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母の家出

(壁の毒花、ひどい印象操作だわ)


 我ながら笑ってしまうほどに、


 傑作である。


 異常なことが正常で、正常であることが異常なのだと感じる。もう涙も出ない。


 それにしてもネーミングセンスだけは抜群である。思わず感心した。きっとどこかのご令嬢が端を発したのだろう。こういうことには長けている顔が数人思い浮かんだ。


「…どうしてこうなってしまったのかしら」


 窓から覗く月は、私の瑣末な悩み事など関係なくただ輝いていた。


「ここから逃げて、どこか遠くに行ってしまいたい」


 コンコン、と小さなノックが響いた。

 その叩き方にホッとしている自分がいる。音の主はお母様だからだ。


「マリーア?入るわよ」

「…こんな夜更けに、どうされたのてすか?」

「それはこちらのセリフだわ?真っ暗な部屋で灯りもつけずに夜ふかしを?目を悪くするわよ」

「いえ、本を読んでも内容がさっぱり入ってこないので、ただぼうっとしているだけです」


 栞を挟んだ読みかけの本を撫でた。折角読むなら考え事に支配されていない時に読まなければ、ただ文字が上っ面で滑るだけなのだ。


「本の虫の貴方にしては珍しいわね」

「そういうお母様こそ、珍しいですわね、こんな時間に訪ねてくるなんて…」

「ええ…」


 母は言い淀んで、瞳を泳がせている。私が余計な心配をさせてしまったからだろうかなどと思っていると、母は意を決したようにはっきりと言った。


「…実家に戻ろうと思うのよ」

「えっ……」

「マリーア、貴方も大変な時なのに…ごめんなさい」

「そんな、どうして…」

「そうね、お父様と一緒にいることに…疲れてしまったのよ」


 私は言葉を失ってしまう。母は悲しそうに笑ってから隣に座って私の肩を抱いた。


「…ねえ、貴方も…一緒に来る?」

「それは…嬉しいですけれど、でも、私はもうすぐ挙式を控えていますし…」

「そう、そうよね」


 母は肩からかけたストールを私の肩にそっとかけてくれた。


「これだけは覚えておいて。もし、貴方がダステムとの婚約を解消したいというのなら、いつでもシューリムにいらっしゃい」


 シューリムというのは、母の実家である。牧歌的な風景の、王都から少し離れた西の土地である。金が潤沢に採れ、皆豊かだ。しかし人々は昔ながらの穏やかな生活を好んでいる。


「…お母様、いつ出ていかれるのですか?」

「貴方と話が終わったら、すぐにでも」

「お父様はご存知で?」

「ふふっ置き手紙にね、恨み言を百個くらい書いてやったのよ!うふふ」


 母の笑顔を久しぶりに見た気がする。


(まさか、このまま離縁されるのだろうか…)


 決して仲が悪かった訳ではない、と思う。いや、むしろ私が子どもの頃は評判のおしどり夫婦だったのだ。けれど、最近の父の言動はどうも目に余る。それもこれもきっと…


「私のせい、ですか?」

「あら、随分と思い詰めているのね」

「お母様、私…」

「そんなんじゃないのよ、デビュタントも済んだ娘のことをあれこれ言ったって仕方がないじゃない。貴方の人生だわ、思うままに生きなさい」

「思うまま…」

「お父様はあれでも貴方のことが心配なのだわ、心配しすぎて拗らせてるのよ」

「私はお父様が恐ろしくてたまりません」

「…私もね、貴方と同じ。近頃、お父様に対して萎縮してしまうのよ。だから本当は貴方のこと、有無を言わさず連れ去って、シューリムでのんびり暮らしたいの。お祖父様もお祖母様も手放しで喜んで迎えてくれるわ。でも、私がそれをやったら…私もお父様と同じになってしまうわ」

「…お母様…」

「私は貴方の意思を尊重します。もし何もかも嫌になったら、貴方の意思でシューリムに来なさい」


 母はそう言って立ち上がると、扉を開けた。その背中は決して覆らない硬い意思を背負っているように見えた。


「もう、行ってしまわれるのですか?」

「…身体を大切に。それ以上に心を大切に生きなさい」


 その腕を引っ張って「考え直してください」と言いたくなる気持ちをグッと堪えた。


「お母様、またすぐ会えますか?」

「ええ、もちろん。私と貴方は親子なのだから。いつでもいらっしゃい」

「っっっ!」

「いい?マリーア、これだけは覚えておきなさい」

「はい…」

「逃げたくなったら、逃げてもいいのよ」


 最後に振り向いた緑色の瞳に月明かりが反射していた。少し潤んでいるように見える。


 母は扉の外に置いてあったスーツケースを持ち上げると、その鞄ひとつ持って本当に出ていってしまった。


 窓の中から一歩ずつ屋敷を離れていく母を見送る。肩にかけられたストールから、母の匂いがした。


(お父様は、どう思われるのかしら…。これから、どうなるのかしら…)


 結局、部屋の明かりをつけることもなく、窓辺で呆然としているうちに夜が明けた。

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