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【第2章追加!】断罪令嬢の飯テロ食堂  作者: 九葉
第2章

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第9話

 ――ジュウウウウ……。


 『月待ち食堂』のカウンターに、脂の焦げる音が静かに、しかし力強く響いていた。

 熱された鉄鍋の上で、白い牛脂の塊がゆっくりと溶け出し、透明な液体へと変わっていく。


 その様子を、父、ガラルド・ウォルター公爵はハンカチで鼻を覆いながら、氷のような瞳で見下ろしていた。


「……臭いな」


 父が短く吐き捨てた。


「牛の脂身など、精肉の過程で真っ先に捨てられる廃棄物だ。それをわざわざ熱して煙を出すなど、正気の沙汰とは思えん。服に臭いがつく」

「この香りが良いのです。脂こそが肉の旨味の源泉ですから」


 私は動じることなく、さらに鍋へ食材を投入した。

 ぶつ切りにした『長ネギ』だ。

 

 ――ジューッ!


 牛脂の海にネギが飛び込んだ瞬間、厨房の空気が一変した。

 動物的な脂の匂いが、ネギの焦げる芳ばしい香りと混ざり合い、一気に食欲をそそる「料理の香り」へと昇華される。


「……む?」


 後ろに控えていた執事のセバスチャンが、ピクリと鼻を動かした。

 店内に残っていた常連客たち――ライオネル団長やルーカス様も、ゴクリと喉を鳴らす。

 だが、父の表情は険しいままだ。


「小手先の香り付けか。だが、肝心なのは肉だ。……煮込み料理を作るという話だったな? どうせ、硬いスネ肉を水で煮るのだろう」


「いいえ。使うお肉は、こちらです」


 私はザオから仕入れた、最高級の『霜降りリブロース』を皿に広げて見せた。

 鮮やかな紅色の赤身に、雪の結晶のように細かく入り組んだ白いサシ

 常温でも溶け出しそうなほど繊細なその肉を見て、父は眉間に深い皺を刻んだ。


「……なんだ、その白っぽい肉は」


 予想通りの反応だ。

 赤身至上主義の父にとって、サシの入った肉は「脂身だらけの低級品」にしか見えない。


「病気の牛か? あるいは、運動不足で肥え太った駄牛か。……シェリル。公爵家の娘が、このような脂の塊を『最高級』と呼ぶなど、嘆かわしいにも程がある」

「食べてから仰ってください。これは病気ではなく、東方の特別な技術で育てられた芸術品です」


 私は菜箸で、大判の霜降り肉を一枚持ち上げた。

 ペロン、と重力に従ってしなやかに垂れ下がる。

 それを、ネギの香りが移った脂の上へ、広げるようにして置く。


 ――ジュワァァァァァ……ッ!!


 今日一番の、激しい音が弾けた。

 鉄鍋の高温が、霜降り肉の脂を一瞬で気化させる。

 立ち上る白煙。

 肉の淵がチリチリと焼け、ピンク色が淡い褐色へと変わっていく。


「焼いている……? 煮込み料理ではなかったのか?」

「ここからです」


 私は肉の上から、躊躇なく『砂糖』を振りかけた。

 それも、ひとつまみではない。スプーン山盛り一杯だ。


「なっ……!?」


 父が思わず腰を浮かせた。

 冷静沈着な「氷の閣下」が、目を剥いて驚愕している。


「き、貴様、何を血迷った! 肉に砂糖だと!? 菓子でも作るつもりか!?」

「静かに見ていてください。これが美味しくなる魔法なんです」


 肉の熱で砂糖が溶け、飴状になっていく。

 そこへ、すかさず『醤油』を回しかける。


 ――ジャァァァッ!! ブワワッ!


 醤油が鉄鍋肌で焦げ、砂糖と混じり合う。

 メイラード反応。

 糖とアミノ酸が加熱されて生まれる、褐色物質と芳香成分の爆発。

 甘く、焦げ臭く、そして暴力的なまでに食欲を中枢神経に叩き込む、最強の香り。

 

