第12話
王都の中央広場は、水を打ったような静寂に包まれていた。
数千人の観衆が固唾を飲んで見守る中、審査員席には三皿の『至高のビーフカレー』が鎮座している。
艶やかな褐色のソース。
純白に輝く銀シャリ。
そして、スプーンで触れるだけで崩れそうなほど煮込まれた、特大の霜降り肉。
立ち上る香りは、先攻のヴァレリオ王子が出した『仔羊のロースト』のような華やかなハーブの香りとは違う。
もっと根源的で、胃袋を鷲掴みにし、脳髄に「腹が減った」という信号を強制送信するような、魔性の香りだ。
「……では、実食」
合図と共に、父・ガラルド公爵がスプーンを手に取った。
その表情は硬い。
彼は「肉至上主義者」であり、煮込み料理を「肉への冒涜」とみなしている。今回の最高級リブロースを提供したのも、「娘の無謀な挑戦を看取るため」という側面があったはずだ。
「……見た目は泥のようだが」
父は独り言のように呟き、スプーンを皿に入れた。
――スッ。
抵抗感ゼロ。
スプーンの先が、巨大な肉の塊に触れた瞬間、肉は自らの重みでほろりと解けた。
繊維の一本一本まで柔らかく煮込まれている証拠だ。
「む……?」
父の眉がピクリと動く。
そのまま、カレーソースとご飯を適量すくい上げ、口へと運んだ。
ハムッ。
広場中の視線が、父の咀嚼する口元に集中する。
父はゆっくりと口を動かした。
一度、二度。
そして――。
ガチャン。
スプーンが皿の上に落ちた。
「氷の閣下」と恐れられる父の瞳が、驚愕に見開かれ、小刻みに震え始めた。
「……なんだ、これは」
絞り出すような声だった。
「口に入れた瞬間は……甘い? 果実のようなフルーティーな甘みと、炒めた玉ねぎの芳醇な香りが広がる。……だが、すぐに追いかけてくる! 数十種類のスパイスが複雑に絡み合った、鮮烈な辛味が!」
父は額にうっすらと汗を浮かべた。
「辛い! だが、痛くない! この辛さが唾液を溢れさせ、次の一口を猛烈に誘引する! そして何より――肉だ!」
父は再びスプーンを握りしめ、崩れた肉をすくい上げた。
「煮込んでいるのに、肉の味が抜けていない……いや、むしろ凝縮されている! 焼いて閉じ込めた旨味と、ソースに溶け出した脂の甘みが、口の中で爆発する! 噛む必要すらない、舌の上でバターのように溶けて消えていく……!」
父の「煮込み料理嫌い」の理論が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
パサつきなど微塵もない。これは「飲む肉」だ。
隣では、フレデリック陛下がすでに我を忘れてスプーンを動かしていた。
「うまいッ! この『銀シャリ』との相性が異常だ!」
陛下は米とルーを豪快に混ぜ合わせ、かきこんでいる。
「このとろみのあるソースが、一粒一粒の米に絡みつく! 米の淡白な甘みが、スパイスの刺激を受け止め、完璧な調和を生み出しているぞ! パンではダメだ、ナンでもない! この料理には、このジャポニカ米でなければ完成しない!」
陛下は皿の端に添えられた、真っ赤な『福神漬け』を口にした。
――ポリッ、カリッ。
「おおぉ……! この歯ごたえ! 濃厚になった口の中を、根菜の甘酸っぱさがリセットしてくれる! これがあることで、カレーの味が再び鮮明になる……無限機関だ! 誰か、おかわりを持ってまいれ!」
王としての威厳などかなぐり捨て、陛下は皿を舐めんばかりの勢いだ。
そして、最後の審査員。
敵国ガレリアの大使。
彼はスパイスの本場の人間として、厳しい目でカレーを見つめていた。
しかし、一口食べた瞬間、彼は天を仰いだ。
「……信じられん」
大使は震える声で呟いた。
「我が国の料理は、スパイスの『個』を際立たせるもの。……だが、この料理は違う。全てのスパイスが、油と小麦粉という触媒によって融合し、全く新しい『一つの味』になっている」
彼はルーカス様(魔術師)のような分析を口にした。
「これは錬金術だ。混沌の中に秩序がある。……悔しいが、我が国のローストよりも、味の深みが数段上だ」
大使の完敗宣言。
その言葉は、マイク(拡声の魔導具)を通して広場全体に響き渡った。
「うおおおおおっ!!」
「すげええええ! あのガレリアが認めたぞ!」
「匂いだけで美味いもんな! 俺たちにも食わせろー!」
観客たちのボルテージが最高潮に達する。
そんな中。
呆然と立ち尽くす人物が一人。
対戦相手である、ヴァレリオ王子だ。
「馬鹿な……。余の『30種のスパイスロースト』が、あんな泥のような煮込みに負けたというのか……?」
彼はふらふらと審査員席に近づき、父・ガラルド公爵の皿に残っていた一口分を、横から指ですくい取って舐めた。
ペロリ。
瞬間。
王子の全身に電流が走った。
「ッ……!?」
カッ! と目が見開かれる。
「なんだこのコクは! ただのスパイスではない……この奥底にある、妖艶なまでの甘みと香りは!」
彼は私の調理台の方を振り返った。
そこには、空になった蜂蜜の瓶と、すりおろしたリンゴの残骸がある。
「……『魔蜂蜜』に、『完熟魔林檎』か!? どちらもSランク指定の希少食材……! それを隠し味に使うなど、どれほどの贅沢だ!」
