偽薬
リシュエルに甘やかされる日々は、あまりにも幸せで、夢のような日々はあっという間に過ぎていった。
「王都へ?」
暖かいサンルームで、サモワが何度も改良を重ねたハーブティーを飲んでいた時のことだった。
「そろそろ結婚式の準備をしなければ。しかし残念ながら、シューリムには装飾品以外があまり充実していない」
「そう言われてみれば…そうねえ」
「マリーアが毎日ホーネスト家へお祖母様方の様子を見にいってくれているのも大きいんだろう、トノール夫妻は君がいつまで滞在しても構わないような口ぶりだったが、さすがにそろそろ顔を出した方がいいと思うんだ」
「手紙でやりとりしている分には元気そうだけれど、私も心配だわ」
長い指が、さらりと私の前髪を払った。
「…怖いかい?」
「いいえ、そんなこと…ダステムの裁判がそろそろ始まると聞いているし、どうやったって二度と関わらない、関われないわ」
「うん、その通りだ」
大きな手が私の頬を包む。
「随分、痕が薄くなった」
「サモワと、貴方のお陰よ」
頬を包むその手を、私の両手で包む。
「…貴方の頭痛も、良くなってきたわね」
「君とサモワのハーブティーがあれば、もうほとんど薬に頼る必要がない」
「キースから聞いたわよ。貴方、薬の数を数えないで飲んでいたんですって?」
「今はそんなことしないんだから、良いだろう?毎日こうして君と過ごせるなんて贅沢が、僕にとってはこれ以上ない薬なんだから」
「…はぁ……」
私がため息をつくだけで収まったのには訳がある。
『…偽薬?』
ある日の早朝のことだった。この日はなぜだか早く起きてしまい、ヤイルが入れてくれたホットミルクを飲みながらリシュエルの幼い頃の話をしていた。
するとヤイルは『マリーア様に話しておかなければ』と言って話し始めたのが、リシュエルの頭痛薬のことだったのである。
私の問いかけに、執事は真っ白な眉尻を下げて頷いた。
『もう、何年も前のことです。…服薬の間隔を無視して飲もうとされたことがありました。リシュエル様の父君…前ハイデンロー伯爵様が、とっさに薬と偽ってラムネ菓子を口に放った。形が似ていたのですな』
『でも、痛みは消えないでしょう?』
老執事は首を横に振った。
『それが立ち所に頭痛が消失したのです。それ以来、リシュエル様が頭痛薬だと思って飲んでいるものは、実は……ラムネ菓子なのです』
『リシュエルはそれを知らずに、何とか薬の量を減らそうと…?』
『恐らく、頭痛の原因は強いストレスによるものなのでしょうな。サモワもその辺りをよく理解してハーブティーを調合しておるのです』
ヤイルは遠い目をしていたのを止め『このことはご内密に』と言って、私に向き直って低頭した。
『マリーア様がハイデンロー邸で過ごすようになってから、その偽薬が一切減っておりませんから、恐らく飲んでいないのでしょう。なら、ほとんど頭痛が起きていないことになる。…マリーア様に感謝申し上げます』
ヤイルはなかなか頭を上げなかった。
リシュエルは穏やかな笑顔で私を覗き込んだ。
「サモワや君には本当に頭が上がらないな」
私はぽつりと「それは違うわ」と言った。
「うん?」
このことはご内密にと言ったヤイルの声が頭の中で反響した。
「ううん、何でもないわ」
「…トノール夫妻には俺から手紙を書こう。一週間後、王都へ経つがそれで良いか?」
「ええ」
リシュエルが書斎に戻ったので、庭園で庭仕事をするサモワに声をかけた。
「いい天気で、仕事が捗るわね」
「マ、マリーア様っ!」
サモワは慌てて何かを隠した。「ん?」と思って覗こうとするけれど、どうも見せてはくれないらしい。
サモワは少し焦りながら、どうにか話題を変えようと必死である。
「…と、ところで、新しいハーブティーはどうでしたか?」
「先ほど頂きましたわ。酸味が強くて私好みよ、ありがとう」
「それは何よりです。今夜から湯浴のハーブも調合や香りを変えてみましたので、ぜひ感想を聞かせてください」
「それは楽しみだわ!」
私は前髪を上げてサモワに額と頬を示した。
「見て、随分と痕が薄くなったでしょう?」
「っっっ!…ええ、確かに殆ど目立たないかと…」
「サモワ?」
「いえ、その…前髪を上げている方が似合います」
「そうかしら?」
思えば確かに昔はよく前髪を上げたり分けたりしていたように思う。
(ただお転婆で、前髪が邪魔だっただけなのだけれど…)
「す、すみません!私のような者が…マリーア様の髪型に口を出すようなことを…」
「そんなに畏まらないで」
私は確かにそうねと思って、明日から前髪を上げてみることにした。
(せっかく痕が目立たなくなってきているのだし…)
リシュエルがどんな顔をするか想像すると、わくわくした。
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