 これぞ、関西風すき焼きの真骨頂。

 割り下で煮るのではなく、肉を焼いて味付けをするスタイルだ。


「ぐっ……!?」


 父が呻いた。

 ハンカチで鼻を覆っているが、その隙間から侵入してくる「文明の香り」に、本能が抗えない様子だ。

 後ろのセバスチャンに至っては、あからさまにお腹の音が鳴るのを必死に堪えている。


 私は肉を裏返し、タレを絡める。

 飴色に輝く肉。脂とタレが混然一体となり、照り輝いている。


「……さて。お肉に火が通るまで、少しお話ししましょうか」


 私は火加減を弱め、父の目を見た。

 今だ。

 肉の香りで父の理性を揺さぶっている今なら、本音が聞けるはずだ。


「お父様。貴方は『恥さらし』と言いましたね。……では、なぜ一ヶ月もの間、私を放置していたのですか?」

「…………」

「貴方の情報網なら、私が廃屋を買ったことも、店を開いたことも、翌日には把握していたはずです。本当に恥だと思っているなら、なぜすぐに連れ戻しに来なかったのです?」


 父は口を真一文字に結び、煮え切らない視線を鍋の肉に向けたまま、重い口を開いた。


「……勘違いするな」


 低い声だった。


「私は、王家の決定になど同意していない」

「え?」

「あの愚かな王太子が、聖女とかいう小娘にうつつを抜かし、正当な婚約者であるお前を追放した。……その理不尽な通告に対し、私は公爵家として最大の『抗議』を示していたのだ」


 父はステッキを握りしめた。


「即座に騒ぎ立てれば、お前の醜聞が広まるだけだ。だから私は沈黙を守った。同時に、王家への資金援助を凍結し、議会での法案審議を全てボイコットした。……向こうが音を上げて、お前に頭を下げてくるのを待っていたのだ」


「資金援助の凍結……?」


 初耳だった。

 そういえば、最近ジュリアン様が「王宮の予算が足りない」とぼやいていたような気がする。あれは父の仕業だったのか。


「それに、だ」


 父はバツが悪そうに視線を逸らした。


「お前は……幼い頃から、妙に自立心が強かった。追放された翌日には自力で家を確保し、商売を始めたという報告を聞いて……私は手出しをする機を逸したのだ」


「機を逸した?」


「下手に介入すれば、お前のプライドを傷つけるかもしれん。……金に困って泣きついてくるのを待っていたのに、お前ときたら、騎士団長やら魔術師やらを味方につけて、勝手に繁盛させているではないか」


 父の声には、怒りよりも、どこか拗ねたような響きがあった。


「私が無関心だったわけではない。セバスチャンを使いに出したのも、お前の生活状況を確認するためだ。……まさか、こんな油まみれの店で、生き生きとしているとは思わなかったがな」


 私は呆気にとられた。

 要するに、この最強の父は。

 娘が心配で、王家に経済制裁を加えつつ、娘が「お父様助けて」と帰ってくるのをじっと待っていたというのか。

 それなのに、娘が予想外にたくましく生きていくものだから、タイミングを見失って拗ねていたと?


「……ふっ」


 思わず笑いがこぼれた。

 なんだ。

 「氷の閣下」なんて呼ばれているけれど、中身はただの不器用な父親じゃないか。


「何がおかしい」

「いえ。……ただ、少し安心しました。貴方が私を捨てたわけではなかったと知って」


 私は鍋に向き直った。

 肉は最高の状態に焼き上がっている。

 タレが煮詰まり、濃厚な香りがピークに達している。


「では、仕上げです」


 私は小鉢を差し出した。

 中に入っているのは、溶いた『生卵』だ。


「……なんだ、それは」


 父が再び警戒心を露わにした。


「黄色い液体……卵か? まさか、生のままではないだろうな?」

「生卵です」

「馬鹿な! 卵は完全に火を通さなければ毒だ! 腹を壊すぞ!」


 この世界の常識だ。

 冷蔵技術も衛生管理も未発達なこの世界では、卵はサルモネラ菌(に似た菌)の温床であり、生食は自殺行為に等しい。

 だが。


「大丈夫です。これはシロ……うちの『用心棒』が、特別な管理下にある養鶏場から仕入れてきた、朝採れの卵です。さらに、殻の表面も中身も、洗浄魔法で殺菌済みです」


 カウンターの隅で、シロが「みゃう(我の目利きを疑うとは失敬な)」と鳴いた。

 

「熱々の肉を、この冷たい卵にくぐらせて食べるんです。これが『すき焼き』の作法です」


 私は鍋から、タレの絡んだ一枚肉を取り出し、父の前の小鉢に入れた。

 

