かつての婚約者(リシュエル・ハイデンロー伯爵視点)
「トノール夫人が帰られているのか?」
マリーアは、と言いかけて言葉を呑み込んだ。
それを察したらしい執事のヤイルは真っ白な眉毛をぴくりと上げると、言った。
「マリーア様はご一緒ではないそうですな」
「ふうん、そうか」
「…まったく、素直じゃありませんな」
「マリーアが帰ろうが王都にいようが、俺には関係のないことだ」
「年に一回、帰って来られるのを心待ちにしていらっしゃるくせに。そのポーカーフェイスも、マリーア様のことになると動揺は隠せませんか」
執事は、意地悪っぽい顔で俺の右側へ手を伸ばす。「その証拠にほれ、明らかに本数が増えている」と言って灰皿を下げた。
「待て待て」
「今日はもう、およしになったら良いでしょう」
「っっっ!…しかし妙だな、いつもなら夏のバカンスでシューリムに戻ってくるのに」
「ほう?」
「だから!そういうんじゃなくて!」
「はいはい。左様でございますか。なら特段レイニーが小耳に挟んだ話などは、お耳に入れなくてようございますな」
さっさと立ち去ろうとする執事を慌てて引き止める。
「ちょ、ちょっと待て!」
「まだ何か?」
「その…シューリムに関わることはきちんと把握しておきたい」
「…果たしてマリーア様が帰ってくるたび、何か理由をつけてホーネスト家に足を運んでいるのはそう言う理由でございますか?リシュエル様」
「ぐっ…」
「はあ、素直になられたら良いですのに…」
俺は頭を抱えて机に肘をついた。
「どんな資格があって…」
「坊っちゃまのせいではございません」
「……俺はもう幼い坊っちゃまじゃない」
「左様でございますな、リシュエル・ハイデンロー伯爵」
ぎしっと音を立てる回転式の椅子に深く背をもたれて、くるりと窓の方へ方向転換した。
「子どもの頃に親同士が決めた結婚話だ。父が一方的に破談にしたことで、どれだけあちらの面子を潰したと思う」
「それでもマリーア様を愛しておられたのでしょう?」
「子どもの頃の話だ」
「そして今もなお、愛していらっしゃる」
「………」
「図星ですかな?」
立ち上がり、「馬鹿なことを」と言って掛けてあったジャケットを羽織った。
「マリーアは王都で好きな男を見つけて、婚約したんだろう?めでたいじゃないか」
「…私は、リシュエル様が痛々しくて見ていられませんでしたな」
(覚えている)
庭で剪定してもらった花をだしに、マリーアの母君の生家であるホーネスト邸を訪ねた時、耳にしてしまった。
後にも先にも、胸の痛みを訴えたのはあの時だけだ。
(あの花は、どうしたのだったか)
「俺たちは親同士が決めた結婚。それに対して今は好き同士で婚約したんだ。つまらんことを言うな」
ヤイルはそれ以上何か言うのを止め、淡々とお茶を入れた。
(ダステム・リンドーネ侯爵令息……)
王都に呼ばれた際、何度か見かけたことがある。みてくれには気を遣っているようだったが、ヘラヘラとしていて、華美で、良い加減な印象を受けた。
正直、あんな男がいいのか、と思ったのは事実である。
それもただの未練でそう思っただけに過ぎぬのかもしれない。
(それか、つまらぬ嫉妬か。はたまた執着か)
馬鹿げている。
かつての婚約者に対して何を思ったところで、俺には関係のないことなのだ。
今思ってやれるのは、彼女の幸せだけなのである。
「十年か…」
ぽつりと言ったその言葉を、ヤイルは聞こえていないふりをして、入れたばかりの紅茶を机に置いた。
湯気が表面を滑っている。
その熱そうな紅茶を眺めているうちに、気だるい午後が過ぎていった。
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