第2話
翌朝。
硬い床の上で目覚めた私は、バキバキと音を立てる体を起こして大きく伸びをした。
「……いたたた。やっぱり、お布団の準備は最優先ね」
公爵家の羽毛布団が恋しいとは思わないけれど、安眠は料理人の命だ。今日は市場で寝具を調達しよう。
私は差し込む朝日で改めて店内を見渡した。
昨夜は暗くてよく見えなかったが、こうして明るいところで見ると、なかなかに年季が入っている。
床にはうっすらと埃が積もっているし、カウンターの隅には蜘蛛の巣が張っていた。壁のクロスも煤けて変色している。
元倉庫とはいえ、このまま飲食店として使うには衛生的にアウトだ。
「普通なら業者を呼んで改装工事、となるところでしょうけど……」
私は人差し指を立て、店の中央に立った。
公爵令嬢として、王妃教育の一環で叩き込まれたのは礼儀作法だけではない。
この国では、貴族の嗜みとして魔法教育も行われる。特に私は、歴代でも稀に見る魔力量を誇っていた。
その強大な魔力を、リナさんへの嫌がらせ(廊下を凍らせたり、突風でスカートを捲ったり)に使ったと冤罪をかけられたわけだが――。
「今こそ、正しい魔力の使い方を見せてあげるわ。――『浄化』!」
私が指を鳴らすと、パァン! と光の粒子が弾けた。
優しい風が店内を吹き抜けていく。
その風が触れたそばから、長年の埃も、こびりついた油汚れも、蜘蛛の巣も、すべてが綺麗さっぱり消え失せていく。
一瞬の出来事だった。
薄汚れていた床は磨き上げられたように艶を放ち、曇っていた窓ガラスは新品のように透明になった。
「ふふっ、完璧ね」
これぞ魔法による時短リフォーム。
さらに『修復』の魔法でガタついていた椅子やテーブルを直し、空間魔法で亜空間に収納しておいた調理器具やお皿を並べれば――。
そこにはもう、立派な小料理屋の風情が漂っていた。
木目を基調とした、落ち着いた店内。カウンター席が六つに、四人掛けのテーブル席が二つ。
こぢんまりとしているけれど、だからこそ店主の目が届く、居心地の良い空間だ。
「よし! それじゃあ、開店準備といきますか!」
◇ ◇ ◇
記念すべき開店初日のメニュー。
私は迷わず、ある食材を麻袋から取り出した。
土の香りがする、立派な根菜たち。
大根、人参、そしてごぼう。
これらは「貧乏人の食べる野菜」として貴族には見向きもされないけれど、私にとっては宝の山だ。
そして、市場でこっそり仕入れてきた、脂の乗った豚バラ肉。
この世界では、肉といえば赤身のステーキが至高とされているけれど、薄切りのバラ肉こそが最高の出汁が出ることを、彼らはまだ知らない。
「今日は少し冷えるし、これしかないわね」
メニューは『豚汁』に決めた。
まずは下準備だ。
大根と人参はいちょう切りに。ごぼうはささがきにして水に晒す。
トントントン、と包丁がまな板を叩く音が、静かな店内に心地よく響く。このリズムだけで、なんだか心が整っていく気がした。
鍋に火をかけ、ごま油を垂らす。
――ジュワァ。
香ばしい香りが一気に立ち昇った。この香りだけで白米が食べられそうなくらい、暴力的な食欲の誘惑。
そこへ豚バラ肉を投入。
肉の色が変わったら、水気を切った野菜たちを次々と放り込む。
油で炒めることで、野菜の甘みを閉じ込め、コクを出すのだ。ここがただの煮込み料理とは違うポイントである。
「美味しくなあれ、美味しくなあれ」
全体に油が回ったら、あらかじめ引いておいた出汁(昆布と干し椎茸で作った和風出汁だ)を注ぎ入れる。
あくを丁寧に取り除きながら、コトコトと煮込むこと数十分。
根菜が柔らかくなり、スープに野菜と肉の旨味が溶け出したところで、火を弱める。
仕上げは、これまた東方の国から取り寄せた『味噌』だ。
お玉の上で味噌を溶き入れると、台所がふくよかな香りに包まれた。
大豆の発酵した、どこか懐かしく、心安らぐ香り。
煮立たせないように注意して、最後に刻んだネギを散らせば――。
「『具だくさん豚汁』の完成!」
私は小皿に味見分をよそった。
湯気とともに、ごま油と味噌の香りが鼻孔をくすぐる。
フーフーと息を吹きかけ、まずは汁を一口。
――んんっ!
口の中に広がるのは、濃厚な旨味の奔流。
豚肉の脂の甘みが味噌の塩気と混じり合い、ごぼうの土の香りが全体を引き締めている。
煮込まれた大根は口の中でとろりと崩れ、噛むたびに熱々の出汁が染み出してくる。
「はぁ……五臓六腑に染み渡るわ……」
身体の芯からポカポカと温まっていく。
これだ。私が求めていたのは、飾り立てられた冷たい料理じゃなくて、こういう「生きた」料理なのだ。
昨日の塩むすびの残り(冷やご飯)を出してきて、豚汁と一緒に食べる。
熱々の汁と、冷たいご飯。この温度差がまた最高に美味しい。
豚肉を白米にワンバウンドさせて頬張れば、もう何も言うことはない。
「……さて」
腹ごしらえも済んだ。
私はエプロンの紐を締め直し、深呼吸をする。
手作りの木の看板――『月待ち食堂』と書いたもの――を持って、店の外へ出た。
入り口の横にあるフックに看板を掛け、扉の札を『OPEN』に裏返す。
路地裏には、人通りはない。
遠くの大通りを行き交う馬車の音が、微かに聞こえるだけだ。
「まあ、最初だしね。宣伝もしてないし」
元悪役令嬢がひっそりと始めた定食屋。
そう簡単に客が来るはずもない。
私はのんびりと店番でもしながら、明日の仕込みについて考えようと思った。
この時の私はまだ知らなかったのだ。
この店から漂う「飯テロ」級の匂いが、路地裏の換気扇を通じて、とんでもない嗅覚の持ち主たちを引き寄せようとしていることを。




