第5話
聖獣シロが『月待ち食堂』の守護者となってから、数日が過ぎた。
彼の張った結界の効果は絶大だった。
朝起きて店に降りても、床には埃ひとつ落ちていない。厨房のステンレスは磨き上げたばかりのように輝き、空気は早朝の森のように澄んでいる。
「おはよう、シロ。今日もいい結界ね」
「みゃう(当然だ。我が寝床を薄汚れたままにはしておけんからな)」
カウンターの特等席(座布団三枚重ね)の上で、シロが優雅に欠伸をする。
掃除の手間がゼロになったおかげで、私は仕込みに専念できるようになった。
時刻はまだ早朝六時。
ランチ営業には早すぎるこの時間に、店の扉をノックする音が響いた。
ドンドンドン。
力のない、それでいて必死さを感じるリズムだ。
「……店主。開けてくれ……緊急事態だ……」
聞き覚えのある声。
扉を開けると、そこに立っていたのは宮廷筆頭魔術師、ルーカス・ヴァイデル様だった。
しかし、いつもの理知的な姿は見る影もない。
銀色の髪はボサボサで、眼鏡は傾き、目の下には深いクマができている。顔色は紙のように白い。
そして何より――彼の手には、琥珀色の液体が入ったスキットル(携帯用酒瓶)が握られていた。
「ルーカス様? どうされたんですか、その姿」
「……徹夜だ。三日連続のな。王宮の結界システムの再構築に手間取って……脳が、焼き切れそうだ」
彼はふらふらと店内に足を踏み入れ、カウンターに倒れ込むように座った。
そして、手にしたスキットルの蓋を開け、一気に呷った。
――グビッ、グビッ、プハァ……。
濃厚なアルコールの匂い……に似た、揮発性の刺激臭が漂う。
「ちょっと! 朝っぱらからお酒ですか!? これからお仕事でしょう?」
私が咎めると、ルーカス様は虚ろな目でこちらを見上げ、心外だと言わんばかりに首を振った。
「……勘違いするな。これは酒ではない。『高濃度魔力水』だ」
「魔力水?」
「ああ。薬草と魔石を特殊な蒸留酒に漬け込み、限界まで魔力を濃縮抽出したものだ。魔力枯渇(ガス欠)を起こした魔術師にとっては、点滴のようなものだ」
彼は空になったスキットルを振った。
「味と香りは度数六〇度の蒸留酒に近いが、酔っ払うわけではない。……いや、魔力が巡って多少ハイにはなるが、思考能力は維持される」
なるほど。
以前、彼が昼間から飲んでいたのもこれだったのか。
仕事をしていないどころか、過酷すぎる労働環境ゆえに、こうして「燃料」を注入しなければ立っていられない状態だったとは。
「ですが、魔力だけ回復しても、顔色が悪いですよ」
「……ああ。魔力回路は繋がったが、肝心の『脳』のエネルギーが足りない。思考が霧の中にあるようだ。……店主、何かくれ。甘いものを。脳髄に直接染み渡るような、強烈な糖分を……!」
彼はカウンターに突っ伏して、うわごとのように呟いた。
脳のエネルギー源、ブドウ糖。
魔術師という職業は、肉体労働である騎士とは違い、脳を酷使してカロリーを消費する。
今の彼に必要なのは、即効性のある糖分と、疲れを癒すビタミン、そして何より「心が安らぐ甘味」だ。
(甘いもの……。東方商人のザオが置いていった食材の中に、いいものがあったはず)
私は厨房の棚を探り、麻袋から二つの素材を取り出した。
一つは、赤茶色の小豆。
もう一つは、白い粉――もち米を粉砕した『白玉粉』だ。
「よし、これね」
この世界では、小豆は「煮豆」や「スープ」として塩味で食べられることが多く、砂糖で煮て甘くするという発想がない。
だからこそ、私が作るしかない。
まずは『餡子』作りだ。
小豆は一晩水に漬けておいたものを使う(昨日のうちに仕込んでおいて正解だった)。
鍋に小豆とたっぷりの水を入れ、火にかける。
一度沸騰したら湯を捨て、渋みを取る「渋切り」を行う。これを二度繰り返すことで、雑味のない上品な味になる。
再び水を入れ、コトコトと煮込む。
小豆が指で簡単に潰れるくらい柔らかくなったら、いよいよ砂糖の投入だ。
分量は、小豆と同量。
この世界の人なら「正気か?」と叫ぶ量だが、怯んではいけない。甘さこそが正義なのだから。
数回に分けて砂糖を加え、木べらで練り上げる。
水分が飛び、鍋底が見えるくらいの硬さになるまで、焦がさないように混ぜ続ける。
――フツフツ、グツグツ。
厨房に、甘く、ふくよかな香りが満ちていく。
小豆の土の香りと、砂糖の焦げる香りが混じり合った、和菓子特有の香り。
「……んん? なんだ、この香りは」
カウンターで死にかけていたルーカス様が、ピクリと反応した。
「甘い……だが、蜂蜜や果物の甘さとは違う。もっと重厚で、懐かしいような……」
「今、『餡子』を練っているところです。もうすぐできますからね」
艶やかな黒紫色になった粒あんをバットに移し、冷ましておく。
その間に、次は『餅』の準備だ。
ボウルに白玉粉と砂糖、水を入れ、よく混ぜる。
これを蒸し器に入れ……る時間はないので、私は魔術を行使することにした。
生活魔法の『加熱』を微調整し、ボウルの中身を均一に加熱する。
――モッチリ。
白い液体だったものが、半透明の粘り気のある塊へと変化していく。
熱いうちに木べらで力強く練る。
ペッタン、ペッタン。
