第9話
――ジュウウウウ……。
『月待ち食堂』のカウンターに、脂の焦げる音が静かに、しかし力強く響いていた。
熱された鉄鍋の上で、白い牛脂の塊がゆっくりと溶け出し、透明な液体へと変わっていく。
その様子を、父、ガラルド・ウォルター公爵はハンカチで鼻を覆いながら、氷のような瞳で見下ろしていた。
「……臭いな」
父が短く吐き捨てた。
「牛の脂身など、精肉の過程で真っ先に捨てられる廃棄物だ。それをわざわざ熱して煙を出すなど、正気の沙汰とは思えん。服に臭いがつく」
「この香りが良いのです。脂こそが肉の旨味の源泉ですから」
私は動じることなく、さらに鍋へ食材を投入した。
ぶつ切りにした『長ネギ』だ。
――ジューッ!
牛脂の海にネギが飛び込んだ瞬間、厨房の空気が一変した。
動物的な脂の匂いが、ネギの焦げる芳ばしい香りと混ざり合い、一気に食欲をそそる「料理の香り」へと昇華される。
「……む?」
後ろに控えていた執事のセバスチャンが、ピクリと鼻を動かした。
店内に残っていた常連客たち――ライオネル団長やルーカス様も、ゴクリと喉を鳴らす。
だが、父の表情は険しいままだ。
「小手先の香り付けか。だが、肝心なのは肉だ。……煮込み料理を作るという話だったな? どうせ、硬いスネ肉を水で煮るのだろう」
「いいえ。使うお肉は、こちらです」
私はザオから仕入れた、最高級の『霜降りリブロース』を皿に広げて見せた。
鮮やかな紅色の赤身に、雪の結晶のように細かく入り組んだ白い脂。
常温でも溶け出しそうなほど繊細なその肉を見て、父は眉間に深い皺を刻んだ。
「……なんだ、その白っぽい肉は」
予想通りの反応だ。
赤身至上主義の父にとって、サシの入った肉は「脂身だらけの低級品」にしか見えない。
「病気の牛か? あるいは、運動不足で肥え太った駄牛か。……シェリル。公爵家の娘が、このような脂の塊を『最高級』と呼ぶなど、嘆かわしいにも程がある」
「食べてから仰ってください。これは病気ではなく、東方の特別な技術で育てられた芸術品です」
私は菜箸で、大判の霜降り肉を一枚持ち上げた。
ペロン、と重力に従ってしなやかに垂れ下がる。
それを、ネギの香りが移った脂の上へ、広げるようにして置く。
――ジュワァァァァァ……ッ!!
今日一番の、激しい音が弾けた。
鉄鍋の高温が、霜降り肉の脂を一瞬で気化させる。
立ち上る白煙。
肉の淵がチリチリと焼け、ピンク色が淡い褐色へと変わっていく。
「焼いている……? 煮込み料理ではなかったのか?」
「ここからです」
私は肉の上から、躊躇なく『砂糖』を振りかけた。
それも、ひとつまみではない。スプーン山盛り一杯だ。
「なっ……!?」
父が思わず腰を浮かせた。
冷静沈着な「氷の閣下」が、目を剥いて驚愕している。
「き、貴様、何を血迷った! 肉に砂糖だと!? 菓子でも作るつもりか!?」
「静かに見ていてください。これが美味しくなる魔法なんです」
肉の熱で砂糖が溶け、飴状になっていく。
そこへ、すかさず『醤油』を回しかける。
――ジャァァァッ!! ブワワッ!