「素材だけではありません」
私は静かに告げた。
「玉ねぎを三十分炒め続け、スパイスを油で爆ぜさせ、スープを一晩寝かせる。……貴方の料理が『足し算』なら、カレーは『時間と手間の掛け算』です」
「時間の……掛け算……」
ヴァレリオ王子は膝から崩れ落ちた。
美食を極めた彼だからこそ、理解してしまったのだ。
その一口に込められた、途方もない手間と、計算され尽くした味の設計図を。
「……負けだ」
王子はガックリと項垂れた。
「余の完敗だ。……約束通り、店には手出しせん。国へ帰ろう」
彼が背を向けた、その時だった。
「お待ちなさい」
私が呼び止めると、王子は力なく振り返った。
「……なんだ。勝者の説教か? それとも奴隷契約の破棄金でも請求するか」
「いいえ。……まだ鍋に余っていますけど、食べていきますか?」
私は寸胴鍋をお玉でカチンと鳴らした。
「負けたまま帰ると、ご飯が美味しくないでしょう? お腹いっぱい食べて、『美味しかったな』と思って帰っていただくのが、当店の流儀ですので」
王子は目を丸くした。
そして、クンクンと鼻を動かし、鍋から漂う香りに引き寄せられるように、フラフラと戻ってきた。
「……金は、払うぞ。倍額だ」
「はい、毎度あり」
私は大盛りのカレーライスを彼の前に置いた。
王子はガツガツと、それこそ獣のようにカレーをかきこんだ。
涙と鼻水を流しながら、一心不乱に。
その姿は、もう『暴食の覇王』ではなく、ただの『カレーに魅了された少年』だった。
◇ ◇ ◇
騒動が終わり、夕暮れ時。
広場の片付けが終わった後、私は父・ガラルド公爵と向かい合っていた。
父は満足げに、しかしどこか気まずそうに、ステッキを弄んでいる。
「……見事だった」
父がぽつりと言った。
「煮込み料理への偏見、そして隣国の圧力。すべてを料理一つで跳ね返したな。……我が娘ながら、恐ろしい才能だ」
「お父様のお肉のおかげです。あのお肉がなければ、あのとろける食感は出せませんでした」
「ふん。まあ、素材を見る目だけは養ってやったつもりだ」
父はそっぽを向きながらも、口元が緩んでいるのを隠せていない。
「……シェリル」
父が私の名前を呼んだ。
その声色は、いつもの威圧的なものではなく、不器用な父親のものだった。
「お前が選んだ道は、決して平坦ではないだろう。油にまみれ、客に頭を下げる日々だ。公爵令嬢としての幸せとは程遠い」
「ええ。でも、私は今が一番幸せです」
「……そうか」
父は短く頷き、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
それは、私の『勘当証明書』だった。
父はそれを両手で持ち、ビリビリと破り捨てた。
「えっ?」
「勘当は取り消す」
父は破り捨てた紙吹雪の中で、ニヤリと笑った。
「ただし、家には戻らなくていい。ウォルター公爵家は、本日をもって『月待ち食堂』への出資者となる」
「スポンサー……?」
「ああ。店の権利の一部を私が持つ。そうすれば、他国が手を出そうとしても『公爵家の事業』として守ることができるからな」
なるほど。
家に戻れとは言わない。けれど、法的に私を守るための盾になるということか。
なんて回りくどい、そして強力な愛情表現だろう。
「それに……出資者ならば、優先的に予約を入れる権利があるだろう?」
父は咳払いを一つした。
「来週の休み、また来る。……次は、その、なんだ。『カツ丼』というのを食わせろ。ライオネルがうるさいのだ」
「ふふっ。はい、喜んで。最高の一杯をご用意しておきます」
私が答えると、父は満足そうに頷き、セバスチャンを連れて馬車へと戻っていった。
その背中は、来た時の凍りつくような冷たさは消え、夕陽を浴びて温かく見えた。
◇ ◇ ◇
こうして、隣国の脅威は去り、実家との確執(?)も解消された。
店に戻ると、ライオネル団長たちが「カレー鍋の底に残った焦げ」を巡って争奪戦を繰り広げていた。
「こら! 行儀が悪いですよ!」
「だって店主! ここが一番美味いんだ!」
「みゃう(我にもよこせ!)」
騒がしくも愛おしい、いつもの日常。
翌日。
公爵家から、屈強な男たちが数名派遣されてきた。
彼らは父子飼いの「公爵家専属料理人」たちだった。
「シェリルお嬢様! いや、師匠! 我々に『煮込み』の極意をご教授ください!」
「あの旦那様を唸らせた技術、学ばせていただきます!」
どうやら父は、スポンサー契約だけでなく、人的支援(という名の弟子入り)まで送り込んできたらしい。
これで厨房の人手不足も解消だ。
さらに数日後。
ガレリア王国から、定期便が届くようになった。
送り主はヴァレリオ王子。
中身は、最高級のスパイスセットと、『次は負けん! 新メニューができたら一番に連絡しろ!』という手紙。
どうやら彼もまた、厄介な常連客の一人に加わってしまったようだ。
私はエプロンを締め直し、厨房に立つ。
店主は元悪役令嬢。
用心棒は聖獣と騎士団長と筆頭魔術師。
スポンサーは宰相。
ライバルは隣国の王子。
世界一豪華で、世界一騒がしい定食屋『月待ち食堂』。
さて、今日のメニューは何にしようか。




