第1話
「シェリル・ウォルター! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!」
王宮の大広間。煌びやかなシャンデリアの下、王太子ジュリアン様のよく通る声が響き渡った。
音楽は止まり、着飾った貴族たちの視線が一斉に私――公爵令嬢シェリルへと突き刺さる。
隣でジュリアン様の腕にしがみついているのは、ピンクブロンドの髪をふわふわと揺らす男爵令嬢、リナさんだ。彼女は潤んだ瞳で私を見上げ、怯えたように身を縮めている。
「あ……シェリル様、ごめんなさい。でも私、ジュリアン様と愛し合って……」
「怖がらなくていい、リナ。僕が守るから。おいシェリル! 貴様がリナに対して行った数々の嫌がらせ、もはや看過できん!」
教科書通りの断罪イベントだ。
あまりにも予想通りすぎて、私は扇子の裏で口元が緩むのを必死に堪えなければならなかった。
(……長かった。本当に、長かったわ!)
私は扇子をパチンと閉じ、優雅にカーテシーを披露する。
背筋を伸ばし、顔を上げて、満面の笑みを浮かべた。
「承知いたしました、殿下」
「は……?」
ジュリアン様が間の抜けた声を上げる。
私が泣いて縋るか、怒って喚くと思っていたのだろう。残念ながら、今の私は砂漠でオアシスを見つけた旅人のような心境だ。
「殿下。私の至らなさにより、殿下の心を繋ぎ止めることができず申し訳ございません。この婚約破棄、謹んでお受けいたします」
「う、うむ。わかればいいのだ。……って、随分とあっさりしているな?」
「ええ、もちろんです。あ、そうだわ」
私はドレスの隠しポケットから、折りたたまれた羊皮紙を取り出した。
「こちら、既に父である公爵と国王陛下の署名をいただいた『婚約破棄合意書』です。私のサインも済ませてありますので、あとは殿下がサインするだけで完了いたします」
「なっ!? き、貴様、いつの間に……!」
「リナさんと殿下が『真実の愛』を育まれていると噂になった頃から準備しておりました。どうぞ」
私は呆気にとられるジュリアン様の手に書類を握らせる。
隣のリナさんが「え、え? シェリル様、怒ってないの?」と小声で呟いているが、構っていられない。
私は、この国一番の堅苦しい公爵家で育った。
食事は冷めきったテリーヌに、味の薄いスープ。会話は政治の駆け引きばかり。
だが、私には前世の記憶があった。
湯気の立つ白いご飯! 出汁の効いた味噌汁! ジューシーな唐揚げ!
それらが恋しくて恋しくて、夜な夜な枕を濡らした日々とも、今日でおさらばなのだ。
「それでは殿下、リナさん。末長くお幸せに。私はこれにて失礼いたします」
「ま、待て! 追放だぞ!? 貴様は国外追放……いや、辺境の修道院行きだ!」
背後でジュリアン様が何か叫んでいるけれど、私は振り返らなかった。
修道院? まさか。
私はとっくに、王都の外れにある『廃屋』を個人資産で購入済みだ。
さあ、行こう。
私の、私による、私のための美味しい人生へ!
◇ ◇ ◇
王宮を出て、あらかじめ手配しておいた辻馬車に揺られること三十分。
王都の喧騒から離れた、少し寂れた路地の奥にその店はあった。
元は倉庫だったというレンガ造りの建物。蔦が絡まり、窓ガラスは曇っているが、造りはしっかりしている。
私は重たいドレスの裾をまくり上げ、鍵を開けて中に入った。
「ふぅ……まずは着替えないと」
公爵令嬢としてのコルセットも、幾重にも重なったスカートも脱ぎ捨てる。
用意しておいた麻のシャツと、動きやすいズボン、そして白いエプロンに着替えた。
髪も邪魔にならないよう、高い位置で一つに結ぶ。
「……お腹、空いた」
緊張の糸が切れたせいか、強烈な空腹感が襲ってきた。
そういえば、断罪パーティーのために今日の昼食は抜いていたのだった。
まだ厨房機器は最低限しか揃っていない。
食材も、昨日こっそり運び込んだわずかなものだけ。
でも、今の私には「最高のご馳走」を作る準備があった。
私は木箱から、麻袋を取り出す。
中に入っているのは、東方の国から取り寄せた『お米』だ。
この世界では「鳥の餌」扱いされている雑穀米とは違う。品種改良を重ねた、白く輝くジャポニカ米に近い品種。
「よし」
井戸から汲んだ冷たい水で、米を研ぐ。
シャカシャカというリズミカルな音が、誰もいない店内に響く。
土鍋に米と水を入れ、かまどに火をつけた。
パチパチと薪が爆ぜる音。
しばらくすると、土鍋の蓋がカタカタと揺れ始め、蒸気とともに甘い香りが漂ってきた。
「ああ……この香り……!」
前世の記憶が呼び覚まされる。
日本の食卓。母の味。
冷めきった豪華な料理よりも、何百倍も食欲をそそる、穀物の優しい香り。
火を止めて、少し蒸らす。この時間が何よりも長く感じる。
頃合いを見て、私は土鍋の蓋を開けた。
――ほわぁっ。
立ち上る真っ白な湯気。
その向こうに、ツヤツヤと輝く銀シャリが顔を出した。
一粒一粒が立っている。宝石箱よりも美しい光景に、私は思わずうっとりとため息をついた。
「いただきます」
誰にともなく呟く。
茶碗はない。私は手を水で濡らし、塩壺から粗塩をひとつまみ取って、手のひらに広げた。
炊きたてのご飯を、熱さを我慢して手にとる。
あちち、と言いながら、リズミカルに握る。
強く握りすぎず、ふんわりと、かつ崩れないように。
三角の形に整えていく。
完成したのは、具も海苔もない、ただの『塩むすび』。
私はそれを両手で持ち、大きく口を開けてかぶりついた。
「んっ……!」
熱々の米粒が口の中でほろりと解ける。
噛むほどに広がる、お米本来の強い甘み。
そこに、キリッとした塩気がアクセントになって、甘みをさらに引き立てる。
シンプル。だからこそ、誤魔化しがきかない。
ただ米を炊いて、塩をつけて握っただけなのに、どうしてこんなに美味しいのだろう。
「おいしぃ……」
目尻から、じわりと涙が滲んだ。
公爵家での窮屈な生活。
「悪役令嬢」として振る舞い、周囲から疎まれた日々。
それら全ての疲れが、温かいご飯とともに胃の腑に落ちて、溶けていくようだ。
二口、三口と食べ進める手が止まらない。
あっという間に一つ目を平らげ、私はすぐに二つ目を握り始めた。
窓の外には、いつの間にか夜空が広がっている。
雲の切れ間から、綺麗な満月が顔を出していた。
「……そうね。お店の名前、決めたわ」
私は二つ目の塩むすびを頬張りながら、月に向かって宣言する。
「ここは『月待ち食堂』。美味しいご飯と、ちょっとした幸せを提供するお店」
こうして、元悪役令嬢シェリルの、第二の人生が幕を開けた。
まだ客は誰もいない。
けれど、私の心は炊きたてのご飯のように、ほかほかと温かかった。