醤油が鉄鍋肌で焦げ、砂糖と混じり合う。
メイラード反応。
糖とアミノ酸が加熱されて生まれる、褐色物質と芳香成分の爆発。
甘く、焦げ臭く、そして暴力的なまでに食欲を中枢神経に叩き込む、最強の香り。
これぞ、関西風すき焼きの真骨頂。
割り下で煮るのではなく、肉を焼いて味付けをするスタイルだ。
「ぐっ……!?」
父が呻いた。
ハンカチで鼻を覆っているが、その隙間から侵入してくる「文明の香り」に、本能が抗えない様子だ。
後ろのセバスチャンに至っては、あからさまにお腹の音が鳴るのを必死に堪えている。
私は肉を裏返し、タレを絡める。
飴色に輝く肉。脂とタレが混然一体となり、照り輝いている。
「……さて。お肉に火が通るまで、少しお話ししましょうか」
私は火加減を弱め、父の目を見た。
今だ。
肉の香りで父の理性を揺さぶっている今なら、本音が聞けるはずだ。
「お父様。貴方は『恥さらし』と言いましたね。……では、なぜ一ヶ月もの間、私を放置していたのですか?」
「…………」
「貴方の情報網なら、私が廃屋を買ったことも、店を開いたことも、翌日には把握していたはずです。本当に恥だと思っているなら、なぜすぐに連れ戻しに来なかったのです?」
父は口を真一文字に結び、煮え切らない視線を鍋の肉に向けたまま、重い口を開いた。
「……勘違いするな」
低い声だった。
「私は、王家の決定になど同意していない」
「え?」
「あの愚かな王太子が、聖女とかいう小娘にうつつを抜かし、正当な婚約者であるお前を追放した。……その理不尽な通告に対し、私は公爵家として最大の『抗議』を示していたのだ」
父はステッキを握りしめた。
「即座に騒ぎ立てれば、お前の醜聞が広まるだけだ。だから私は沈黙を守った。同時に、王家への資金援助を凍結し、議会での法案審議を全てボイコットした。……向こうが音を上げて、お前に頭を下げてくるのを待っていたのだ」
「資金援助の凍結……?」
初耳だった。
そういえば、最近ジュリアン様が「王宮の予算が足りない」とぼやいていたような気がする。あれは父の仕業だったのか。
「それに、だ」
父はバツが悪そうに視線を逸らした。
「お前は……幼い頃から、妙に自立心が強かった。追放された翌日には自力で家を確保し、商売を始めたという報告を聞いて……私は手出しをする機を逸したのだ」
「機を逸した?」
「下手に介入すれば、お前のプライドを傷つけるかもしれん。……金に困って泣きついてくるのを待っていたのに、お前ときたら、騎士団長やら魔術師やらを味方につけて、勝手に繁盛させているではないか」
父の声には、怒りよりも、どこか拗ねたような響きがあった。
「私が無関心だったわけではない。セバスチャンを使いに出したのも、お前の生活状況を確認するためだ。……まさか、こんな油まみれの店で、生き生きとしているとは思わなかったがな」
私は呆気にとられた。
要するに、この最強の父は。
娘が心配で、王家に経済制裁を加えつつ、娘が「お父様助けて」と帰ってくるのをじっと待っていたというのか。
それなのに、娘が予想外にたくましく生きていくものだから、タイミングを見失って拗ねていたと?
「……ふっ」
思わず笑いがこぼれた。
なんだ。
「氷の閣下」なんて呼ばれているけれど、中身はただの不器用な父親じゃないか。
「何がおかしい」
「いえ。……ただ、少し安心しました。貴方が私を捨てたわけではなかったと知って」
私は鍋に向き直った。
肉は最高の状態に焼き上がっている。
タレが煮詰まり、濃厚な香りがピークに達している。
「では、仕上げです」
私は小鉢を差し出した。
中に入っているのは、溶いた『生卵』だ。
「……なんだ、それは」
父が再び警戒心を露わにした。
「黄色い液体……卵か? まさか、生のままではないだろうな?」
「生卵です」
「馬鹿な! 卵は完全に火を通さなければ毒だ! 腹を壊すぞ!」
この世界の常識だ。
冷蔵技術も衛生管理も未発達なこの世界では、卵はサルモネラ菌(に似た菌)の温床であり、生食は自殺行為に等しい。
だが。
「大丈夫です。これはシロ……うちの『用心棒』が、特別な管理下にある養鶏場から仕入れてきた、朝採れの卵です。さらに、殻の表面も中身も、洗浄魔法で殺菌済みです」