 ジュッ。

 肉の熱で、卵液が少しだけ白く固まる。

 茶色い肉が、黄色いドレスを纏った瞬間だ。


「さあ、お父様。毒見のつもりで、一口どうぞ」


 父は喉を鳴らした。

 目の前にあるのは、嫌いなはずの脂身の肉。

 信じられない砂糖と醤油の味付け。

 そして、恐怖の対象である生卵。


 すべての要素が、父の「食の常識」に反している。

 だが、その香りは。

 抗いがたい魅力で、父の手を動かした。


「……よかろう。これが私の最後の晩餐にならぬことを祈る」


 父は覚悟を決め、フォークで肉を刺した。

 たっぷりと卵を絡ませ、口へと運ぶ。


 ――ハムッ。


 静寂。

 店中の時間が止まったかのような、長い数秒間。


 父はゆっくりと咀嚼した。

 一度。二度。


「…………ッ!!」


 父のステッキが、カランと床に落ちた。

 氷のような青い瞳が、信じられないほど大きく見開かれている。


 熱い肉と、冷たい卵。

 その温度差ヒートショックが、口の中で快感に変わる。

 

 砂糖と醤油の濃厚な甘辛さ。

 それが卵のまろやかさで包み込まれ、角が取れて上品な味わいになる。

 そして何より――肉だ。


 父が嫌悪していた「脂身」が、口内の熱で瞬時に溶け出す。

 噛む必要すらない。

 舌の上で肉が解け、赤身の旨味と脂の甘みが洪水を起こす。


「……とろける……?」


 父が震える声で呟いた。


「これが肉か? 煮込み料理特有のパサつきなど微塵もない……! 焼いた香ばしさを残しつつ、タレが繊維の奥まで染み込んでいる。そしてこの脂! 不快なベタつきはなく、まるで上質なバターのように消えていく!」


 父はフォークを動かす手を止められなかった。

 一口で終わるはずがない。

 残りの肉を口に運び、飲み込み、そして深いため息をついた。


「……悔しいが」


 父はナプキンで口元を拭い、私を睨みつけた。

 だが、その目はもう氷ではなかった。

 敗北を認めた、一人の食通の熱い眼差しだった。


「……美味い。私が今まで食べてきた肉料理の中で、最も肉の『魂』を感じる味だ」


「お父様……!」


「特にこの生卵だ。熱さを和らげ、味をマイルドにし、喉越しを良くする……完璧なソースだ。誰だ、卵を生で食うなどと言い出した天才は」


「私です(前世の日本人です)」


 父は小鉢に残った、肉の旨味が溶け出した卵液を見つめ、少し躊躇ってから言った。


「……シェリル。肉は、まだあるのか?」


「はい、たっぷり用意してありますよ。豆腐やシラタキも、これからが本番です」


「ならば……」


 父は落ちたステッキをセバスチャンに拾わせ、居住まいを正した。


「勘当の話は、保留とする。……その代わり、この鍋が空になるまで、私が責任を持って『監視』する必要があるな」


 その顔は、ほんのりと赤らんでいた。

 素直じゃない。本当に素直じゃない。

 けれど、それが父なりの最大限の「和解」の言葉なのだと、私にはわかった。


「はい、喜んで。……セバスチャンも、一緒にどう? ご飯も炊けているわよ」


 私が勧めると、執事は父の顔色を窺った。

 父はフンと鼻を鳴らし、「許す。今日は無礼講だ」と短く言った。


「ありがとうございます、旦那様! ではシェリルお嬢様、私には卵を二ついただけますか!」


 こうして。

 最強の敵・ガラルド公爵は、甘辛い割り下と生卵の魔力によって、最強の「監視役(常連客)」へとクラスチェンジしたのだった。


 これで私の店は安泰――と思った矢先。

 厨房の勝手口から、再びザオが顔を出した。

 しかし、その表情はいつものニヤけ顔ではなく、深刻そのものだった。


「……店主様。大変だ」

「どうしたの、ザオ? 藪から棒に」

「隣国だ。西の軍事大国ガレリアの……『美食王子』とかいうふざけた二つ名の野郎が、この店に目をつけたらしい」


「え?」


「あんたの店の噂を聞きつけて、『そんな美味い店があるなら、国ごと買い取ってやる』って息巻いてこっちに向かってる。……今度は、金と権力の桁が違うぞ」


 一難去ってまた一難。

 どうやら私の「飯テロ」は、国境さえも越えてしまったらしい。

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― 新着の感想 ―
内容的には面白いのにちょこちょこある矛盾が気になる。 父親は食事する前にステッキをセバスチャンに渡してたのに料理を食べた時に衝撃を受けてステッキ落としてる。 え?落としたのはセバスチャンなの? 聖女が…
氷の閣下(笑) これはよいツンデレ。威厳ある父親としては甘い顔を表には出せんわな。 その氷もすき焼きでとろけてしまった。
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