彼女の瞳は何も映していない
アルシェンの侍従に釣り道具を用意して貰う間、二人は並んで湖の畔を歩いていた。
城の近くには小舟が繋がれていて、簡易的な釣り小屋が見える。
侍従が道具をそこに取りに行って戻ってきた。
「餌が無くても釣れるかしら?」
「釣れはするかもしれないが、時間はかかりそうだな」
アルシェンが目を向ければ、侍従が頷く。
「使われるのでしたら、ご用意できますが」
「じゃあ、頼む……ん?あれは何だ」
城の方を見たアルシェンが疑問の声を上げたので、シヴィアも顔を上げて見ると、上半身裸で腰布を巻いた帝国の使用人達が、大きな物を担いでこちらに歩いてきている。
「まさか、船か」
「は。船遊び用の船でございますね」
侍従がアルシェンの問いに答える。
この湖に浮かべて遊んだのかしら?とシヴィアが首を傾げれば、侍従は少し微笑んだ。
「運んでいるのを見ただけで、こちらで使用されたというお話は聞いておりません」
船と共に二人を乗せた輿が、男たちの肩に担がれてやってくる。
仰々しいその姿に、思わずシヴィアも笑みを浮かべた。
「船を浮かべよ」
主人の命に従って、優に大人十人は乗れそうな船が、先頭の人間の顎に水が付こうかという深さまで進んで、湖に浮かべられた。
船には支柱があり、屋根と垂れ布で囲われている。
部屋にあったような枕が設えてあり、乗り込んだ侍女達が食べ物や飲み物を用意した。
「特別に乗せてやろう。来い」
アルシェンは少しムッとした顔を見せて、シヴィアを振り返るが、シヴィアはくすりと微笑んだ。
「参りましょう、アルシェン。さすがにお誘いは断れないもの」
はあ、と盛大にため息を吐くさまを見せて、アルシェンは船にひらりと飛び乗った。
シヴィアは侍従とアルシェンの手を借りて、船に乗り込む。
給仕をする侍女が一人、護衛が二人、漕ぎ手が一人。
そして皇子と王子と皇女と公女。
「ねぇ、不思議に思ったのだけど。伯爵令嬢如きが、何故私達の所に遣わされたのです?」
「大方第一王子の婚約者なのだろう」
「だとしても失礼じゃなくて?」
疑問に思うのも仕方ない。
アルシェンがシヴィアの代わりに説明した。
「彼女は次期公爵だ。今も身分的にはそのように扱われている。まあ、将来的に王妃になる可能性は否めない」
「へぇ、彼女が好きですの?」
「好きではない」
皇女の揶揄う様な言葉に、照れ隠しで言ったのかと思えば、真剣な顔でアルシェンは続けて言った。
「シヴィは私にとっての唯一無二だ」
ぽかん、と皇女は口を開けたまま固まる。
まさかそんな重い告白を聞くとは思わなかったのだろう。
シヴィアは、真摯な愛の言葉に少しだけ心を波立たせた。
「貴女はどうなのです?ねぇ?」
食いつきの凄い皇女に詰め寄られて、穏やかな笑みを浮かべたままシヴィアは答える。
「最終的な返答はいつかお答えする予定ですけど、今は友人ですわね」
「なあんだ、そうですの。ふうん」
「ならば、俺の付け入る隙もある訳か」
「それはございませんね」
一刀両断されて、皇子は目を見開いて驚いた。
まさか、断られるとは思わなかったのだ。
近くに居た侍女もあんぐりと口を開けている。
「何故だ」
「何故と申されましても……元々わたくしは誰かに嫁ぎたいと思っておりませんの。ましてや国を離れてまで、など考えられませんわ」
大国の皇后の座をそんなに簡単に蹴るのか?と怪訝な顔をしてアルシェンを見れば、アルシェンは何故か得意げな顔をしている。
思わず皇子は突っ込みを入れた。
「いや、何故そんな顔をしているのだ。お前今振られたぞ?」
「いいや、振られたのはお前だけだ。私は振られていない。私への返事は未来に貰うと約束しているんだ」
男同士の不毛な言い合いに、皇女はシヴィアを見る。
男二人が取り合う姿に、さぞや自慢げな顔を浮かべているのだろうと思ったが、シヴィアは湖を静かな目で見つめていた。
何も、そこには、喜びすら無い。
「何故……貴女は……」
ぼうっとしたまま声をかけると、シヴィアは気付いたように何事も無かったように穏やかな笑みを浮かべて、釣り糸を湖に垂らした。
シヴィアの悲しさに気づいたのは皇女だけ。
だからこそ、心を許し、興味を惹かれた。




