。
鍋を熱し、胡麻油を垂らす。
――フワァァッ……!
香ばしい胡麻の香りが、清浄な中庭の空気を切り裂いた。
「な、なんだその異臭は!?」
「油だ! 神聖な御前で油を使ったぞ!」
官僚たちが騒ぎ立てるが、私は構わず具材を炒める。
豚肉の脂が溶け出し、野菜をコーティングする。
そこへ出汁を注ぎ、味噌を溶き入れる。
根菜の土の香りと、豚の脂、そして味噌の発酵臭が混然一体となり、力強い「生活の匂い」が立ち上る。
『具だくさん豚汁』の完成だ。
さらに、七輪の上では『塩鮭』が焼けている。
皮がパリッと焦げ、ピンク色の身から透明な脂が滴り落ち、炭の上でジュッと煙を上げる。
この匂いの暴力。
御簾の向こうにいる帝の元へも、風に乗って届いているはずだ。
◇ ◇ ◇
「……両者、やめ!」
銅鑼の音が鳴り響いた。
調理終了だ。
「まずは、式部卿の料理からだ。心して運べ!」
先攻は式部卿。
彼が自信満々に捧げ持ったお盆には、透き通るような美しい料理が並んでいた。
『蓮根の水晶煮』、『蕪の淡雪スープ』、『湯葉の刺身』。
どれも白く、淡く、儚げだ。
これぞ、彼が提唱する「清貧」の極み。
御簾がわずかに上げられた。
そこに座していたのは、痩せ細り、顔色の優れない初老の男性――ヤマトの帝だった。
うつろな瞳は、目の前の料理を見ても輝かない。
「……陛下。我が身を清める、至高の精進料理でございます」
式部卿が恭しく勧める。
帝は震える手で匙を持ち、スープを一口、口に含んだ。
「…………」
無言。
帝はゆっくりと飲み込み、力なく呟いた。
「……清らか、だな」
「ははっ! ありがたき幸せ!」
式部卿が平伏する。
だが、私は見逃さなかった。帝がスプーンを置き、それ以上食べようとしないことを。
「清らか」という言葉は、裏を返せば「味がしない」「精気がない」ということだ。
生きる力が枯渇している人間に、あんな水のような料理を出してどうする。
「……次は、異国の料理人よ。参れ」
侍従の声がかかる。
私はお盆を持ち、御簾の前へと進み出た。
式部卿がすれ違いざまに、「ふん、貴様の油料理など、陛下が口になさるはずがない」と囁いたが、無視する。
私はお盆を、帝の目の前にある台に置いた。
そこに並んでいるのは、宮廷料理とはかけ離れた「食堂の朝ごはん」だ。
湯気を立てる豚汁。
皮が焦げた焼き鮭。
小皿に盛られたお漬物。
そして――おひつに入った、炊きたての銀シャリと、オレンジ色に輝く生卵。
「……なんだ、これは」
帝が眉をひそめた。
その視線は、豚汁に浮いた油の膜と、生卵に釘付けになっている。
「陛下。これは『卵かけご飯定食』でございます」
「卵かけ……? 卵を生で食うというのか?」
「はい。……陛下。貴方様は今、お腹が空いておられますか?」
私の問いに、帝は自嘲気味に笑った。
「空いておらぬ。……もう何ヶ月も、腹が減るという感覚を忘れてしまった。ただ、生きるために義務として水と粥を流し込んでいるだけだ」
「でしたら、まずはこの『音』をお聞きください」
私はおひつの蓋に手をかけた。
そして、パカッ、と勢いよく開けた。
――フワァァァァ……!
