リーンの策略(後半、リシュエル視点)
それから暫くは平穏に過ごした。火傷を治すことだけに専念する日々だ。
そう、至って普通。リシュエルから届く手紙に、なんて返事をしたらいいのか分からなくなって、書きかけで止まっている便箋が溜まっていく以外は。
「まあ!またカーテンを開けずに暗い中で読書を?たまには庭園で読まれないのですか?あんなに金木犀の下がお気に入りだったのに…」
カーテンを開けながらリーンが言った。柔らかい光が部屋中に広がって、ごく細かい埃がキラキラと輝いている。
「だって…」
(もしまたシャボン玉が見えてしまったら…私、どうしたら良いか分からない)
リーンがため息をつきながら、窓を細く開けた。
「まるでここに来る前のマリーア様を見ているようです」
「…え?」
ダステムに萎縮して、世の中の全てから顔を背けていたあの頃の私。こうも簡単に揺り戻されてしまう。
侍女は、ベッドの上で膝を抱える私を覗き込むと、困ったように微笑んだ。
「火傷も随分と良くなりましたから、明日の為に薄く化粧を施して問題がないか確認したいのですが」
「明日?明日って…」
「王都へ帰る日ですよ」
「……え?」
あれから十日程の時間が過ぎていた。机の上に広がるリシュエルからの手紙は、一体何通あるのだろう。
込み上げてくるこの想いは、悲しみなのか、自分に対する不甲斐なさなのか。
「私、化粧は…」
「まだ、そんなことを言っているのですか?」
「まだ…?まだって…」
(あれ?私、なぜ化粧をしなかったのだったっけ…)
デビュタントを迎える前は、流行りの化粧こそしなかったけれど、リーンが薄化粧をしてくれていたはずである。
(どうしてだったかしら)
なぜか化粧をしてはいけない気になる。
『マリーアには、自然の美しさがあるなあ』
(あれ?)
『あんな流行りの化粧はマリーアには似合わないからなあ』
(これは…)
『地味なお前には誰も見向きもしない』
(誰の声だっけ)
『俺だけがお前のことを愛してやれる』
「マリーア様?マリーア様!?」
「っ!…え?」
驚き顔を上げると、リーンはホッとしたような顔をした。
「やはり、王都へ行くのはお寂しいですか?」
「…そう、なのかしらね」
「もしよろしければ、これから気分転換に行きませんか?」
「行くって…どこへ?」
「せっかく久しぶりにお化粧をしてみるのですから、出かけなくてはもったいないと思いませんか?」
「えっと…だから化粧は…その、まだ火傷が…」
私がやんわり否定すると、リーンは私の肩にそっと手を置いた。
「マリーア様の火傷は治っています。色素沈着が残ってしまったところをカバーして、薄く口紅を塗るだけにしましょう」
「で、でも……」
「もう、ダステム様のことは気にされなくて良いのですよ」
「……え?」
「その呪縛から解き放たれる時が来ているのです」
「呪縛?呪縛って…なにを言っているの?」
「お気づきではないのですか?マリーア様がお化粧をされなくなったキッカケはダステム様ですよ」
その時、私の中で何かが弾けた。
✳︎ ✳︎ ✳︎
そわそわする。
流行りの喫茶店は満席である。
昨日のことだ。ホーネスト邸から使いの者がやって来た。
リーンという、マリーア付きの侍女。
リーンの来訪に、殆ど期待していなかった手紙の返事が来たのかと心臓が落ちてしまいそうだった。
(返事が来ることはないとわかっていながら、それでも認め続けた手紙だ)
ところが、リーンの口から発せられたのは意外な言葉だった。
『明日、お時間を作って頂けませんか?』
それで、最近できたばかりの喫茶店を指定されたのだ。
(いずれマリーアの話ではあるのだろうが…)
マリーア本人が話せないような内容なのではないか、と思うと気が重くなった。
それにしても、と思う。
(この十日間、坂の上ばかり見上げていたな…)
カランカラン、
ドアベルが来客を知らせる。
待ち合わせの時間にはまだ随分早い。肘をついて窓の外を見た。
「まあ」「わあ」
周りの客が俄かに騒がしい。ふと視線を上げると、そこにはかつての美しいマリーアが立っていた。
「……え?」
「リーン、これはどう言うこと?」
主人に呼ばれた侍女は、ぺこりと頭を垂れると言った。
「リシュエル様に怒られようと、マリーア様に叱られようと、今日お二人を合わせないわけにはいきませんでした」
「それは…どういう…?」
「…私の口からではなく、マリーア様からお伝えした方が良いでしょう。私は外で待っています」
去ろうとするリーンの背中に、慌ててマリーアが駆け寄ろうとする。
「…マリーア様、今日伝えなければ後悔します。私はいつまでも待っていますから、二人の時間をお過ごしください」
「で、でも…」
「ご安心ください。奥様の許可はもらっていますから」
再度ぺこりと頭を下げると、リーンは本当に店外に出て行ってしまった。
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