婚約は破棄された。
カランカラン、
来客を告げる軽やかなドアベルが鳴る。
最近できたばかりのカフェは、うまく流行を取り入れていて客足は絶えない。
「ねえダステム、私フルーツタルトが食べたいわ」
ティファニー・レーレン子爵令嬢の声が無意識で遮断される。ウェイトレスが「ご注文はお決まりでしょうか?」と頭上で問うた。
(くそ!!)
何もかもに腹が立つ。
この頃父と顔を合わせれば、マリーアと彼女の父親であるトノール伯爵の話ばかりだった。
何度も書面が送られてきて、父も参ってしまい、つい三日前に我慢の限界を迎えたのだ。それで
『さっさと婚約を解消しろ!!』
と迫られてしまった。
『衣装代の金はきっちり返せ!!取っておいてあるんだろう!?』
使い込んでしまっただなんて口が裂けても言えない。僕のプライドが許さない。
挙げ句の果てには
『そもそもお前がマリーア嬢に求婚したと聞いた時は、なぜよりによってあんな辛気臭い令嬢にと思ったんだ!まさかお前は、爵位欲しさに結婚を急いだのか!?それともトノール家の資産目当てに求婚したのか!?』
(うるさいな)
あのハゲ親父には、マリーアの良さなんて百分の一も分かるものか。
(初めて見た時のあの胸の高鳴りを、今も覚えている)
どれだけ根回しをしたと思う。どれだけ手間暇をかけたと思う。彼女のプライドを潰し、僕のことだけを思考する女になるまで…
「…二年だ」
「ダステム!?ちょっと聞いているの!?」
ティファニーはオーバーに釣り上げられた細眉を下げている。
(滑稽だな)
そう、マリーアは自然の美しさが誰よりも際立っているのだ。形の整った眉、大きく澄んだ瞳、熱ったような唇。
完璧だ。
なのに。
あると言い切った金を、返せるはずもない僕は婚約破棄をだいぶゴネた。
父も金なんてないことに薄々気がついていたのだろう、けれど父にだって返済する財力は持ち合わせていないのだ。
それが、何枚目かの手紙で『衣装代のことは目を瞑る、それでいいから婚約破棄して欲しい』と認めてあったのだ。
これ以上問題を増やしたくない父は、この好機を逃すまいと、僕を説得した。
(僕の二年間を…!!)
それで、あっさり婚約は解消されてしまったのだ。
一番解せないのは、マリーアが僕に会いたいと言ってこないことだった。本音を言えば、マリーアに会って直接分からせてやりたかった。
(マリーア、なぜ何も言ってこない!?このままでは本当に…)
「ダステム!ねえ、ダステムってば!」
「うるさいんだよ!!!!」
立ち上がり、机を叩いた。ウェイトレスは肩をビクつかせて硬直している。
はあ、はあ、と息をあげて周りを見渡すと、そこにいる客や従業員はみんな僕を見ていた。
しん、とした静寂が、ものすごい圧迫感に感じられる。
(くそ!)
どっかりと座り込んだ僕を、ティファニーは「どうしたのよ、いきなり」と問うた。
「試飲会の日から、お兄様も変なのよ?」
ティファニーはあの場に居合わせたレーレン子爵令息の妹である。
(…化粧臭い)
彼女は、おどおどしている店員に向かって「ブレンドのコーヒーを二つ」と注文した。
そそくさと去っていく店員を見送ると、大袈裟にため息をついた。
「マリーア様はご存知なの?私たちが会っていること」
「なぜそんなことを聞く」
「だって、マリーア様はお母様と一緒にシューリムへ行かれたそうじゃない?」
「……え?」
「うちもエイジングワインを買うことにしたのよ。それで出入りしているトノール家の使用人から侍女が聞いたそうよ」
「なぜエイジングワインとトノール家が繋がるんだよ」
「だってほら、今年トノール家のワインが試飲会で選ばれたでしょう?」
「…なんだって?」
「試飲会に行っていたのに知らないの?」
なるほど、下戸のトノール伯爵があの会場に居合わせたのはそういう訳だったのか。
そうと知っていれば、衣装代を使い込むこともしなかったのに。
(余計なことを。つくづく腹が立つ)
それにしても、と思う。
マリーアをシューリムに向かわせたのは今回の件がきっかけか。母親と一緒にいるのなら、常に監視されていて、彼女は僕に会いたくても会えない訳なのだ。手紙のやり取りも難しいだろう。
(僕たちは愛し合っているというのに、親同士が揉めている)
僕の苛立ちを他所に、目の前のご令嬢はまだ惜しそうにタルトのイラストを眺めている。食べたければ食べれば良いのに、つくづく女は面倒臭いと思う。それに比べてマリーアは、そんな事はしないのだ。
「今年の建国祭が楽しみだわね」
「…うん?」
「ほら、毎年試飲会で選ばれたワインが振る舞われるじゃない?一年間は王族に献上される決まりだし、ダステムも婚約者の父君の栄誉に鼻が高いわね」
その時ひとつ閃いて、「ああ」と返答したものの変に声が上擦った。
「ダステム?」
「そうだ、その手があったなあ」
「?」
「教えてくれて感謝するよ、ティファニー」
彼女は下を向いて、手をもじもじとさせた。
「じゃ、じゃあ、あの事はもう忘れて…」
運ばれてきたコーヒーを一口飲んで、細く長い吐息を漏らす。
緊張を孕んだ細い指にそっと触れた。
「…それはできないなあ」
追い詰められた人の鬼気迫る顔は、厚く塗られた白粉でも隠せない。
「取り敢えず、取り寄せているというエイジングワインを五本、渡してくれないか」
殺人を頼まれた訳でもないのに、酷く狼狽した顔を見せて彼女は長い熟考の後、折れるように頷いた。
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