第12話
バンッ!!
『月待ち食堂』の木製の扉が、悲鳴を上げるような音と共に開かれた。
ランチ営業の準備をしていた私は、驚いて包丁を止め、入り口を見た。
「見つけましたわよ! この……泥棒猫ぉぉぉっ!!」
店内に響き渡る金切り声。
入り口に立っていたのは、目に痛いほどのショッキングピンクのドレスを纏った小柄な少女、男爵令嬢リナだった。
彼女の後ろには、親衛隊と思われる貴族の子息たちが三名ほど控えている。皆、「聖女様を守る騎士」気取りで剣の柄に手をかけているが、腰が引けているのが丸わかりだ。
「いらっしゃいませ。……他のお客様の迷惑になりますので、お静かに」
私はあくまで冷静に、客商売のトーンで応対した。
だが、リナは私の言葉など聞く耳持たない様子で、ツカツカと店内へ踏み込んできた。
「しらばっくれないでください! ジュリアン様が、昨日ここに来たことはわかっているんですのよ!」
彼女はカウンターをドンと叩き、私を睨み上げた。
その瞳は潤んでいるが、奥にはドス黒い嫉妬の炎が燃えている。
「昨日、お城に帰ってきたジュリアン様から……信じられない匂いがしましたわ!」
「匂い、ですか?」
「ええ! 動物性の脂と、焦げたバター、そして大量の糖質と塩分の匂いです! あんな『不浄なもの』を殿下の高貴な胃袋に入れるなんて、貴女、正気ですの!?」
不浄なもの。
私が丹精込めて作ったオムライスのことを言っているらしい。
料理人として、そして元婚約者として、これほど失礼な言い草はない。
「殿下は『美味しい』と完食されましたよ。リナさんの健康料理では満たされない部分があったようですので」
「っ……! それは、貴女が『味覚を麻痺させる毒』を使ったからですわ!」
リナは自信満々に断言した。
「私の料理こそが至高! 大地の恵みをそのまま摂取することこそが、人間の本来あるべき姿! それを……貴女のような悪役令嬢が、濃い味付けで殿下を誘惑するなんて……汚い! 汚いですわ!」
彼女はヒステリックに叫ぶと、後ろの親衛隊に目配せをした。
一人の男が、恭しくバスケットを差し出す。
「見てなさい。これが『正しい食事』ですわ!」
彼女がバスケットから取り出したのは、黒っぽい塊だった。
石ころ……ではない。どうやらクッキーか何かのようだ。
「これは、ふすま粉と薬草を練り込み、砂糖もバターも一切使わずに天日干しした『聖なるクッキー』です! これを食べれば、体の中の毒素が浄化され、心も清らかになりますのよ!」
私はその物体をまじまじと見た。
乾燥してひび割れ、表面には枯れ草のような繊維が見えている。
どう見ても、家畜の固形飼料だ。
「……それは、美味しいのですか?」
「美味しさなど二の次です! 重要なのは『波動』ですわ! 私の愛と聖なる魔力を込めているのですから、これを食べれば感謝の心が湧いてくるはずなんです!」
なるほど。
ジュリアン様がやつれていた理由がよくわかった。
「美味しさ」を排除し、自己満足の精神論を詰め込んだ食事。それは食事ではなく、ただの「儀式」だ。
「結構です。うちは飲食店ですので、飲食物の持ち込みはお断りしております」
「なっ……! せっかくの慈悲を!」
リナは顔を真っ赤にして、クッキーを床に叩きつけた。
――ゴッ。
鈍い音がした。クッキーは砕けもせず、床の木材の方に小さな凹みを作った。
硬すぎる。あんなものを毎日食べさせられていたのか、王太子は。少し同情する。
「シェリル・ウォルター! 貴女には反省の色が見られませんわね!」
リナはドレスの裾を翻し、勝ち誇ったように宣言した。
「この店は、公衆衛生および『国民の道徳的健康』に害をなす存在と認定します! 聖女の権限において、即刻営業停止……いいえ、建物を『浄化(破壊)』して差し上げますわ!」
「は?」
「わたくしの最大出力の聖魔法で、この油臭い店ごと、貴女の罪を洗い流してあげます! さあ、皆さん、下がっていて!」
彼女が両手を広げると、その周囲にキラキラとした光の粒子が集まり始めた。
本気だ。
彼女は「悪役令嬢を成敗する自分」に完全に酔っている。
店を壊されるのは困る。ようやく手に入れた私の城だ。防御魔法を展開しようか――そう身構えた時だった。
「……おい」
店の奥、厨房の勝手口からではない。
入り口の扉の向こうから、地響きのような低い声が聞こえた。
「な、なんですの?」
リナが動きを止める。
扉がゆっくりと開く。
そこに立っていたのは、殺気――いや、もっと根源的な「食欲を邪魔された怒り」を纏った、二人の男だった。
「ここから良い匂いがしているんだ。……俺の昼飯の邪魔をする奴は、聖女だろうが神だろうが叩き斬るぞ」
全身から黒いオーラを立ち昇らせる、銀の鎧の騎士団長。
「……私の実験場(食堂)に、相変わらず品のない騒音を撒き散らしているな、聖女リナ。君の『浄化』とやらで、私の『おでんの鍋』に埃ひとつでも入ってみろ。……王宮ごと氷漬けにしてやる」
眼鏡の奥の瞳を爬虫類のように細めた、筆頭魔術師。
国の武力と知力の頂点に立つ二人が、空腹を抱えて仁王立ちしていた。
「え……? ラ、ライオネル団長? ルーカス様?」
リナの顔が引きつる。
彼女はまだ気づいていない。
この店が、もはや単なる定食屋ではなく、王国の最強戦力が集う「聖域」と化していることに。
私はエプロンの埃を払い、ニコリと微笑んだ。
「いらっしゃいませ、常連様。ちょうど今、聖女様が『この店を潰す』とおっしゃっていたところなんですよ」
瞬間。
二人の男の殺気が、膨れ上がった。