カウンターの隅で、シロが「みゃう(我の目利きを疑うとは失敬な)」と鳴いた。
「熱々の肉を、この冷たい卵にくぐらせて食べるんです。これが『すき焼き』の作法です」
私は鍋から、タレの絡んだ一枚肉を取り出し、父の前の小鉢に入れた。
ジュッ。
肉の熱で、卵液が少しだけ白く固まる。
茶色い肉が、黄色いドレスを纏った瞬間だ。
「さあ、お父様。毒見のつもりで、一口どうぞ」
父は喉を鳴らした。
目の前にあるのは、嫌いなはずの脂身の肉。
信じられない砂糖と醤油の味付け。
そして、恐怖の対象である生卵。
すべての要素が、父の「食の常識」に反している。
だが、その香りは。
抗いがたい魅力で、父の手を動かした。
「……よかろう。これが私の最後の晩餐にならぬことを祈る」
父は覚悟を決め、フォークで肉を刺した。
たっぷりと卵を絡ませ、口へと運ぶ。
――ハムッ。
静寂。
店中の時間が止まったかのような、長い数秒間。
父はゆっくりと咀嚼した。
一度。二度。
「…………ッ!!」
父のステッキが、カランと床に落ちた。
氷のような青い瞳が、信じられないほど大きく見開かれている。
熱い肉と、冷たい卵。
その温度差が、口の中で快感に変わる。
砂糖と醤油の濃厚な甘辛さ。
それが卵のまろやかさで包み込まれ、角が取れて上品な味わいになる。
そして何より――肉だ。
父が嫌悪していた「脂身」が、口内の熱で瞬時に溶け出す。
噛む必要すらない。
舌の上で肉が解け、赤身の旨味と脂の甘みが洪水を起こす。
「……とろける……?」
父が震える声で呟いた。
「これが肉か? 煮込み料理特有のパサつきなど微塵もない……! 焼いた香ばしさを残しつつ、タレが繊維の奥まで染み込んでいる。そしてこの脂! 不快なベタつきはなく、まるで上質なバターのように消えていく!」
父はフォークを動かす手を止められなかった。
一口で終わるはずがない。
残りの肉を口に運び、飲み込み、そして深いため息をついた。
「……悔しいが」
父はナプキンで口元を拭い、私を睨みつけた。
だが、その目はもう氷ではなかった。
敗北を認めた、一人の食通の熱い眼差しだった。
「……美味い。私が今まで食べてきた肉料理の中で、最も肉の『魂』を感じる味だ」
「お父様……!」
「特にこの生卵だ。熱さを和らげ、味をマイルドにし、喉越しを良くする……完璧なソースだ。誰だ、卵を生で食うなどと言い出した天才は」
「私です(前世の日本人です)」
父は小鉢に残った、肉の旨味が溶け出した卵液を見つめ、少し躊躇ってから言った。
「……シェリル。肉は、まだあるのか?」
「はい、たっぷり用意してありますよ。豆腐やシラタキも、これからが本番です」
「ならば……」
父は落ちたステッキをセバスチャンに拾わせ、居住まいを正した。
「勘当の話は、保留とする。……その代わり、この鍋が空になるまで、私が責任を持って『監視』する必要があるな」
その顔は、ほんのりと赤らんでいた。
素直じゃない。本当に素直じゃない。
けれど、それが父なりの最大限の「和解」の言葉なのだと、私にはわかった。
「はい、喜んで。……セバスチャンも、一緒にどう? ご飯も炊けているわよ」
私が勧めると、執事は父の顔色を窺った。
父はフンと鼻を鳴らし、「許す。今日は無礼講だ」と短く言った。
「ありがとうございます、旦那様! ではシェリルお嬢様、私には卵を二ついただけますか!」
こうして。
最強の敵・ガラルド公爵は、甘辛い割り下と生卵の魔力によって、最強の「監視役(常連客)」へとクラスチェンジしたのだった。
これで私の店は安泰――と思った矢先。
厨房の勝手口から、再びザオが顔を出した。
しかし、その表情はいつものニヤけ顔ではなく、深刻そのものだった。
「……店主様。大変だ」
「どうしたの、ザオ? 藪から棒に」
「隣国だ。西の軍事大国ガレリアの……『美食王子』とかいうふざけた二つ名の野郎が、この店に目をつけたらしい」
「え?」
「あんたの店の噂を聞きつけて、『そんな美味い店があるなら、国ごと買い取ってやる』って息巻いてこっちに向かってる。……今度は、金と権力の桁が違うぞ」
一難去ってまた一難。
どうやら私の「飯テロ」は、国境さえも越えてしまったらしい。