空気を抱き込ませるように練ることで、冷めても固くならない、羽二重のように柔らかい餅になるのだ。
「さて、主役の登場よ」
私は木箱から、真っ赤な果実を取り出した。
ザオが「東方の宝石」と言って持ってきた、大粒のイチゴだ。
この世界のイチゴは酸味が強く、そのままでは酸っぱい。だが、それがいい。濃厚な甘さの餡子と合わせるには、この酸味が必要不可欠なのだ。
バットに片栗粉(打ち粉)を広げ、その上に餅を乗せる。
適当な大きさにちぎり、手のひらで平たく伸ばす。
その真ん中に、イチゴを包んだ餡子の玉を乗せる。
ここからはスピード勝負。
餅の端をつまみ、餡子を包み込むように閉じていく。
餅が指に吸い付くような感触。柔らかく、伸びやかだ。
くるりと丸めれば――。
粉雪をまとったような、白く丸いお菓子。
その頂点からは、中のイチゴの赤色がほんのりと透けて見えている。
「お待たせしました。特製『いちご大福』です」
私は二つ並んだ白い玉を、緑茶と共にルーカス様の前に置いた。
「……なんだ、これは?」
ルーカス様は眼鏡の位置を直し、まじまじと皿の上を見た。
「白いスライム……? いや、魔獣の卵か?」
「お菓子ですよ。手に粉がつくので、そのままかぶりついてください」
彼は半信半疑で、大福を手に取った。
――ムニッ。
指が沈み込む柔らかさ。
赤ちゃんのほっぺたのような、繊細な触感に、彼はハッと息を飲んだ。
「柔らかい……。触れているだけで癒されるような、この弾力はなんだ」
「いいから、早く食べて脳に糖分を送ってください」
促され、彼は大福を口元へ運び、大きく一口かじった。
――モチッ……ジュワァッ!
静かな店内に、衣擦れのような音と、果汁が弾ける音が響いた。
伸びやかな餅が歯切れよく千切れる。
その奥から現れたのは、ねっとりと甘い小豆の餡。
さらに中心部から、フレッシュなイチゴの果汁が溢れ出す。
「ッ……!!!!」
ルーカス様の目が、カッ! と見開かれた。
彼の脳内で、何かが爆発したようだった。
「……甘い! だが、酸っぱい! なんだこの情報の洪水は!」
彼は口元を押さえながら、咀嚼を続けた。
「外側の白い皮(餅)は、優しく口内を撫で回す。砂糖の甘みを含んでいるが、決して主張しすぎない。……だが、その中にある黒いペースト(餡子)! これが凄まじい!」
「小豆の風味はどうですか?」
「豆だ! 確かに豆の味がするが、私が知っている塩茹での豆とは別次元だ! 砂糖の甘みと融合し、濃厚なジャムのように変化している。この糖度……脳の血管が拡張していくのがわかる……!」
そして、彼は恍惚の表情で飲み込んだ。
「極め付けは、中心の赤い果実だ。単体では酸っぱすぎて顔をしかめるような未熟な果実が、この甘い黒ペーストと出会うことで、至高の清涼剤へと変貌している。甘さ、酸味、食感……すべてが計算され尽くした『食べる宝石箱』だ!」
ルーカス様の手が止まらない。
あっという間に一つ目を平らげ、二つ目に手を伸ばす。
先ほどまでの死人のような顔色はどこへやら、頬には赤みが差し、目は生き生きと輝いている。
「ああ……霧が晴れていく……。絡まり合っていた魔術式が、脳内で解けていくぞ……!」
彼は二つ目の大福を食べ終えると、セットで出した熱い緑茶をすすった。
ズズズ……。
「ふぅぅぅ……」
深い、深い吐息。
渋みのあるお茶が、口の中に残った甘さを洗い流し、爽やかな余韻だけを残す。
「……完璧だ」
ルーカス様は背筋を伸ばし、キリッとした表情で私を見た。
その瞳には、知性の光が完全に戻っていた。
「店主。貴殿は錬金術師としても超一流になれるだろう。異なる素材を融合させ、個々のポテンシャルを何倍にも引き上げる……これはまさに『賢者の石』の精製プロセスに等しい」
「ただの大福ですよ。元気が出たなら良かったです」
「ああ、全快だ。これならあと三日は徹夜できる」
「いや、寝てください」
私がツッコミを入れる間もなく、彼は懐から金貨を取り出した。
「この大福、あるだけ包んでくれ。研究所の部下たちにも配る。彼らも今頃、床に転がって死にかけているはずだからな」
「はいはい。お土産用ですね」
私は残りの大福を箱に詰め、彼に渡した。
ルーカス様はそれを大事そうに抱え、先ほどとは見違えるような軽快な足取りで店を出て行こうとして――立ち止まった。
そして、カウンターで眠るシロの方を振り返り、真剣な顔で言った。
「……そういえば、そこの聖獣」
「みゃ?(なんだ)」
「貴殿が張っている結界。構成式の一部に、古代語の『絶対防壁』のルーンが混ざっているな? 非常に興味深い。今度、その術式について議論させてくれ」
「みゃう(断る。我は寝るのが忙しい)」
「つれないな。では、また来る」
ルーカス様は颯爽と去っていった。
どうやら、私の作った「いちご大福」は、国の魔術研究の進歩にも貢献してしまったようだ。
こうして、魔術師の不名誉な「昼酒疑惑」は晴れ(魔力水だったため)、彼は大福の虜となって、甘味を求めて通い詰めることになるのだった。
だが、そんな平和な日常も束の間。
昼の営業時間が近づくにつれ、店の前の空気が変わり始めた。
常連客たちの賑やかな声とは違う、どこかピリピリとした、冷ややかな視線を感じる。




