第3話
開店初日の夜。
『月待ち食堂』の客席は、静寂に包まれていた。
「……うん、知ってた」
私はカウンターに頬杖をつき、誰もいない入り口を見つめる。
時計の針は既に夜の八時を回っている。
人通りもまばらな裏路地、看板も出したばかり、宣伝もゼロ。これでお客さんが来たら奇跡だ。
だが、私は決して落ち込んではいなかった。
むしろ、この静けさが愛おしい。
誰かの顔色を窺う必要も、派閥争いに巻き込まれることもない。ここは私だけの城なのだから。
「でも、食材が余っちゃうのはもったいないわね」
私は厨房へ戻り、木箱の中を覗き込んだ。
今日の仕入れで見つけた、丸々と太った『アジ』のような魚。
この世界の人は魚といえばムニエルかスープにするのが主流で、こういう青魚は「臭みがある」と敬遠されがちだ。
けれど、私にはわかる。
この澄んだ目、張りのあるお腹。これは間違いなく、焼けば化ける逸品だ。
「私自身の晩御飯にしちゃいましょう」
私は魚の下処理を済ませると、身の両面に十字の飾り包丁を入れた。
そして、少し高めの位置からパラパラと粗塩を振る。『振り塩』だ。
こうすることで、魚の余分な水分が抜け、旨味が凝縮される。
焼き台に炭を並べ、魔法で着火。
網が十分に熱くなったところで、魚をのせる。
――ジューッ……。
皮が焼ける音と共に、白煙が立ち昇った。
パチパチと炭が爆ぜる音。
次第に、脂の焦げるたまらない香りが店内に充満していく。
「ああ……これよ、これ」
換気扇(これも風魔法の応用で作った魔導具だ)が、煙を外へと吐き出していく。
この香ばしい匂いは、今ごろ路地裏を漂い、夜風に乗って流れていることだろう。
日本人(の前世を持つ私)なら、この匂いを嗅いで素通りできるはずがない。まあ、この世界の人には「焦げ臭い」と思われるかもしれないけれど。
皮目がパリッと狐色になり、切れ込みからフツフツと透明な脂が溢れてきた。
身がふっくらと膨らんでいく。
最高だ。塩むすび、豚汁ときて、焼き魚。私の食生活、充実しすぎている。
その時だった。
カリカリ、カリカリ。
勝手口の方から、何かを引っ掻くような音が聞こえた。
風の音かと思ったが、違う。明らかに何かが「入りたがって」いる。
「……どなた?」
私は火加減を見つつ、警戒しながら勝手口の扉を少しだけ開けた。
強盗ならフライパンで撃退する覚悟だったが、そこにいたのは――。
「みゃあ」
一匹の、小さな猫だった。
全身の毛は真っ白……と言いたいところだが、薄汚れて灰色になっている。
けれど、その瞳は夜空のように深いサファイアブルー。宝石のように輝いていた。
「あら、猫ちゃん? お腹空いたの?」
「みゃう、みゃう!」
猫は私の足元にすり寄り、必死に厨房の方を見上げている。
その鼻はひくひくと動き、視線は一直線に焼き台の上の魚に釘付けだ。
「ふふ、鼻がいいのね。君もお魚が好きなの?」
この匂いに釣られた最初のお客様が、人間ではなく猫だとは。
私は苦笑しながら、ちょうど焼き上がったアジを皿に移した。
熱々の身を箸でほぐす。
パリッという音と共に皮が割れ、湯気がほわんと立ち上る。
中の身は真っ白で、ほろほろと柔らかい。
「はい、骨は取ってあげるから待っててね」
私は小皿に取り分けた身を冷まし、勝手口の前に置いてやった。
猫は「待ってました!」と言わんばかりに飛びついた。
ハフハフ、ガツガツ。
一心不乱に食べている。よほどお腹が空いていたのだろう。
脂の乗った身を噛みしめるたび、猫の喉がゴロゴロと鳴る。
「美味しい? よかった」
私は残りの魚を自分の口に運んだ。
皮の香ばしさと塩気、そして溢れ出す脂の甘み。
白いご飯が欲しくなる味だ。
「みゃう……(至福じゃ……)」
「え?」
今、何か聞こえたような?
足元を見ると、綺麗に完食した猫が、満足げに顔を洗っているところだった。
見間違いか、猫の体がぼんやりと淡い光を帯びているように見える。
猫は私の顔をじっと見上げると、スッと背筋を伸ばして座った。
その姿は、薄汚れているはずなのに、どこか気高く、神々しさすら感じさせた。
「にゃーん(礼を言うぞ、娘よ。久々に生きた心地がした)」
「……しゃ、喋った!?」
私が驚いてスプーンを取り落とすと、猫は「しまった」という顔を一瞬だけして、すぐに「ただの猫ですけど?」みたいな顔で「みゃ〜ん」と甘い声を出した。
いや、今のは完全に脳内に直接語りかけてきていた。
猫は私の足に頭をこすりつけ(モフモフとした感触が心地よい)、くるりと踵を返して闇夜へと消えていった。
その去り際、私のエプロンのポケットに、何かが『コロン』と入った感触があった。
慌てて取り出してみると、それは透き通るような青い結晶石。
魔力を秘めた宝石のようにも見える。
「これ……もしかして、お代?」
呆然とする私の耳に、風に乗って再びあの声が届く。
『その焼き方、見事であった。また来るゆえ、席を空けておくがよい』
「…………」
聖獣。
この国を守護すると言われる伝説の存在。
まさかとは思うが、伝説の聖獣様は、どうやら焼き魚(塩味)がお好きだったらしい。
「最初のお客様が聖獣様だなんて……この店、大丈夫かしら」
私は青い石を握りしめ、夜空を見上げた。
まあ、いいか。美味しそうに食べてくれたし。
こうして『月待ち食堂』は、開店初日に人間ゼロ人、聖獣一匹という奇妙な実績を叩き出したのだった。
だが、この「焼き魚」の匂いは、聖獣だけでなく、もう一人の厄介な……いや、大食らいの人物をも呼び寄せようとしていた。
夜の闇の向こうから、カシャン、カシャンと、重厚な金属音が近づいてくる――。




