第10話
昼のピークタイムを少し過ぎた頃。
路地裏に不釣り合いな、王家の紋章が入った馬車が止まった。
近隣住民が「何事か」と窓から覗く中、馬車の扉が開き、一人の青年が降りてきた。
かつて「太陽の貴公子」と呼ばれた、王太子ジュリアン・エルロンド。
……の、はずだった。
「……ここか。騎士団長と魔術師が入り浸っているという店は」
その声はカサカサに乾いており、足取りはおぼつかない。
頬はこけ、目の下には濃いクマがあり、以前のキラキラしたオーラは消え失せて、まるで数日間荒野を彷徨った遭難者のような有様だ。
カランコロン、とドアベルが鳴る。
私はカウンターの中から、最大級の警戒心を持って彼を迎えた。
「いらっしゃいませ。……あら、随分とおやつれになったお客様ですね」
「シェリル……!? なぜ、貴様がここにいる?」
ジュリアン様は私を見て、幽霊でも見たかのように目を見開いた。
どうやら、この店の主人が私だとは知らずに来たらしい。ただ「美味い飯屋がある」という噂だけにすがって。
「見ての通り、定食屋の女将をしております。王宮を追放された身ですので、どうぞお引き取りを」
「ま、待て! 追い返すな!」
彼がカウンターにすがりついてきた。
その切実な様子に、私は眉をひそめる。
「殿下。ここは庶民の店です。高貴な方の口に合うものはございませんよ。リナさんの手料理がおありでしょう?」
その名前を出した瞬間、ジュリアン様の顔色が青を通り越して土気色になった。
「……言うな。その名前を出すな」
「はい?」
「リナは……確かに優しい。だが、彼女の料理は『優しすぎる』のだ!」
彼はバンッとカウンターを叩き、悲痛な叫びを上げた。
「朝は『大地の恵みそのままサラダ(ドレッシングなし)』! 昼は『素材の味を活かした鶏肉のボイル(塩なし)』! 夜は『浄化のハーブティー』と『ふすまパン』だ! 調味料は体に毒だからと取り上げられ、油は敵だと排除された!」
「ああ……なるほど」
想像以上に酷かった。
リナさんは異世界(おそらく現代日本に近い世界)からの転生者だという噂だが、どうやら極端なナチュラリストか、あるいは単に料理が絶望的に下手なのに「健康」を言い訳にしているタイプらしい。
「極め付けは、料理に込められた『聖女の愛』だ。食べるたびに強制的にテンションが上がり、『美味しい!』と叫ばされる魔法がかかっている。……だが、腹は満たされない。心もだ。俺はもう限界だ……!」
ジュリアン様はガクリと項垂れた。
王太子としての威厳は見る影もない。ただの「味のある飯に飢えた男」がそこにいた。
(……まあ、追い出すのは簡単だけど)
ここで餓死されても寝覚めが悪い。
それに、料理人としてのプライドが少しうずいた。
「健康食」もいいけれど、人間にはたまに、理性を溶かすような「濃い味」が必要なのだ。
「はぁ……わかりました。特別にお作りします」
「本当か!? 肉か!? 塩気はあるのか!?」
「ええ。リナさんが絶対に許さないであろう、油とコクたっぷりのメニューをご用意します」
私は厨房に入り、冷蔵庫(氷魔法で冷やした木箱)から食材を取り出した。
鶏肉、玉ねぎ、ピーマン、マッシュルーム。
そして、卵とバター。
今日のメニューは、洋食の王様『オムライス』に決定だ。
まずはチキンライスの具材を刻む。
トントントン、と軽快な音が響く。
フライパンにたっぷりのバターを落として火にかける。
――ジュワァァァ……。
バターが溶け、芳醇な乳脂肪の香りが立ち上る。
カウンターのジュリアン様が「バターの香りだ……!」と恍惚の表情で鼻をひくつかせた。
具材を炒め、火が通ったらご飯を投入。
そして、ここで登場するのが『トマトケチャップ』だ。
完熟トマトを煮詰め、スパイスと砂糖、酢を加えた自家製ソース。
フライパンの端にケチャップを落とし、少し焦がすように炒めることで酸味を飛ばし、甘みを引き出す。
香ばしいトマトの香りが、バターの香りと混ざり合う。
ご飯と具材、ケチャップを豪快に混ぜ合わせれば、ツヤツヤと輝くチキンライスの完成だ。
「……赤い。なんて食欲をそそる色なんだ」
ジュリアン様の視線がフライパンに釘付けだ。
だが、本番はここから。
私は別のフライパンを熱し、再びバターをひく。
溶き卵を三つ分、一気に流し込む。
――ジュッ、ジューッ!
菜箸で手早くかき混ぜる。
火を通しすぎない、スクランブルエッグ状の半熟状態。
外側は固まりつつ、内側はトロトロ。
この絶妙なタイミングを見計らい、フライパンの柄をトントンと叩いて、卵をラグビーボール型にまとめていく。
プロの技の見せ所だ。
皿に盛ったチキンライスの上に、そのオムレツをそっと乗せる。
プルプルと震える、黄色い宝石。
その上から、赤ワインと肉汁を煮詰めた特製デミグラスソースを回しかけた。
「お待たせいたしました。特製『タンポポ・オムライス』です」
ドン、と目の前に置かれた皿。
茶色いソースの海に浮かぶチキンライスの島。その頂上に鎮座する、黄金色のオムレツ。
「こ、これは……卵料理か? 私が知っている固焼きの卵とは違うようだが」
「ナイフで、オムレツの真ん中をスッと切ってみてください」
私が促すと、ジュリアン様は震える手でナイフを握り、黄色い塊に刃を入れた。
――スッ。
切れ目が入った瞬間。
オムレツが左右にパラリと開き、中から半熟の卵がトロリと溢れ出した。
まるで花が咲くように、チキンライスを黄金色のソースが覆い尽くしていく。
「なッ……!?」
湯気とともに広がる、卵とバター、そしてデミグラスソースの濃厚な香り。
視覚と嗅覚への暴力的なまでの刺激。
「……美しい。まるで芸術品だ」
ジュリアン様はゴクリと喉を鳴らし、スプーンを手に取った。
リナさんの「意識高い系メシ」で枯渇していた彼の本能が、今、猛獣のように目覚めようとしていた。
(さあ、殿下。元婚約者が作る「背徳の味」、たっぷりと味わっていただきましょうか)
私はエプロンのポケットで腕を組み、その瞬間を待った。




