くちづけ
リシュエルは、どうしても一度私と二人でシューリムに戻りたいという。
彼が父と母に頭を下げると、両親は突然のことに驚きはしたものの、これまでのリシュエルの立ち回りや私への想いを強く知ることになり、ほとんど二つ返事で了承した。
『娘を任せるにはリシュエル殿しかいないと思っている。至らないところも多くある娘だが、どうか二人で幸せになって欲しい』
父の言葉に、胸が締め付けられる思いがしたが、母の言葉にも驚かされた。
『こうなるだろうと思っていたわ。マリーア、貴方はきっと、リシュエルとシューリムから離れて生きていくことはできないのよ』
馬車に揺られる道中、リシュエルは溜まった書類に目を通しながら、時折私の髪を掬ってはくちづけを落とした。
微笑みを返す私にどこか疲労の色が見えたのだろうか、リシュエルが言った。
「…眠るなら肩を貸そう」
「リシュエルこそ、少し休んだら?」
「ん、ありがたい。そうさせてもらおう」
肩を貸すつもりでいたが、リシュエルは私の膝に顔を埋めた。
「リシュエル!」
「すまない、少しだけこうしていたい」
手を伸ばして私の頬に触れると、安心し切った顔ですぐに眠りについてしまった。
仕方がなく、そこここに散らばる書類を束ねてから、窓の外を見る。
もうすぐシューリムに着くだろう。
(一日で着くとはいえ、昼も食べずに、リシュエルは大丈夫かしら…)
そんなことを考えていると、ぐうとお腹がなってしまった。
リシュエルは小刻みに震えると、堪えきれずに大笑いしている。
「寝ていたんじゃないの!?」
「いやあ、すっかり目が覚めてしまった。あはははは!」
顔を真っ赤にして睨むと、「悪い悪い」と言ってやっぱり笑っている。
「着いたら、すぐに軽食を用意させよう」
「っっ…」
「そんなに恥ずかしいか?俺はマリーアの一面が知れて嬉しいのに」
「恥ずかしいに決まっているわ!こんな…」
「……へえ?」
顔がずいと近づいて鼻と鼻が触れた。
「…え?」
「そんな君も愛しいなあ」
「お、おかしいわ!?お腹が鳴ってどうしてこんな風に…」
「こんな風に、何?」
(だって、まるでくちづけするみたいに…)
すり、と長い指が頬を撫でて吐息が混ざる。ぎゅうと目を閉じた時だった。
ガッタン、と馬車が大きく揺れる。
御者が大慌てでノックをすると「失礼しました!石に乗り上げたようです!お怪我はございませんか!?」と問うた。
リシュエルは片眉をあげて困ったように笑う。
「だ、大丈夫よ!貴方も怪我はない?」
私の上擦った声に、御者は少し不思議そうに「はあ、私は大丈夫です」と言った。
再び動き出す馬車で、私は窓の外を眺めることしかできなかった。
✳︎ ✳︎ ✳︎
ほどなくしてシューリムに到着した馬車が停車したのは、ハイデンロー邸でもホーネスト邸でもなく、小高い丘の上だった。
歩く度に、さくさくと芝生の音が心地いい。
一日馬車を走らせて辿り着いた景色は、言いようもないほどに美しかった。
「…まあ!」
「綺麗だろう?夕陽で街並みが、まるで燃えているみたいに赤々としている」
「あれがホーネスト邸、そのすぐ下にハイデンロー邸が見えるわ」
まるで二つの屋敷が支え合って立っているみたいだ。ホーネスト邸の壁や玻璃が太陽を反射させてキラキラと輝いている。
「…マリーアを、どうしてもここに連れて来たくて」
「確か…子どもの頃に一度リシュエルに連れてこられたことがあったような」
「そう、ここで君に求婚の真似事をした」
「あっ…」
『マリーア、俺と結婚して欲しい』
『おかしなリシュエル。婚約したのだから、大人になったら結婚するんでしょう?』
『婚約する前に、求婚するものなんだぞ』
『そういうものなの?』
『そういうものさ。だからマリーアには、俺の特別な場所を教えてやるんだ』
『とても綺麗ね。リシュエル、またここに連れてきて欲しいわ』
『結婚したらいつだってここに来よう、二人で』
そんな昔のことを思い出して、リシュエルの顔を見ると真剣な眼差しで私の手を取った。
「マリーア、俺は生涯かけて君を愛し抜く。どうか、俺と結婚してくれないか」
「っっっ…!」
「君の不安を取り除き、君に降りかかる困難を払おう。だから…」
「それは違うわ、リシュエル。いつまでも護られてばかりでは、ハイデンロー家の夫人は務まらない。二人で乗り越えていきたいの」
「それは駄目だ。俺がそうしたいんだから!毎日君を甘やかしたいんだ」
「あら!それなら交渉決裂だわ」
「マリーア!」
どちらともなく笑いが込み上げてくる。お腹を抱えて笑い合った。
「ふふっ」
「ああ…君といられれば俺は幸せなんだ。ずっと側にいてくれ」
「勿論だわ」
「恋が実るというのは、こういう気持ちなんだな」
「リシュエル?」
リシュエルの前髪が私の顔にかかる。柔らかい唇が触れた。
そのくちづけに心まで溶かされてしまいそうになるのを、必死に堪えた。
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