真っ白な湯気が、キノコ雲のように立ち昇った。
その向こうから現れたのは、一粒一粒が立ち上がり、宝石のように光を反射する「銀シャリ」だ。
「……!」
帝の目が、わずかに見開かれた。
お米の甘く、芳醇な香り。
それはヤマトの民にとって、DNAに刻まれた「幸福の記憶」を呼び覚ます香りだ。
「私がよそいますね」
私は茶碗にご飯をふんわりと盛った。
そして、中央に窪みを作る。
そこに、聖獣シロが持ってきた『鳳凰の卵』を割り落とす。
――プルンッ。
弾けるような弾力を持つ、濃いオレンジ色の黄身。
白身も盛り上がり、新鮮さを主張している。
その上から、ザオ特製の『再仕込み醤油』を、たらり、たらりと回しかける。
黒い醤油が黄身の上を滑り落ち、白いご飯に染みていく。
「さあ、陛下。……熱いうちに、豪快にかき混ぜて召し上がってください」
目の前に差し出された茶碗。
湯気と共に、醤油の香ばしさと、卵の濃厚な香りが漂う。
帝の喉が、ゴクリと鳴った。
式部卿が叫ぶ。
「なりません陛下! そのような不浄なものを!」
だが、帝の手は止まらなかった。
何かに取り憑かれたように箸を取り、茶碗の中をかき混ぜた。
黄身が崩れ、醤油と混ざり合い、ご飯一粒一粒を黄金色にコーティングしていく。
ネチャ、ネチャという音が、なんとも背徳的で、食欲をそそる。
「……いただく」
帝は茶碗に口をつけ、ズルズルッとかきこんだ。
その瞬間。
時が止まった。
「…………ッ!?」
帝の瞳孔が開いた。
やせ細った頬に、一瞬で赤みが差す。
熱いご飯の熱気。
冷たい卵の喉越し。
鳳凰の卵が持つ、圧倒的なコクと生命力。
そして、醤油の塩気と旨味が、それら全てをまとめ上げている。
「あ、甘い……! 米とは、卵とは、これほど甘かったか……!」
帝は咀嚼した。
噛む必要すらないほど滑らかに、喉の奥へと滑り落ちていく。
飲み込んだ後、胃の腑からじんわりと温かいものが広がっていくのを感じた。
「……美味い」
帝の声が震えた。
「味がする……! 生きている味がするぞ!」
帝は箸を止めることなく、二口、三口とかきこんだ。
合間に『豚汁』をすする。
ごま油の風味と、豚肉の脂。味噌の塩気。
それが、卵でまったりとした口の中を洗い流し、次の一口を欲させる。
そして『焼き鮭』。
塩辛い皮ごと齧れば、白米の甘さがさらに際立つ。
ガツガツ、ズルズル。
御簾の向こうから聞こえるのは、高貴な方にあるまじき、しかし生命力に溢れた食事の音だった。
あっという間に茶碗が空になった。
帝は「ふぅ……」と長く息を吐き、そして――ポロポロと涙を流し始めた。
「陛下!?」
「……思い出したのだ」
帝は涙を拭おうともせず、天井を仰いだ。
「幼き頃……母上が、お忍びで作ってくれた『ねこまんま』の味を」
「母上の……?」
「母上は言っていた。『人は、美味しいものを食べている時が一番幸せなのだ』と。……だが、私はいつの間にかそれを忘れていた。伝統だ、格式だと飾り立て、料理から『心』を削ぎ落としていたのだ」
帝は私を見た。
その目は、もう虚ろではない。生きる意思の光が宿っていた。
「そなたの料理には、母上の料理と同じ『温度』があった。……ただ腹を満たすだけではない。心を温め、明日を生きる活力をくれる、太陽のような料理だ」
帝は立ち上がり、式部卿を睨みつけた。
「式部卿よ。余は目が覚めたぞ」
「へ、陛下……しかし、それは異国の毒で……」
「黙れ! 余を殺そうとしていたのは、毒ではなく、貴様の勧める『虚無』であったわ!」
一喝。
式部卿がその場にへたり込む。
「この料理人……シェリルの勝利とする! 余は満たされた。これほど幸福な朝餉は、何十年ぶりであろうか」
帝は私に向かって、深く頷いた。
「礼を言う、シェリルよ。そなたのおかげで、余はまた、ヤマトの民のために生きようと思えた」
「もったいないお言葉です、陛下」
私は深く頭を下げた。
勝った。
私の料理が、帝の心を救ったのだ。
「……さて。約束であったな」
帝は表情を引き締め、近衛兵たちに命じた。
「直ちに地下牢へ行き、異国の騎士ライオネルを解放せよ! そして彼には、国賓としての礼を持って遇せよ!」
「ははっ!」
「それから式部卿! 貴様には『清貧の令』を即時撤廃し、食料庫を全て開放することを命じる! ……罰として、貴様は一ヶ月間、貴様が推奨していた『味のない粥』のみで過ごすがよい!」
「ひぃぃぃっ! お助けをぉぉぉ!」
式部卿が引きずられていく。
その悲鳴は、ヤマトの新しい夜明けを告げるファンファーレのようだった。
私は胸の前で手を組んだ。
これで、ライオネル様が帰ってくる。
早く会いたい。
そして伝えたい。
「貴方を助けるために作ったご飯、最高に美味しくできましたよ」って。




